週刊誌のカメラマンに狙われた、政界プリンス妻の疑惑。怪しい視線の先にいた、男の正体とは
あなたが港区界隈に住んでいるならば、きっと目にしたことがあるだろう。
透き通るような肌、絶妙にまとめられた巻き髪。エレガントな紺ワンピースに、華奢なハイヒール。
そんな装いの女たちが、まるで聖母のように微笑んで、幼稚園児の手を引く姿を。
これは特権階級が集う秘められた世界、「港区私立名門幼稚園」を舞台にした、女たちの闘いの物語である。
麻布十番在住の菱木悠理は、作家の夫・邦彦のたっての願いで、仕事を辞めて娘の理子を名門幼稚園に入れることになった。
そして次の大イベント「フェスティバル」の準備で、高輪妻の痛烈な嫌味を受け、喧嘩をしてしまった悠理だが―。
「邦彦君!今日という今日は言わせてもらうけど、私がこんなに苦労するってわかっててあの幼稚園に理子を入れたの!?」
悠理は、娘の理子を幼稚園に送ったあと、十番の『イート・モア・グリーンズ』に、締切明けの夫・邦彦を仕事場から呼び出した。横並びのテラス席に着くなり夫に詰め寄る。
「何なの?意地悪?さては新作のネタ作り?」
「ええ〜?そんな…心外だよ悠理さん。落ち着いて。ほら、グリーンスムージーでもどう?」
「いるかっ!いや、いるけど!」
おそらく徹夜明けで一睡もしていないであろう邦彦は、臨戦態勢の悠理に久方ぶりの安眠を邪魔されても怒ることなく、ニコニコしながら座っている。
「そういうコンサバ紺ワンピースも、すっかり似合ってるね。とってもエレガントだ」
「そりゃ3か月、平日は毎日毎日、紺ワンピ来てれば馴染んでもきます!ねえ、邦彦君が通ってた頃からこの幼稚園ってこんな雰囲気だったの?亡くなったお義母さまだって、相当苦労されたんじゃない?」
邦彦は無精ひげをなでながらテラス席で青い空を仰ぎ、運ばれてきたコーヒーを美味しそうにすすった。
「まあ、正直子どもの僕は楽しいばかりで、母がそこまで苦労してたかは…。そうか、悠理さんには申し訳ないことをしたね」
「申し訳ないじゃすまないのよ〜!」
昨日の幼稚園での失態を思い出して、がっくりと肩を落とす悠理を見て、邦彦はよしよしとばかりに肩を抱く。
「でもね、悠理さん。物事の上面だけに気を取られないで。彼女たちをよく見てみてよ。きっと面白いことが起こるから」
邦彦はそう言って、意味深に微笑んだ。
苦境に立たされる悠理。打開策はあるのか?
「信じられないほどキレやすく、あり得ないほど下品」な母認定
「面白いこと!?これ以上珍妙なことが起こったら困るのよ」
邦彦の無責任とも思える物言いに、悠理は思わず肩に置かれた邦彦の手を振り払う。
「まあまあ。悠理さんだって、このままじゃまずいと思ってるんでしょ?フェスティバル、麻布の皆さんとどうするの?」
「…うん、それがね…頭に血が上って、葵さんたちに『こうなったら完全手作り焼きそばのお店を4人でやりましょう!』って言ったんだけど、完膚なきまでに却下された」
「…それはまあ、そうだろうねえ」
「美紀さんなんて『母親が一切調理しなくても、子どもたちを最高に喜ばせられるって証明しましょ』って、ひらひら手を振って帰っちゃって。さすが売れっ子女優、肝が据わってるのよね」
悠理は途方に暮れて、麻布十番の道行く子連れマダムたちを見ながら、ため息をつくのだった。
◆
土曜日の朝に登園するのは初めてかもしれない。
今日はフェスティバル前日準備のため、母親のみの登園だ。子どもたちは父親、祖父母、ベビーシッターを総動員して預けられている。
2か月前の役員会で悠理が高輪妻・藤堂麗子と口論になったことは瞬く間に広がり、いまだに悠理は「信じられないほどキレやすく、ありえないほど下品」なヒールとして恰好の噂の的になっていた。
幼稚園デビューは、完全に失敗である。
もはや退園し、2年保育の幼稚園を受けなおしたほうがいいのではないかとまで思いつつ、楽しそうな理子を見ると、しばらくは頑張るしかないと、悠理はため息をつく。
門扉までくると、悠理は足を止めた。
―?マスコミ…?
カメラを構えたマスコミの記者数名が、周辺の様子を伺っているのだ。
「ごきげんよう、悠理さん。こんなところでもたもたしてると、とばっちりに合いますよ」
送迎の車を降りてきた東郷綾子が、さっと悠理の腕をとると、門の中に促す。
「ごきげんよう、綾子さん。あ、あの人たちは…?」
「毎年フェスティバルや運動会の時には週刊誌なんかが張り込んでいます。今年は美紀さんご夫妻や葵さんのところもいるし、長女の時は私も無防備で隠し撮りされました」
そういえば、政界の若きプリンスとしてカリスマ的人気を誇る綾子の夫が、娘たちを両方の腕に一人ずつ抱いて幼稚園に行く写真を見たことがある。二人の娘の顔はかろうじて加工されていた。
―有名人だからって幼稚園にまでくるなんて、週刊誌って暇なのね…。
悠理が門の向こうを振り返りながら首をすくめると、綾子はさっさと園舎に入っていく。
「私は上の娘のクラスでも出し物があるから、先にそちらに顔を出して参ります」
早口で言い添えると、綾子は振り返って悠理を見た。
「悠理さん、私、同じ麻布チームだからといってあなたと同類と思われては大変迷惑なんです」
「…はい」
「だから明日、誰にも何も言わせないくらい、名誉挽回してください」
綾子はそう言い放ち、悠理を一瞥すると、踊り場から消えた。
―四面楚歌ってこのことね。
悠理はしばらく呆然としたあとに、やけっぱちな気持ちで室内履きに履き替える。ため息をつきながら廊下を進んでいると、突然、高輪チームの出し物部屋から、悲鳴が響いた。
フェスティバル開始直前、思わぬ事態が高輪妻を襲う!?
綾子の秘密
「この忍者屋敷の昇降台装置、この隙間に子供が指を挟んだら、大変なことに…!すこしでも危険がある以上、これは使えません」
高輪チームの渾身の「忍者屋敷」は、室内アスレチックの様相で、フェスティバルの目玉とも思える楽しそうな出し物だった。
しかし業者が搬入した装置に何か問題があったのだろう、後ろの扉からのぞくと、皆深刻そうな様子で集まっている。
「確かに…でもこれは忍者屋敷の要だから、この仕掛け機械が使えないとなると…」
「…作り直しましょう。まだ24時間ありますわ」
悠理と先日やりあった藤堂麗子が、一呼吸おいてきっぱりと言った。
―作り直す!?まさかこの凝った日本家屋風の内装を!?
悠理はぎょっとして、廊下にまで張り出した瓦屋根の張りぼてを見やる。高輪チームが、装飾の一切を、別の場所でこの1か月交代で制作していたことは聞いていた。搬入できるのは今日1日だけと決められていたからだ。
「子どもの安全には代えられません。やりましょう、皆様」
その毅然とした麗子の口調に、悠理は思わずはっとした。
―あんなにみんなで毎日苦労して作って、もうほとんど完成してるのに…。
向かいのホールに目をやると、聖心OGチームと白金「台」チームのメンバーが、床に座り込んで頭を寄せ、話し合っている。
なるほど、普段からスカートしかはかない彼女たちではあるが、今日はホールの床に座れるように、いつもよりふんわり長いスカートなのはこのためらしい。こんな時もパンツではないところが、彼女たちらしかった。
「チャリティバザーですが、もっと子どもたちに一体感を味わってもらうために、子どもフリーマーケットにしたらどうでしょう。子どもたち自身が売り子になって、ワークショップで作ったものをバザーの会場で売れるようにするんです」
「それはいい考え!お店の売り子さんも体験できるし、保護者が購入して、寄付に回すシステムにして。あ、それじゃあ子どもが一手間加えたらすぐに完成して売れるようなマスコットも、今から100個くらい作りましょうか」
もう前日なのに。準備期間なんて2か月くらいあったのに。その仕切りの悪さを揶揄するのは簡単だった。
でも、悠理は今、「譲歩も留保もなく、母親は100%子どもために」頑張るといった麗子の言葉を思い出していた。
―嫌味言うだけのこと、あるかもなあ。あの人たちに比べたら私、熱意が足りないや…。
悠理は、自嘲気味になり、階段の踊り場の窓から園庭を見た。明日のために、仮設舞台ができていて、芝浦チームがフラダンスショーのリハーサルをしている。
客席から何かを指示しているのは、芝浦父兄の一人でもあり、有名イケメンプロデューサーの遠峯涼真だった。
母親たちもいつもよりも半オクターブ高い声で彼を囲んでいる。
そのときごとん、と音がして、足元に白くてシンプルな水筒が転がってきた。
振り返ると、綾子が幾分青い顔で立っている。
日頃は威風堂々、といった風情の綾子のそんな表情を初めてみたので、悠理は心配になって水筒を拾い、歩み寄った。
「綾子さん?」
「…なんでもないわ」
怯えて逃げるように踊り場から去った綾子は、何を見ていたのか。
悠理も同じ場所から窓の外を見る。
視界には、フラ軍団に囲まれて優しげな笑みを浮かべる遠峯涼真。
そして遠く、門の外にはカメラを構えている数人の週刊誌記者。
訝る悠理がなおも凝視していると、涼真と視線がぶつかる。そして何かを探すような目は、すぐに悠理の後ろに流れた。
まるでさっきまでそこにいた誰かを探しているように。
悠理は何となく見てはいけないものを見た気がして、顔を伏せると窓辺を離れ、打合せのために綾子を追うのだった。
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怯える綾子の胸中はいかに…? そして怒涛の本番!麻布チーム、起死回生なるか?