「全員一致の意見」が危ない理由とは?(写真:bee/PIXTA)

ピーター・ドラッカーの名前は、誰もが一度は耳にしていると思うが、その実、彼の著書を読了した人はどれくらいいるだろう。経営学の父として知られるドラッカーだが、彼の考え方は決して古典などではない。

相手が生徒であれ、コンサルティングを行う顧客企業であれ、決して答えは教えず、適切な問いで本人自身に答えを見つけさせるのがドラッカー流だった。このいつの時代にも通用する普遍的な「考え方の考え方」ともいうべき思考法こそが、ドラッカーの神髄である。今回は『ドラッカー全教え』の中から、「みんなが知っていることは、たいがい間違っている」という教えを紹介したい。

「みんなが無効だと思っていること」は本当に無効か

ドラッカーは、大事なこと、価値のあること、さらにはしゃれたこともたくさん語り、また、書いており、マネジメント分野の思想家として彼以上に引用されている人物はいないのではないかと思われる。

だが、教室や私的な会話では何度も繰り返されたとはっきり覚えているし、私はそれを何冊もの本に書いて説明もしたというのに、ドラッカーが書いた本には登場していない言葉がある。「みんなが知っていることは、たいがい間違っている」だ。彼は、よくそう言っていた。言い続けたのは、そうだと確信していただけでなく、重要なポイントだと思っていたからだろう。

矛盾を含むとしか思えないこのシンプルな言葉は、驚くほど正しく、ビジネスやマネジメントの決断や分析にとても役立つ。なぜなら、本当はそうじゃないかもしれないのに、「みんなが無効だと知っているから使えない」と思ってしまう選択肢が選べるようになるからだ。

ドラッカーはいつも、「仮定はすべて疑ってかかれ、それがどこから出てきた仮定でも、一見どれほど不可能に思えようとも、すべて検討すべし」と説いていた。特に検討しなければならないのが、大半の人が知っていること、つまり、何も考えずにみんなが前提条件としていることである。

こういったたぐいの「知識」は疑ってかかり、じっくり検討してみるべきだ。そうすると「真実だと知られている」情報が実は間違っていたり、不正確だったり、あるいは、ある条件においてのみ正しかった、などといった事実が判明することが実に多い。

逆に、検討しなければ、すばらしく価値のある選択肢を見逃したり、不出来な提案やそれこそまちがった提案をしてしまったりする。この一文は、彼の仕事でとても大事な役割を果たしていたものと思われる。

ドラッカーのこの考え方は、実は何千年も前から正しかった。その実例が、大昔イスラエルにあったサンヘドリンという最高法院だ。今の最高裁判所にあたるが、その力ははるかに強い。

満場一致で有罪の場合は、無罪放免に

このサンヘドリンでは、重要案件が審議され、死刑に至るまでの処罰が科される。しかし、この法廷には検察官も弁護士も登場しない。いるのは裁判官のみで、被告人、告訴人、さらにはどちらかが呼んでいれば、証人についても、審理が行われる。なお、サンヘドリンでは、王を含むあらゆる人の審理が行われており、無罪は1票差の多数で決定できるが、有罪は2票差以上の多数でなければならない。

このあとが本題だ。

サンヘドリンは2000年以上も昔の制度だが、そこではドラッカーの考え方が法的手段として規定されていた。つまり、71人の裁判官が満場一致で死罪と判断したら、被告人は「無罪放免」となるのだ。サンヘドリンの裁判官は賢い人々のはずだ。であるのに、どうしてこういう規定になるのだろうか。

サンヘドリンの審理において、被告の弁護をする人はいない。だが、どれほど重大な犯罪であっても、あるいは証人や証拠にどれほど説得力があっても、弁護の余地は必ずある。そう古代イスラエルの裁判官は知っていた。だから、被告人の主張にも一理あると認める裁判官が1人もいないという状態は、何かおかしなことが起きている、裁判に間違いが起きている証拠だと考えるのだ。

被告人と敵対している人の中に、カリスマ性のある人や、口のうまい人がいるのかもしれない。政治的圧力や汚職によるかもしれないし、大司祭や王など「上の意向」があるのかもしれない。満場一致になったという事実だけで、本当のところ被告は無罪である可能性が高いし、これは有罪を示唆するその他すべてに勝る大事なポイントである、と彼らは考えるのだ。

裁判官は、みな、経験と判断力を買われて任用されているわけだが、その彼らが全員、「間違いなく正しいと知っていること」があれば、それはおそらく正しくない。だから被告人は放免となる。これは、心理学的な研究でも確認されている。

たとえば、写真を見せ、どの人が魅力的かを被験者に選ばせる実験を行うとしよう。ただし、本当の被験者は1人だけ。残りは実験チームのメンバーで、すべての写真セットについて、誰をいちばん魅力的だとするか、事前に示し合わせている。そうして実際に写真を選ばせると、真の被験者もほかのメンバー全員が選んだ写真を選びがちになる。メリットの有無や自分の感覚にかかわらず、「みんなが選んでいるから」と選んでしまうのだ。いわゆる社会的証明というやつである。

これは、みんなが事実だと思っている場合、それは事実でもなんでもない、あるいは特定の条件でしか事実になりえないという、ドラッカーの考え方を立証していると言える。

著名ブランドが存続の危機に

面白いストーリーを1つ紹介しよう。「みんなが知っていることは間違っている」と示すと同時に、大企業CEOの個人的な真摯さが表れたストーリーだ。

はじまりは1982年9月29日の朝だ。12歳の少女、メリー・ケラーマンが、パラセタモールをベースとした解熱鎮痛薬、エキストラストレングス・タイレノールのカプセルを飲み、直後に死亡。その後、同じくシカゴ地区で死亡事故が相次いだ。誰かがシアン化合物を混入していたのだ。

全米がパニックになった。とある病院には、問題の製品を飲んでおかしくなった気がするとの問い合わせが700件も殺到。入院した人も数知れない。

アメリカ食品医薬品局(FDA)が乗り出し、混入のおそれがあるとされた270ケースについて調べを行った。結果、たちの悪いいたずらがされていたケースはいくつかあったものの、大半は根拠のないヒステリーにすぎないことが判明する。

このようなパニックが起きたこと自体、ドラッカーの考え方が正しいと示すものではあるが、それ以外にも、ビジネスパーソンにとって重要な教訓がこの事件には含まれている。

このとき、タイレノールは発売から30年近くも経過しており、消費者に信頼されていた。が、この信頼は一夜のうちに吹き飛び、売り上げは急落。販売元のジョンソン・エンド・ジョンソンは1億ドルをかけてリコールを実施するとともに、製品の販売をすべて中止する。さらに、事態が解決されるまではタイレノールを買ったり使ったりしないでくれと広告で訴えた。

ジョンソン・エンド・ジョンソンとその会長ジェームズ・バークには、「正しいことを真摯に行った」と称賛が集まった。だが、ジョンソン・エンド・ジョンソンがいたずら防止パッケージの開発に成功し、昔の名前で販売を再開すると発表したことに対しては、失敗を予想する声しか聞かれなかった。

ニューヨーク・タイムズ紙では、「あの名前ではもう売れないと思う……自分ならなんとかできるという広告人がいて、その人物を見つけることができたら、私が雇いたいくらいだ」という、有名広告人の言葉が報道された。

タイレノールは、圧倒的な市場シェアを誇る製品だった。だが、それはもう過去のことだと「誰もが知っていた」。

2カ月後、販売が再開されると…

ウォール・ストリート・ジャーナル紙も、「残念ながら、この製品はおしまいだ、生き返ることはない、これを否定するのは夢物語としか言いようがない」と報じた。世論調査も、どういう安全対策が取られようと、どれほど安全だと言われようと、買う気はないという声ばかりだった。1981年には純益の17%をたたき出したこのブランドが復活することはないと、ほぼ全員が考えていた。


さて、どうなったのだろうか。2カ月後、販売が再開された。いたずら防止パッケージ製品がお店に並べられ、あちこちに広告が展開される。12億ドルの鎮痛薬市場で37%から一時期7%まで落ち込んだタイレノールのシェアは、その1年後、「みんなが知っている」予想を裏切り、30%まで回復した。さらにその後タイレノールは、完全復活を果たし、事件から30年以上後には56%という史上最高のシェアを獲得する。

30年もの長きにわたり、広告や実績、信頼を積み重ねて築いたこのブランドを捨てていたらどうなっただろう。タイレノールに匹敵するブランドを新たに立ち上げようとしたら、いったいいくらかかっただろうか。いや、そもそも、できたのかどうかもわからない。

このようなことができたのは、ドラッカーが言うように、「みんなが知っていることは間違っていることが多い」と、ジョンソン・エンド・ジョンソンの幹部が考えたからだ。彼らは、専門家や消費者まで含めて、「誰もが知っている」ことに挑戦し、タイレノールを復活どころか昔以上の成功に導いたのだ。

ドラッカーは、「みんなが知っていること」にとらわれず、よく考えて成功に至る自分の道を切り開けと教えてくれた。つまり、常識とは、仮定にすぎないことを理解しなければならないのだ。