実家に戻らないですむ方法を考えたとき頭に浮かんだのが“結婚”だった(イラスト:堀江篤史)

神奈川県内の繁華街にある中華料理店に来ている。テーブルを挟んで向かい合っているのは、昨年結婚したばかりの飯島恵子さん(仮名、36歳)。目鼻立ちがはっきりしていて、笑顔が人懐っこい。話しかけやすい雰囲気が漂う女性だ。


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筆者は愛知県に住んでおり、この取材のために上京したが、台風が接近していたタイミングでもあった。恵子さんは前日に丁寧なメールをくれた。

<もし電車など難しいようであればまた都度ご相談いただければと存じます。どうやら夕方以降が関東は荒れ始めるようで、お昼は大丈夫とのことですが、お気をつけていらしてくださいませ>

本来は筆者が考えるべきことを先回りして心配し、連絡してくれる。気遣い上手な人なのだ。

両親は激しい性格で毎日怒鳴り合っていた

ランチビールを飲みながらインタビューを進めると、恵子さんは幼い頃から家庭内で「気遣い上手」を強いられてきたことがわかった。家業に従事する父親と専業主婦の母親はともに激しい性格で、毎日のように怒鳴り合いのケンカをしていた。恵子さんには2人の兄がいるが、ともに優しくおとなしい性格で両親のケンカを止めることなどできない。恵子さんががんばるしかなかった。

「父はモラハラの典型のような人で、ソトヅラはいいけれど家族には暴言をぶつけたり無視をしたり。最もつらく当たられていた母は次第にアルコールにおぼれるようになりました。酩酊しなければ父に対抗できなかったのだと思います。そのアルコール依存も父からの攻撃の種になるので、小学生だった私が『お母さんはお酒を飲んでいるんじゃない。薬を飲んで頭がぼんやりしているだけだよ』と必死でかばったりしていました」

一刻も早く家族から離れたかった恵子さんは高校卒業と同時に上京し、大学に入った。実家からの支援は期待できず、奨学金とアルバイト代だけで学費と生活費をまかなった。卒業後も都内の会社に就職し、ずっと1人暮らしを続けていた。

「小さい頃から、1人きりで生きていくしかないと覚悟していました。母のようになりたくありません。結婚は嫌だなと思っていました」

結婚願望はなかったが恋愛はした。25歳のときに酒場で知り合い、映画の話などで盛り上がり、長く付き合った人がいる。10歳上でバツイチの俊介さん(仮名)だ。

「今考えると、感情のコントロールができなくて子どもっぽいところが父親と似ていました。純粋で優しい人なのですが、怒るとめちゃくちゃになってしまうんです。同棲していたのに出ていったまましばらく帰ってこないこともありました」

5年後に俊介さんのほうから別れを切り出した。恵子さんが彼を受け止めきれないことが伝わったのだろう。

気分転換に通っていた居酒屋で夫と出会いました

母親がアルコール依存とうつ病からの絶食で倒れた、と実家から知らせを受けたのは3年前のことだ。以前は「あんな人は早く死んでしまえばいい」とまで思っていたが、いざ倒れるとその人生が不憫で仕方なくなった。恵子さんは献身的な看病をした。

「会社員を続けながらだったので、一時期はほとんど寝る時間がありませんでした。そのときに気分転換で通っていた飲み屋で知り合ったのが今の夫です」

恵子さんによれば、その飲み屋は気持ちのいい人ばかりが集まる店だ。愚痴っぽい話ではなく、明るい冗談を言い合う雰囲気。恵子さんもつらい近況を明かしたりはせず、楽しいお酒を飲んでいた。

後に夫になる幸司さん(仮名、35歳)も実は大変な状況だった。上司の不正を自分のせいにされて会社を退職することになり、失業中だったのだ。恵子さんと同じく、幸司さんも何も明かさずに笑って飲んでいた。

ある夜、恵子さんは家に帰りたくなくなり、深夜3時頃までその飲み屋にいた末に「私はもう1軒行く」と宣言。心配した幸司さんが「付き合うよ」と言って朝まで一緒にいてくれた。

「初めて自分の状況を話して、泣いてしまいました。彼は『大丈夫か?』と言うだけで静かに聞いてくれたんです。何度か一緒に飲んでいるうちに、私は彼のことが好きになっていたんだと思います」

その頃、実家の父親はますますおかしくなっていた。憎み合っていたはずの母親とは共依存の関係にあり、彼女が倒れて急に不安になり、恵子さんにも実家に戻ってきてほしいと要求し始めたのだ。

「2人の兄は体調を壊して実家暮らしでした。そこに私が戻ったら、誰が外で稼いで母の病院の手続きなどをするのでしょうか。父は一家心中をしたかったのかもしれませんが、私は嫌です。なんとか実家に帰らないですむ方法を考えたとき、頭に浮かんだのが幸司さんと結婚することでした」

当時、恵子さんはすでに30歳を超えていて、東京で自立して暮らしている。父親の無理な要求など断ってしまえばいいと思う。しかし、ずっとモラハラを受けてきた身としては「大きな理由がないと断れない」という発想になるのだろう。そのために急いで結婚するのはややリスクが高い気がするが、幸運にも幸司さんは賢くて愛情深い男性だった。

「私が事情を話して『とりあえず結婚しない?』と言ったら、彼は『おっ、おお!』と答えてくれました(笑)。付き合ってわずか4カ月後のことでした」

すでに転職を果たし、医療関係の会社で働き始めていた幸司さん。数年前に大失恋をしてからは結婚をあきらめていたという。降って湧いたような恵子さんとの恋愛と結婚。共同生活をしてみると、そんな幸司さんは自分にとって理想的な結婚相手だと恵子さんは気づいた。

「彼は中学生時代に大病をして学校に行けない時期が長く続いたそうです。そのときに『考えても仕方ないことは考えない』という大らかさを身につけたのだと思います」

結婚してから、人にお願いできる自分に驚いた

一方の恵子さんは自活をしているものの故郷の家族のことが常に頭から離れず、すべてを自分がやらなくていけないという意識に押しつぶされかけていた。幸司さんと結婚して、「そっちは任せた!」とお願いできることに驚き続けている。

「旅行のときに荷物を見ていてくれるだけでもありがたいのですが、彼は計算や車の運転も得意です。うちの親戚の集まりがあっても、すぐに打ち解けて楽しく過ごしてくれます。すごく楽ですね。私は35年間、能力が高いわけでもないのに何でも1人でやろうと思っていっぱいいっぱいになっていたことがわかりました」

危篤状態だった母親の意識は無事に回復し、最後の1年間は実家で過ごすことができた。元気だった頃はあれほどぶつかり合っていた父親は、人が変わったように大人しく優しくなり、下の世話まですべてを自分で介護していたという。

共依存関係にある男女の典型的な末路とも言えるが、かつては激しく愛し合っていた父親から献身的な介護を受けて、母親は幸せだったのかもしれない。恵子さんの結婚式を見届けて、母親は他界した。63歳。死因は多臓器不全だった。

「母が亡くなって1年になりますが、いまだに母のことを思うと言葉にできないような複雑な感情がこみ上げてきて泣いてしまいます。私の半分を失ってしまったような気持ちです。母みたいなつらい生き方はしたくないと思いながらも、私たちの魂の結びつきは強いものでした。音楽や舞台、映画のことを教えてくれたのは母です。裏表がまったくない人で、夫婦関係は破綻していましたが、いいお友だちはたくさんいました。母と母の友だちと私という組み合わせで旅行をしたこともあります。

父とは路上でバッタリ会って強烈に惹かれ合うような大恋愛をして、そのまま田舎に嫁いでしまったそうです。カルチャーショックも大きかったでしょう。父との関係に苦しみながら弱っていく姿を見るのはつらかったです。でも、ああいう生き方しかできない人だったのかな、とも思います」

魂の結びつきが強いとはいえ、恵子さんは別人格の人間である。その証拠に、夫である幸司さんは父親とはまったく異なるタイプの男性だ。

「一緒にいるときは何かに思い悩むのがバカバカしくなるほど気楽です。私の横でカーっといびきをかきながら寝ていたり、ずっとスマホゲームをしていたり。彼の前ではあれこれ考えずにすむし、感情も丸出しにできています。彼に父親としての役割をどう思うかを聞いたら、『家族が安全で穏やかでいるための気配りをすること』だと答えるんです。何それ、すごすぎる、神かな、と思いました。私の父親とは真逆の人なのです」

つらいことを乗り越え、気遣い支え合うのが夫婦

今年に入って恵子さんと幸司さんには悲しい出来事があった。妊娠をした直後、恵子さんに持病がわかると同時に流産をしてしまったのだ。恵子さんは「あまり多くを求めてはいけないんだな。まともな人と結婚できたことが超めっけもんだった」と考えて、自分を慰めようとしていた。しかし、半年が過ぎて、母親のことを思い出すと心が乱れることがある。

「母も兄たちと私を産む前に2回流産を経験しました。申し訳ないので離婚して実家に帰ることも考えたそうです。そのときの母を想像すると、私もきっと大丈夫だと思いながらも泣いてしまいます」

そんなときに幸司さんは何も言わずに恵子さんの話を聞いてくれて、アイスクリームを買ってきてくれるという。

恵子さんはいま、パートで週4日働いている。元来が働き者の恵子さんはフルタイムの職を見つけようとしているが、幸司さんが優しく止めてくれた。この1、2年でいろいろありすぎたので、もう少し時間をかけて傷を癒やしたほうがいい、と。怒鳴り合い憎しみ合うのではなく、気遣い支え合うために夫婦はある。