「結婚なんかしない」

そう、言い張っていた。

今の生活を手放すなんて考えられない。自由で気まぐれな独身貴族、それでいいと思っていた。

仕事が何より大事だと自分に言い聞かせ、次々にキャリア戦線を離脱してゆく女たちを尻目に、私はただひたすら一人で生きてゆくことを決意していたのに-。

”想定外妊娠”に戸惑っていたのもつかの間、千華ははじめてのエコーで心を揺さぶられ、たとえ独身だろうと産む決意を固める。

元カレ・ショーンとすれ違い続けていた千華は、授賞式で憧れの先輩から言われた一言をきっかけに、自分の本心に気づいた。

その夜、ついにショーンとお互いの気持ちを確かめ合うが、そんな2人を祝福できない女がいた。




親友・舞子の本心


「舞子。私、妊娠した。」

千華からそう告げられた夜、私の感情の大部分を”怒りと嫉妬”が占めていた。

―なんで、千華なの…。

けれど、この本心を千華に悟られてはいけないと平静を装い、混乱する彼女をひたすら励ましたのだ。

それが私にとっては拷問のように辛いことなのだと、千華は知らない。



「千華…本当に、ショーンと結婚するの?」

その日、私は千華に呼び出され、会社に近い、恵比寿『ゴッサムグリル』でランチをしていた。

「うーん、プロポーズされたわけではないけど…。ヨリは戻した、かな。」

一度はすれ違った2人だったが、結局電話越しにショーンは「愛している。」と宣言したそうだ。

私は、少し前まであれほど頑なに「結婚したくない!」と宣言していた千華の変わりように驚いていた。

「それにね、例の産休から復帰した先輩にも、いろいろアドバイスを貰ったわ。」

前はあんなに「失望した」と嘆いていた先輩のことも、今ではずいぶん嬉しそうに話している。

あからさまに眉根を寄せる私のことなんて、少しも気にしない千華に苛立ちを隠せない。

「そう、よかったわね。」

―なんて心の狭い人間なのだろう、私は。

親友の吉報を、私は一つも祝福していない。自分の心を真っ黒な感情が覆っていくのを止めることはできなかった。

自由で気まぐれな独身貴族が、「妊娠した」なんて図々しいにも程がある。

それは、私が手にすることの出来ない幸せの象徴だったのに。

―妊娠なんか、望んでもいなかったくせに。


悲しきキャリアマザーの憂鬱。


私は、25歳の春に結婚した。

10歳上で、大手弁護士事務所に勤め、離婚歴がなく、穏やかで優しい夫。

同僚や友人たちが指を咥えて「うらやましい」と称賛するたび、勝ち誇った気分になった。

キャリアに未練もなく、専業主婦になって夫を支えながら、いつか子供が出来たら郊外に戸建てを買う。この先そんな人生が用意されているのだと、ほんの少しの疑いもなかった。

妊娠が発覚したのは結婚式を挙げた直後のことだ。

専業主婦以外の選択肢を持たなかった私は、たいして重くもないつわりを理由に、あっさりと勤めていた出版社を退職した。

持て余してしまった余暇を楽しむように、毎週銀座を散歩しベビーグッズを買い漁った。平日は広尾のマタニティヨガに通い、父母学級では熱心にメモを取る。

キラキラと輝くマタニティライフに、私は完全に浮かれていたのだ。

けれど、人生はそんな甘いものじゃない。

糖蜜に浸かったような時間はあっというまに通り過ぎてしまう。




産前、それなりに覚悟はしていたつもりだったのに、想像を超えて育児はとにかく壮絶だった。

夜通し泣き続ける娘を抱きバスルームの鏡の前に立つと、そこには見たこともないほど恐ろしい顔をした自分が立っていたのだ。

―これが、私?

伸び切った髪、目の下に刻まれたクマ、ノーメイクの荒れた肌。理想の母親像とはかけ離れた姿が映し出されている。

実家に近い千葉の郊外に戸建てを持つ夢さえ、夫が独立したことをきっかけに崩れ去ってしまう。その独立も、妻である私には何の相談もなかった。

「しばらくは仕事に集中したいから、都内を離れるわけにはいかないよ。」

そう宣言する夫に腹を立てても、娘の泣き声によって遮られた私の抗議の声は夫に届くことはない。

これをきっかけに夫婦の会話は激減した。

可愛い娘、優しい夫、郊外の戸建て…。

描いていた理想とは、全てが真逆へと転がりだした結婚生活。絶望に潰されてしまう前に、私は再就職を決めた。

それは出版社時代の同僚が立ち上げた、当時は名もなきベンチャー企業で、ファッションメディアを運営する会社だ。

そうして、私に無関心な夫と、泣き止まない娘と、終わらない家事から逃げるように、私は仕事にのめり込む。



就職してしばらく経った頃、千華と知り合った。

「キャリア女子の休日」という特集で同僚に紹介されたのが、広告代理店で働く千華だったのだ。

インタビューの中で「結婚に魅力を感じない」という千華の言葉に、既婚者であるはずの自分が大きく頷く。

自分の悲惨な結婚生活を、インタビュアーであるはずの私が力説すると、千華は目を丸くして「ひどい!」と一緒になって怒ってくれた。

妙に意気投合してしまった私達は、プライベートでも連絡を取り合い、事あるごとに一緒になって「結婚」を否定するようになる。

そんな私の姿は「結婚生活がうまくいっていなくても、育児も仕事も完璧にこなす自立した女性」として、千華の目には写っていたようだ。


立ちはだかる「2人目妊娠」への壁


30代を迎え順調にキャリアを積み上げていると、今度は義両親が「2人目はまだか、仕事ばかりで子供が可愛そうだ」と、騒ぎ出す。

―2人目を授かれば、少しは夫と関係を修復できるかも。

夫の事業も軌道に乗り、ある程度落ち着いたタイミングで夫を説得した。排卵日に毎月繰り返される儀式のような夜の営み。

千華と一緒になって「結婚」を否定しながらも、温かな家庭や夫婦関係への、かすかに残っていた希望を捨てられなかった。

けれど、義両親のヒートアップする”2人目コール”とは裏腹に、いつまで経っても妊娠の兆候はない。

気休めに、千華にも紹介したクリニックを訪れた。生理不順も続いていたし、ほんの軽い相談のつもりだった。

けれど、先生が私に手渡した紙切れが、私を絶望のどん底へ突き落とす。

「自然妊娠は…難しいですね。紹介状を書きますので、こちらで詳しい検査をー。」

6年前に娘を授かったのは、ただ運が良かっただけだったのだ。

その紹介状に書かれていたのは、都内でも有名な不妊治療に特化した婦人科だった。

―なんで、私が!

帰宅すると私はトイレに引きこもり、その紹介状をぐしゃぐしゃに丸めながら子供のように声を上げて泣いた。

結果を電話で伝えても「そうか。」としか言わない夫の無関心さを恨み、いくら望んでも妊娠できない自分を呪った。




「ママ、泣かないで。大好きだよ、出てきて。」

もうすぐ6歳になる娘が、ドアの向こうで声を震わせている。仕事に没頭し、甘えたい盛りの娘にさんざん我慢をさせたというのに、こうして健気に私を呼んでいるのだ。

涙を拭いてトイレから出ると、そこにはポツンと廊下に座り込んでいる娘。

「ごめんね、ごめんね…。」

思わず力いっぱい抱きしめて、私は何度も謝り続けるのだった。



母親としても不完全、家族とまともに向き合うことも出来ない。

そんな複雑な思いを抱えたまま参加したのが、千華が担当したWeb広告の撮影だ。

撮影現場の真ん中に置かれたソファーで娘を膝に乗せ、夫の手を握り微笑む。

渋る夫を「家族写真みたいなものだから」と、説得して挑んだ撮影だったのに、モニターに映し出されたのは不自然なほど完璧な家族の肖像。

夢にまで見た温かな家庭は、虚構の世界にしか存在しないのだと思い知らされた。

まさかそんな広告が賞を取るなんて、皮肉にしては良く出来すぎている。



一体、幸せとは何なのだろうか。

理想と現実は、いつだって悲しいほどかけ離れている。

どうして私じゃないのだろう。どうして、よりによって千華なのだろう。

―結婚も妊娠も望んでいなかった女が、どうして…。

私の中に巣食う真っ黒い感情は、抑えきれないほどに膨れ上がっていた。

「ねえ、浮かれるのもいいけど、色々やることがあるんじゃない?」

今日は調子がいい、と言ってフライドポテトをつまむ千華に放った自分の声が、ひどく尖っている。

「産まれたらしばらく動けないのよ?実家も遠いんだし、ちゃんと現実を見て準備しないと…。」

そうねえ、と気のない返事をよこす千華に、苛立ちは止まらない。

「あ、そうだった。来月ね、ショーンのお母さんにご挨拶に行くの。手土産何が良いかな…。」

千華は呑気に、お菓子の画像が並ぶスマホ画面を差し出してくる。

「これで良いんじゃない。」

私が適当に指したサブレを、千華は真剣な顔で見つめている。

「千華ごめん。私、戻らなきゃ。仕事片付けないと、お迎えに間に合わない。」

千華、あなたは知らない。

私がどれだあなたを羨ましいと思っているかを。そしてそれと同じくらい、憎らしいと思っているのだ。

これから、少しでも苦しめばいい。

そう願いながら、千華を置いて席を立った。

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