努力は必ず報われるわけではない。

 時の運なのか、実力の限界なのか、いくら努力を重ねても結果につながらないことの方がむしろ多いだろう。しかし、だからこそ努力が結実したときには、たとえ他者のことであっても感動に包まれることになる。

 1978年、越中詩郎は全日本プロレスの門を叩いた。前座時代を経て、'83年には若手の登竜門『ルー・テーズ杯争奪リーグ戦』の決勝で後輩の三沢光晴を破って優勝し、翌'84年にはその三沢とともにメキシコ海外修行へ向かう。

 ところが、三沢はわずか数カ月で日本に呼び戻され、2代目タイガーマスクとして華々しいデビューを飾ることになる。

 経験でも戦績でも下の三沢が日本で活躍する姿に、心中穏やかでなくなるのは当然のこと。そこに新日本プロレスから誘いがかかり、越中は移籍を決意する。

 当時の新日は選手大量離脱の影響で、越中にも多くのチャンスが与えられた。ザ・コブラを破って初代IWGPジュニアヘビー級王座を獲得すると、続いて髙田延彦(当時は伸彦)とも抗争を繰り広げる。

 このときの越中は新日正規軍。一方、髙田は外敵であるUWF軍。しかし、その当初は、ファンからの声援の多くが髙田へと向けられた。

 「当時はUWFの人気がうなぎ上りで、その中でも髙田はマスクがよく、蹴りを主体としたファイトスタイルも新鮮だった。一方の越中は、見た目からして野暮ったく、得意技のヒップアタックもどこかコミカルでストロングスタイルに似つかわしくない。また、出戻りとはいえ髙田は新日出身。越中は全日出身の外様という“新日至上主義”も強かったのです」(プロレスライター)

 髙田も髙田で、年上の越中を「エッチューさん」と小馬鹿にしたように呼び、遠慮なしに蹴りまくった。実況の古舘伊知郎に“人間サンドバッグ”と揶揄された越中だが、しかし、最初は簡単にダウンを奪われたものが、一発では倒れなくなり、いつしか蹴りの連発にも耐えきって反撃に出るようになった。

 そんな中で、越中への声援も徐々に高まっていったが、とはいえこれは、あくまでも対髙田戦に限った判官びいき的なもの。越中単体での人気となると、いまひとつの状態が続いた。

 ヘビー級でタッグ王座は獲得したが、シングルになると挑戦権さえなかなか回ってこない。反選手会同盟を結成して青柳政司率いる誠心会館との抗争の矢面に立ち、そこから発展した平成維震軍では独自興行まで開催するが、これも長くは続かなかった。

 時に長州力、藤波辰爾、闘魂三銃士(橋本真也、武藤敬司、蝶野正洋)など、トップどころをシングル戦で下すジョーカー的な役割を担っても、シリーズを通して主役を張ることもなかった。

 「越中に度々チャンスが与えられたのは、やはり人柄によるところが大きい。与えられたポジションに文句も言わず常に全力を尽くすので、マッチメーカーに認められていました」(同)

★ファンの心情を揺り動かす存在
 重宝される一方で、会社からは便利屋使いされることも多くあった。

「例えば、UWFインターナショナルとの対抗戦。髙田の持つIWGP王座への挑戦者に越中が選ばれたのは、表向きには『ジュニア版名勝負数え唄の再現』とは言ったものの、新日側の本音は『三銃士らトップどころは負けさせられない。Uインターの主催興行なら越中でいいだろう』というものでした」(新日関係者)

 そんな中堅以上トップ未満の状態が続いた越中が、'07年に突如として脚光を浴びることになったのは、バラエティー番組『アメトーーク!』でのこと。ケンドーコバヤシがプロレスファン以外には無名に近い越中を、しつこいほど取り上げたことがきっかけだった。