箱入り娘業界で「プライドの無い男」が重宝される理由。オールドリッチが譲れない、婿選びの条件
先祖代々受け継がれし名声と財産。
それを守り続けるために、幼い頃から心身に叩き込まれる躾と品位。
名家の系譜を汲む彼らは、新興のビジネスで財を成した富裕層と差別化されてこう呼ばれる。
「オールドリッチ」と。
一見すると何の悩みもなく、ただ恵まれた人生を送っているように見えるオールドリッチ。
しかし、オールドリッチの多くは、人からは理解されない苦悩や重圧に晒されている。
前回は、田園調布の豪邸に頭を悩ませる梨華 を紹介した。今回は?
【今週のオールドリッチ】
名前:峰岸菫
年齢:28歳
職業:インテリアコーディネーター
住居:都立大学
マグカップにカフェオレをたっぷりと注ぐ。買っておいた『トシ オー クー デュ パン』のパン・コンプレをチーズボードに切り分けると、菫はまだ寝室でいびきをかいている夫の陽太を起こしに行った。
「陽太くん、いつまで寝てるの?」
そういいながら寝室のカーテンを勢いよく開けると、溢れんばかりの太陽の光が降り注ぐ。
都立大学の2LDKのマンションは、乃木坂にある菫の実家に比べれば兎小屋のような狭さだ。でも菫は日当たりの抜群に良いこの家を、実家の援助を受けずに夫婦ふたりで住む家として十分に気に入っていた。
「う〜ん、今日休みでしょ?菫ちゃんももう少し寝ようよ…」
巨体を揺すりながら布団を被り直す陽太は、まるで冬眠中の熊のようだ。そんな姿を愛しく思いながら、菫はベッドへと近寄る。
「朝ごはん出来てるよ。それに…今日は朝から大ニュースがあるの」
「大ニュース…?」
一向に布団から出る気のない陽太に、菫はやれやれとため息をつきながらあるものを見せつけた。
「じゃーん」
白いスティックを掲げ持つ。それは、2人が待ちに待っていた陽性の妊娠検査薬だった。陽太はしばし思考停止したかと思うと、布団を跳ね除け菫を強く抱きしめた。
「菫ちゃん、やった!やったね!」
「そんなに強く抱きしめたら苦しいよ…」
陽太の腕の中で、菫の頬が思わずほころぶ。
与えられるだけの人生じゃつまらない、と両親を説得して裕福な実家を飛び出したのは6年前。この慎ましくも愛に溢れた暮らしは、まさに菫の理想の結婚生活だった。この時までは…。
世間知らずのお嬢様妊婦に、高級産婦人科が現実を突きつける
身ごもって初めて気づいた「本当の贅沢品」
翌日、菫は有給を利用して六本木駅近くの産婦人科を訪れた。ホテルと見紛う格調高い病院は、菫自身が産まれた所でもある。我が子を初めて抱く場所として、ここ以外は考えられなかった。
「これが赤ちゃんですよ。見えますか?」
「はい、見えます…!」
医師がエコーに映し出す我が子は、豆粒のように小さい。それでも、まん丸なシルエットはすでに陽太に似ているように思えた。
愛おしさのあまり涙がこぼれそうになる。心ともなく、陽太と出会った頃のことが思い起こされた。
◆
「見て!シャネルのピアス。クリスマスに商社マンの彼氏からもらったの」
「いいなぁ。私の彼は研修医だけど、意外とお金ないのよね。ま、将来はハリー・ウィンストン買ってもらうつもりだけど!」
休憩時間のたびに繰り返される、職場の同僚たちによる恋人のスペック競争。就職して2年ほど経っても、菫はこの手の話に慣れることができずにいた。
「ねえ、菫はあいかわらず彼氏作らないの?」
「うーん…」
曖昧な返事でお茶を濁す。幼稚園から都内の名門女子校で過ごした箱入り娘の菫は、24才になってもまだ恋を知らなかったのだ。
―私なら、ハリー・ウィンストンよりも心のこもった一通の手紙が欲しいなぁ。
そんなことを思いながら、菫は同僚たちの恋愛観に疑問を抱く。
両親から常々『お金や肩書きじゃなく、優しさと愛を持った人を選びなさい』と聞かされて育った菫は、比類ないロマンチストだった。
そもそも、アンティークのロレックス、オーダーメイドのケリーバッグ、スタインウェイのグランドピアノなど、幼い頃から飽きるほど一流品に触れてきた菫にとって、物質的な豊かさは異性の魅力に直結しない。菫はただ両親の言う通り、優しくて愛に満ちた男性を待ち続けていた。
そんな時に現れたのが陽太だった。菫の職場であるデザイン事務所に出入りする、4才年上の一級建築士。陽太が突然渡してきた不器用ながらも真心のこもったラブレターに、菫の心は一瞬で奪われた。
年収700万、死別による母子家庭育ちというのが陽太のスペック。
3代に渡り中規模の鋼鉄商社を営む「オールドリッチ」の菫の実家には、正直なところ釣り合わなかったはずだ。だが、両親の反応は好ましいものだった。挨拶の場で気の利いたことも言えずニコニコとしている陽太を見て、
「いい人を見つけたな」
「本当に。菫、陽太さんと幸せになるのよ」
と大喜びしてくれたのだ。
豪華な家にも、一流品にも飽きた。助けを借りず、陽太と2人で力を合わせて生活したいという菫の決意をも、両親は「やってみなさい」と快く尊重してくれた。
◆
あれから4年。お腹に宿った命を愛おしげに撫でながら、菫は改めて今の幸せを噛みしめる。
―この幸せも、いつだって両親が私の気持ちを尊重してくれたからだわ。私も、子供の幸せを一番に考えられる母親になろう…。
そんな温かで満ち足りた気持ちに、たった数分後に冷水を浴びせられることになるとは思いもよらなかった。
「160万円、ですか?」
「無痛分娩の上、ご家族も宿泊可能な個室をご希望されますとそれくらいになります」
内診を終えた菫は、分娩予約のため応接間のような個室へと通されていた。そこで提示された諸々の費用は、約160万円。妊婦健診の費用は含まれていないため、実際の費用はもっとかさむだろう。
「お部屋のタイプは妊娠30週までにお決めくださいね。本日は予約金として5万円頂戴いたします」
「あ…はい」
―赤ちゃんを産むだけでこれだけのお金がかかるなんて…。陽太くんの年収が700万円、私が450万円。私は子供が大きくなるまで仕事は休むから、陽太くんのお給料だけになるのに…。
世間知らずな菫にも、この後に待ち受けている生活がどうなるかは朧げに予想できた。
このままでは、幼い頃に与えてもらった環境を、子供に与えることができない。
同じ病院でのお産。高品質な子供服。一貫校で育む一生涯の友情。毎夏のハワイでの自然体験。いつも家で帰りを迎えてくれる母…。
高価なモノにはもう飽きた。しかし、菫にとっての“普通の子育て”こそが、ブランドの宝飾品以上の贅沢品だった。そのことを、菫は今やっと実感を持って理解したのだ。
―愛だけで結婚を決めるって、こういうことなのね。なんて甘かったんだろう。所詮温室育ちの私は、やっぱり実家に頼るしかないんだわ…。
母が陽太のことを気に入った、本当の理由が明かされる…。
仕組まれた自由意志。「愛で選ぶ結婚」の真相
乃木坂の実家は、賃貸経営している低層マンションのペントハウスだ。病院から10分ほど歩きエレベーターで最上階へ到着すると、心配そうな面持ちで母が菫を待ち受けていた。
「どうしたの?相談があるなんて急に電話してきて」
「うん、実は…」
母にリビングへと招き入れられながら、菫はポツポツと話しはじめる。妊娠したこと。出産費用が想像以上に高額だったこと。子供のために金銭的な余裕が必要なこと。
「だから、お母さん。陽太くんと2人で頑張りたいって息巻いた手前恥ずかしいんだけど…少し援助をお願いできない?」
神妙な顔をして聞いていた母は、菫が話し終わるとコロコロと笑った。
「どんな深刻な相談かと思ったら…。おめでとう!待望の孫のためなら、いくらでも惜しまないわ」
母の言葉を聞いて、ホッと胸をなで下ろす。やっぱり、親はどんな時でも私の味方だ。だが、その後母が続けた言葉に、菫は違和感を覚えることになった。
「それに、こうなることは初めから分かっていたし。私ね、菫が陽太さんを結婚相手として連れてきた時、本当に関心したものよ。だって陽太さん、プライド無いでしょう?」
「え…どういうこと?」
突然飛び出た侮蔑的な言葉に理解が追いつかず、母に真意を尋ねる。
「あら、褒めてるのよ。愛で夫を選ぶなら、何を置いてもプライドがない人でなきゃ。陽太さんなら、妻の実家からの援助を喜んで受け取るでしょう。“男のプライド”とやらで援助を断って妻子に不自由させる人が一番ダメね」
思いがけない母の持論が、菫の頭を鈍器のように殴りつけた。
『優しさと愛を持った人を選びなさい』
そう説いていたのと同じ口から出た言葉とは思えない。菫の戸惑いをよそに、母は話し続ける。
「あなたたち、来年度から役員になって下の階に越してきなさい。家賃はいらないし、お給料もはずむわよ。でも副業は禁止だから、お仕事は辞めてきてね。畑違いでも大丈夫、どうせ仕事は優秀な社員がするんですもの。プライドがなくて人が良い陽太さんなら、社長の座にも据え置きやすいわ」
吐き気が菫を襲う。つわりは軽いはずだったのに。それともこれは、吐き気ではなく怒りだろうか?
母は機嫌よく「おめでたいこと続き!」と胸の前で一度手を叩くと、お茶を淹れると言ってキッチンに消えていく。その背中は、まるで知らない人のようだ。
菫は目が回るような混乱の中、寄りかかる場所を探す。陽太の温かさに触れたい。震える手でスマホを取り出し、電話をかけた。
「はい、もしもし?」
陽太の朗らかな声が聞こえる。
「陽太くん…、いま母と会ってるんだけど…。子供ができたならお金や家も援助もするし、陽太くんは仕事を辞めてうちの会社の役員になったらって…」
陽太の仕事である一級建築士は、そう簡単になれるものではない。陽太にだって、男としてのプライドはあるはずだ。
一瞬の沈黙。
「断ってもらっても構わない」、菫がそういいかけた時、スマホの向こうから陽太の高らかな声が聞こえた。
「えぇーっ、本当に?やったー!赤ちゃんのためだもんね、貰えるものはなんでも貰おう!」
スマホは耳元にあるのに、陽太のはしゃぐ声が妙に遠く聞こえる。
豊かな生活のため、あっさりと仕事を捨てる男。母に「プライドがない」と評される前なら、ただ「子供のために自らを犠牲にできる優しい人」と感じていたかもしれない。
全てが、母の思惑通り。菫の脳裏を不穏な考えがよぎる。
―もし名家の御曹司と結婚していたら、家業を捨てて妻の会社を継いでもらうなんて婿入りのようなことはできなかったはず。私が愛「だけ」で結婚相手を選ぶように育てられた理由は、もしかして…。
握りしめたスマホからは、陽太のはしゃぐ声が聞こえている。菫が自身の手で切り拓いてきたはずの人生は今、手のひらの中で急速に輝きを失いつつあった。
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