元W杯選手が味わった解雇通告。市川大祐が半年の無職生活で得られた「心の火」
17歳、1998年高校3年生に進級する直前、市川大祐は清水エスパルスのトップチームに入り、Jリーグデビューを飾った。そしてそのままとんとん拍子で階段を駆け上がり、日本代表にも選ばれる。

同年の仏ワールドカップメンバー入りこそ直前で逃したが、その後のオーバートレーニング症候群を乗り越え、2002年日韓ワールドカップには出場。グループリーグ第3戦、決勝トーナメント進出を決定づける中田英寿の追加点をアシストした。

だがそんな市川にも転機が訪れる。2010年、長年プレーしたエスパルスから「0円」提示、契約延長しないという通告を受け、生れ故郷を離れることになったのだ。そのとき、市川は何を思ったのか。家族はどう対応したのか。そんな苦しい時代と、市川が現役時代に聴いていた歌を聞いた。


【取材:森雅史・日本蹴球合同会社/撮影:高野宏治】


18年在籍した古巣からの提示金額



2010年度にエスパルスを退団したときって、もちろん育ててもらったという感謝の思いもあったし、ジュニアユースから18年間いたんで寂しさもあったし、エスパルスでプレーすることが当たり前というか、自分の中でのベストだと思ってやってきてたんで、それが来年話がないって……。何が起きてるかまったくわからなかったです。

練習終わった後に呼ばれて、話をしている中で「0円」提示があって、最初は何が起きてるかまったくわからなくて、「え?」って。確かに膝のけがはあったんですよ。だから厳しい提示になるだろうなって予想はしてたんです。

いろんな話も想定してて、今季はこういうところで結果が出なかったからこれぐらいの提示だろうなって。でも「0円」っていうのは自分の中でのイメージがまったくなくて。

何と言うんですかね……現実に起きてることなのか、まったくわからなかったです。会社員の人がいきなりクビって言われるのと同じです。まったく予想もしてなかった。

すぐ妻に電話したんですけど、妻もちょっと言葉をなくしてましたね。気持ちを整理するまではすごく難しかったし、もちろん悔しさもそこにはあって。

でもそこで一つ思ったことは、その「0円」提示を受けてから、まだエスパルスでやれる期間って、天皇杯の決勝まで行くとしたら1月1日まであるわけじゃないですか。その時間を大事にしなきゃいけないなって。

(長谷川)健太監督にも言われたんですよ。「終わり際、去り際ってすごく大事だぞ」って。僕自身も「そうだよな」って思えて。

今までやってきたことが評価されてるのに、最後に嫌な形で終わるのってすごく寂しいじゃないですか。だから最後までしっかりと自分で今出せるものをちゃんとやって出て行かなきゃいけないなって。

いいときは何でもよくできるんですよ。でもうまくいかないとき、思うように物事が運べないときに、どういう姿勢でいられるかって本当に大事だと思ったんで。

もちろん「0円」提示された後はすごく悔しい思いもあったし、いろんなことを言葉にしたいというのがありましたけど、それは今自分がやるべき仕事じゃないなって。自分の仕事はエスパルスで、オレンジのユニフォームを着てピッチで自分を示すということだなって。

ホントはすごく気持ちの波がありました。外からは見えなかったかもしれないですけど、自分の中ではあったんですけど、それも理解しながらやってる感じでした。

自分の見せ方って本当に難しいと思います。感情のまま伝えることは大事だし、そのほう が伝わることもあるし。でも伝えないって言う美学もあったりするし。そこは今でも難しいと思いますけどね。

ただ、エスパルスでプレーができたっていうのは、清水にプロサッカーチームができたからで、そこから考えたら、自分のスタートを与えてくれたのはエスパルスなんで、感謝していることには変わりはない。

それに僕のサッカー人生が、エスパルスでプレーしなくなったからって終わるわけじゃないし、逆にその後のサッカー人生をどうしていこうかって考えられるようになって。

そういう経験を積み重ねることによって、年の感じ方というのが変わってきましたね。次に新しい場所に行くときはとても楽しみというか。もちろんサッカーを楽しむというのもありましたけど、その土地を楽しもうって考えられるようになったんです。



「もうダメか」擦り切れた心に灯った火



(移籍先が)甲府、水戸、藤枝、今治、八戸……引っ越ししたらすぐ次の場所って感じじゃないですか。そういう部分では家族に苦労させたと思います。精神面もそうだし、引っ越すときの労力もあるし。何よりクラブを辞めることになると、妻もそれだけショックも受けるし。

でも妻が言ってくれたんです。「納得するまでやってほしい」って。「もうそろそろ辞めれば」って言うんじゃなくて、僕ができるところまでとことんやらせてくれた。そこはもう感謝しかないです。

いろんな選手がサッカーを続けたいけど、家族がいてお金の面を考えると続けられないという現実を突きつけられてるのは知ってました。でも僕の場合は妻がすごく理解してくれて、自分の両親もどこまでもサポートし続けてくれたんで。

それを一番感じたのが、僕が藤枝を退団したあと半年間、フリーというかどこもクラブがなくて、でもまだプレーを続けるために1人でトレーニングを続けていたときですね。そのときって、何も確約されたモノがないんですよ。トレーニングを続けてれば、どこかクラブに行けるっていうものがなかったんです。もちろん収入もないし。

それでも妻は文句一つ言わないで、朝、僕が練習に出ていって、一度帰ってきたあとはプールやマッサージに行ったりしてたんですけど、それに対してそれまでのように、自分が現役選手だったときのような生活を送らせてくれてました。

子どもはまだ小さかったんで、僕の仕事がなくても、逆にいつも僕が家にいてうれしかったみたいですね。これが小学生ぐらいだったら「いつも家にいるけど大丈夫?」って不安になったんでしょうけど。僕自身も子どもとの時間ができたんで、その時間だけは焦りも少しだけ薄まるというか。サッカーを忘れはしないんですけど。それで僕は心のバランスが取れてました。

家族以外にも支えてくれる方々がいて、自分の心が擦り切れて「もうダメか」と火が消えそうなところで、もう一度力をくれる方々がいて。その1人がエスパルスでチームメイトだったトシ(斉藤俊秀)さんでした。最初はトシさんが選手兼監督だった藤枝に誘ってくれて、僕が藤枝を退団した後も、常にポジティブな言葉を言ってくださって。

自分も最初はモチベーション高い中でトレーニングをやっていたけど、2月にそういう生活が始まって5月ぐらいになってきたら焦りも出てきて。それでもなかなか話がないので、これからはいろんなチームに行ってテストを受けて入団しなければいけないなって思ってました。そんなときに今治のオーナーになっていた岡田武史さんから電話があったんです。

実は岡田さんは僕のところに電話する前に、一度トシさんに連絡したらしいんですよ。「今、イチ何やってる?」「ずっと1人でトレーニングしてますよ」「どうだ、やれそうか?」「やれますよ」ってトシさんがプッシュしてくれたらしいです。それで岡田さんは僕に「来いよ」って。「今治でトレーニングしてよかったら取るよ」じゃなかったのがまたうれしかったですね……。

大人の世界で隠した自分の本音



僕の最初の転機は高校2年生から3年生になるとき、エスパルスのトップチームに上がったときですね。高校生で試合に出たから、みんなから「モテたでしょう?」ってよく言われるんですよ。

確かに周りの反応として、高校生でプロの世界に出るということでの反応はあったとは思うんですけど、でも毎日「サインほしい」とか「写真撮ってほしい」とか、そういうのはなかったんです。どちらかというとちょっと落ち着いている感じでした。

高校選手権のスターだったら、そういうことはあったかもしれないですけどね。僕たちが小学校の時に見ていた高校選手権の盛り上がり方はすごかったですからね。

まぁ工業高校だったこともあったし、他校の生徒が校門のところに来るというのもなくて。それに授業が終わったら親が迎えに来てるとか、チームスタッフが校門のところに来てましたから、そのまま車に乗って蛇塚の練習場ですよ。そのころ、練習は17時30分からだったんです。

自分としては、トップチームってもちろん自分が求めていた場所だったんで、誇らしい気持ちは常にありました。けど、自分の親だったり当時のコーチだった大木武さんだったり、チームスタッフがすごくしっかりしてたので、勘違いをする暇がないというか、させてもらえないというか。

普通だったら勘違いしたくなるかもしれないんですけど、そういう人たちがしっかりした道を示してくれましたね。だから舞い上がるようなマインドもなかったし、そういうことを考える時間も全然与えてもらえなくて。常に「もっと上がある」「まだまだお前には力がない」って、それは自分でももちろんわかってましたから。

進路という意味では、高校3年生になるときにもう決まったけど、でも自分じゃ早いという気持ちはなくて。中学校で清水のジュニアユースに入って、そのあとに年代別の代表にも選んでもらったじゃないですか。そのあたりから自分の描く絵というのが、ユースに入って、そこからなるべく早くサテライトリーグの試合に出て、その後トップチームの試合に出場するということだったんですよ。

それって僕が高1の時に、ユース代表で一緒だった稲本潤一さんとか酒井友之さん、山口智さんとか、そういう人たちが高校生なのにJリーグに出てるのを見てたからなんです。稲本さんたちは代表の合宿中に「チームに呼ばれた」って抜けたりするんですよ。そういうのを目の前で見てたので「俺もああならなきゃダメだ」みたいな。

もしもユース年代でそんな環境にいなかったら、自分が試合に出ていることをイメージするのも、なかなかできなかったんじゃないかと思いますね。たぶん「高校卒業したらプロ行きたいな」とか、そんな感じだったかもしれないです。けれど目の前にそういう見本がいたんで。そういう人たちを見たことが意識を高くさせましたね。トップチームに入ったからって舞い上がってる暇なんてなくて、早く試合に出なきゃいけないって。

それからやっぱりオジー(オズワルド・アルディレス監督)とスティーブ(・ペリマンコーチ)に自分を見てもらえるというのがうれしかったですね。練習が終わったから何かやって遊びたいじゃなくて、次の日の練習が待ち遠しかったんですよ。一番の楽しみが練習で、2人に見てもらうことだったんです。

ただ練習時間が17時からだったのって意味があって、あのころって練習を高校生に合わせてくれたんです。トップチームの人数が足りなかったから、ユースの選手がいないと練習にならないっていうことで。

本当は練習ってだいたい9時や10時スタートですよね。ナイトゲームのときは夕方にしたりしますけど。午前中に練習があれば午後を自分のためにいろいろ使えますからね。でも夕方の練習だと、午前中にどこまで自分に負荷をかけていいのかって難しいから、時間をみんな持て余してたでしょうし、トップの選手の人たちって大変だったと思います。

最初はトップチームに入ったら別の高校に編入する予定だったんですよ。午前中はトップチームで練習して、午後行けばいいという学校があるんです。でも、チームのほうで「転校する必要ない」って言ってくれて。だから学校は変わらなくてよかったんですけど、僕たちが練習場に行ってからトレーニングが始まることになって。

最初はみなさん合わせてくれてるんだって恐縮しましたけど、でもやっぱり自分は一緒にプレーできるって喜びのほうが大きくて。感謝もしましたし、この時間に合わせてくれてるんだったら俺たちがやらなきゃダメでしょうって身が引き締まりました。

ただ大人の世界に一気に入ったんで、自分としてはどうしても大人に合わせないといけないというか、大人の対応を覚えなきゃいけなくて。チームやサッカー協会の人から、「記者さんたちがいたらしっかり立ち止まって話すように」とか、そういう指導も受けてました。

そういう公式の場所では、いろんな弱音を話せないとか、本音が言えないという苦しさがあったと思います。言いたくても言っちゃいけない。1998年フランスワールドカップのときって、本大会のメンバー発表前まで苦しくて苦しくて仕方がなかったです。体も動かないし、それを相談できる人もいないし。

大会直前のスイスの合宿に行くとき、成田のホテルから大木さんに電話したんですよ。泣きながらだと思います。そこでやっと本音が言えて。「体動かないです」「調子よくないです」って。大木さんは「俺が間違ったことはあるか?」って聞いてきて、僕が「いやないです」って返事をしたら「だったら俺が大丈夫って言ってるから大丈夫だ」って。それで楽になりましたね——。



試合前の勝負曲は「無音」



僕は試合の前に聴く音楽より、試合が終わった後に聴く音楽のほう が好きでした。音楽を聴いてほっとするというか。

若いころは試合前にハードな音楽を聴いて高ぶらせるとか、そういうことをやってたかもしれません。中学や高校のころはCDを借りてきて、MDにコピーしてコレクションを作るとかもして。その当時はJ-POP、それからアニキの影響でエアロスミスとかボン・ジョヴィとか。

でもやってるうちに「違うな」って。逆に音楽が耳に残り過ぎちゃって、試合とはリズムが違う感じがあって。気付いたのは20歳ぐらいですかね。

試合前に聴く音楽って、サッカーのことを考えてると、あんまり頭に入ってこないんですよ。試合前はどちらかというと無音のほう がよかった。自分の世界に入る感じのほう が自分にはよくて、勝負の前は静かにときが来るのを待ちたいって感じですね。

1人でトレーニングしてたときも、音楽で紛らわせることはしなかったですね。どちらかというと、無音で自分と向き合いたいんです。細かいところ、深いところまで。今、自分はどうなのか、周りはこう思ってるんだろう、とか。いろんなことを自分で考えてイメージして、「今の自分はこれでいい、続けよう」とか。

試合後は「今日の試合はああだった、こうだった」と選手同士で話しながらチームのバスに乗ってクラブハウスに行って、そこから自分の車で1人の世界になったときに音楽をかけるんです。

僕が聴いていたのは、ハワイアン・ミュージックですね。ジャック・ジョンソンの「ベター・トゥゲザー」っていう、すごくゆったりした歌をよく聞いてました。肉体的にも精神的にも落ち着くんです。特に夏のナイトゲームのあとの22時ぐらいのけだるい感じがハワイアンに合ってて。

「今日の試合はこうだったな」って振り返るときに音楽が邪魔しないんですよ。自分と対話しながら振り返るのに、「ベター・トゥゲザー」が流れてくると「次はこうしよう」と心を落ち着かせてくれて、そこから「明日の朝ご飯は何食べたいな」とか思えるようになるんですよ(笑)。