「結婚なんかしない」

そう、言い張っていた。

今の生活を手放すなんて考えられない。自由で気まぐれな独身貴族、それでいいと思っていた。

仕事が何より大事だと自分に言い聞かせ、次々にキャリア戦線を離脱してゆく女たちを尻目に、私はただひたすら一人で生きてゆくことを決意していたのに-。

”想定外妊娠”に戸惑っていたのもつかの間、千華ははじめてのエコーで心を揺さぶられ、たとえ独身だろうと産む決意を固める。

元カレ・ショーンとすれ違い続けていた千華は、憧れの先輩から言われた一言をきっかけに自分の本心に気づき、ついに彼と結ばれた。

だが真っ先に報告した親友・舞子は浮かない顔で、義母への手土産のアドバイスもそっけないものだった。




「すごい!今動きましたよね!?」

ショーンは私の手をしっかりと握り、前のめりになりながらモニターに写る子供の姿を見つめている。

恵比寿のクリニックで二度目の検診を受けることを告げると、ショーンは一緒に行くと言って聞かなかった。

ほんの数日先の予定さえ不確定だったはずの男が、約束した場所で約束した時間に立っている。それだけで私はひっくり返ってしまいそうだ。

「では、母子手帳と妊婦健康診査受診票を区役所で受け取ってくださいね。」

柔らかく微笑む先生の美しい横顔は、はじめての検診のときと変わらず私を安心させてくれる。

診察室を出てからも、ショーンはそわそわと落ち着かない様子でエコー写真を眺めていた。なんだかむず痒くて、幸せな時間だとつくづく思う。

だが、妊婦の体というのは想像以上に不便だ。幸せを噛みしめるよりも先に、いつ襲ってくるかわからない吐き気やめまいに怯えながら歩く。

検診のあとに、大好きな『ウェスティン デリ』でシュークリームを食べようと約束していたのに、私の体はそれを受け付けようとはしなかった。

結局その約束は果たせないまま、近くのスーパーでみかんゼリーとアボカドを買い込みショーンのマンションへ向かった。

「ゼリーとアボカド?変な組み合わせだなあ。」

そんな呑気なことを言うショーンに、この辛さを説明するのは骨が折れる。私だって普段だったらこんな買い方はしないのだから。

「これしか、食べられそうにないのよ。」


愛しい人とならどんな困難も乗り越えられる!?


何処へ行っても、まず最初にトイレに駆け込むようになっていた。自宅、職場、クリニック、果てはクライアント先に至るまで。

それはショーンのマンションを訪れた今日も同じだった。

つわりに関して、なにか楽になれる方法がないか舞子にアドバイスを求めたが、「私のときはそんなに酷くなかったから」と、そっけない返信が来たっきり。

-私、この前何か余計なこと言っちゃったかな。

舞子の態度に引っかかるものを感じながらも、終わりの見えないつわりの中では、その違和感の解決を試みる心の余裕もなかった。

鉛のように重くなってしまった体を引きずり、やっとの思いでダイニングにたどり着くと、ショーンは心配そうな顔でこちらを見ている。

「千華、顔が真っ青だ。」

そう行ってレモン入りの水を差し出した。

一気に飲み干しグラスをテーブルに置くと、突然ショーンは私の手を握り、そしてひざまずく。

「ちょ、ちょっと、なによ。どうしちゃったの?」

「本当は、レストランとか夜景がキレイな場所を選ぶべきだと思っていたんだが…。」

そう言ってショーンが差し出した真っ赤な小箱。そこに収まっていたのは、ピンクゴールドのシンプルなカルティエのエンゲージリングだ。

「千華と一緒に生きていきたい。必ず幸せにしてみせる。」

「ショーン…。」

「だから、結婚してほしい。」

西日が差し込むリビングで、彼は私の薬指に指輪をそっとはめる。

「私、妊娠してから、嬉しくても…涙が出るみたい。」

「それは、イエスってこと?」

「あたりまえでしょ!」

こうして、私達の人生で1番遠いところにあると思っていた”結婚”という選択肢を選ぶことになった。

人生の中で、”絶対に手放したくない”と思える存在に出会えた幸運に感謝しながら、私達は唇を重ねる。




左手の薬指に指輪をするなんて、ほんの少し前の私なら想像もしていなかった。

予測不能の吐き気に襲われ、情緒が不安定になる度に、私はその指輪を触るようになっていた。 自分が幸せの絶頂にいるのだと、この指輪は思い出させて、安心させてくれる。

だけど、この日ばかりはどんなに指輪に触れてもこの不安を和らげることは出来なかった。

ダイニングでのプロポーズから数日後。いよいよ、ショーンの母親に会う日が来たのだ。

東銀座から少し歩いたところにあるマンション。”彼女”が住んでいるのは最上階だ。その建物を見上げながら、私は畏怖の念に駆られていた。

「さすが、有名ブランドのファッションデザイナーね。」

「元デザイナーだよ、もう引退してる。理由は後で話すけど、仕事の話は母の前でしないで欲しいんだ。」

「少し、いや、すごく個性的な女性で…。」と付け加えたショーンの顔からは、幸せで満ち足りていたような笑顔は消えている。

代わりにその顔に張り付いているのは、緊張と憂鬱な表情だ。

ポーンと上品な音がして、エントランスから最上階まで直通のエレベーターが目的地に到着したことを知らせた。


新たな強敵・義母は、千華たちからの報告をどう受け止めるのか…。


「母さん、俺だよ。」

重たい扉を開きながら、慣れた様子でショーンは奥へと進む。遅れないよう彼に続くが、ふかふかの絨毯を踏みしめる度に緊張で体が震えていた。

-大丈夫、今日は体調も落ち着いているし、ショーンも一緒なんだから。

呪文を唱えるように、何度も“大丈夫”と自分に言い聞かせる。けれど、客間に通される頃には、手土産に持参した『エシレ』のバターサブレが入った紙袋を、強く握りしめるほど緊張していた。

東京タワーまで見渡せる絶景よりも先に目に入ったのは、無表情のまま待ち構えていた女性。彼女こそ、ショーンの母・山口妙子だ。




「はじめまして、木田千華と申します。」

深々と頭を下げて挨拶をするが、返ってきた言葉は想像していたよりもずっと冷たいものだった。

「随分ひさしぶりね、ショーン。仕事はどうなの?」

私の挨拶は聞こえているはずだが、妙子さんはショーンの方だけを見ている。私なんか、まるごとこの場所に存在していないかのように。

「…順調だよ。母さん、体調は?」

「変わりないわ。お茶をいれるわね。」

口をはさむ隙間もなく、彼女は踵を返しキッチンに消えていった。

小さくため息をつくショーンに促されるまま、革張りのソファーに腰を下ろすしかなかった。行き場を失った水色の紙袋を膝の上に乗せながら。



「紅茶でいいわね?ブランデーは垂らす?」

戻ってきた妙子さんはシルバーのトレーにティーポットと、それからブランデーが入っているクリスタルボトルを乗せていた。

かろうじてカップが三脚用意されていたことにホッとしたが、アルコールを勧められた事に戸惑いを隠すことが出来なかった。

-カフェイン…それにブランデーって!

困惑する私に気づく素振りもなく、妙子さんはなみなみと紅茶の注がれたティーカップを私達の前に置く。

助けを求めるようにショーンに視線を送ると、ショーンは咄嗟に口を開いた。

「母さん、こちら木田千華さん。俺のフィアンセだよ。」

「…あら、そう。はじめまして。」

ようやく私の存在を認めたように視線を一瞬よこしたが、改めて挨拶をしようと口を開いた瞬間に先手を打ったのは妙子さんだった。

「ショーン、少し痩せたんじゃないの?」

相変わらず、そこに私は存在することすら許されない雰囲気だ。

「母さん、頼むから聞いてくれよ。電話でも言ったけど、彼女は俺との子供を妊娠してるんだ。」

ショーンは語気を強め「孫ができるんだよ!」と付け加えたが、彼女の耳には届いていないようだ。

「あの…、不躾に申し訳ありません。でも、ショーンさんのことは心から―、」

「木田、さん。と、おっしゃったわね?」

ティーカップを置き、ようやく目をあわせてくれたが、表情を見る限り決して友好的な反応が返ってくるとは期待できなかった。

「まだ結婚は、していないのよね?」

「…はい。」

妙子さんは、私の頭から爪先までをジロリと見回し、大きなため息をつく。

「なんだか、みっともないわねぇ。」

その目線は、私達を出迎えたときのように、冷たいままだ。

「母さん!」

苛立つショーンの声が、やたらと広いリビングに反響している。

「いい大人なんだから、勝手にしなさいな。」と妙子さんは付け加えたが、その後のことはよく覚えていない。

ショーンと私は、帰りのエレベーターで一言も話すことはできなかった。

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