「結婚なんかしない」

そう、言い張っていた。

今の生活を手放すなんて考えられない。自由で気まぐれな独身貴族、それでいいと思っていた。

仕事が何より大事だと自分に言い聞かせ、次々にキャリア戦線を離脱してゆく女たちを尻目に、私はただひたすら一人で生きてゆくことを決意していたのに-。

”想定外妊娠”に戸惑っていたのもつかの間、千華ははじめてのエコーで心を大きく揺さぶられ、たとえ独身だろうと産む決意を固める。

そして子供の父親・ショーンにようやく妊娠したことを告げるがー。




「俺が、父親…?」

私が妊娠したという事実を告げると、ショーンは呆然とした表情を浮かべている。

「千華、前にも話したと思うけど、俺は―。」

その時ショーンのスマホから、閉店間際の静寂を破るけたたましい着信音が鳴り響いた。

「…いいわよ、仕事でしょう?」

私はそう言ったが、ショーンは電話には出ず、鳴り続けるスマホの画面を複雑な顔で見つめている。

「あなたに父親という役割を押し付けたいわけじゃないの…。ただ、知っておいてほしかった。」

-それ以上は、期待しても傷つくだけ。

「もう、帰るね。忙しいのに、ありがとう。」

ショーンはあのとき何を言いかけていたのだろう。その言葉の続きをもし聞いていたら、私の心は今頃バラバラに砕け散っていたかもしれない。

そんなことを考えながら席を立った。

足早に店を出ると、東京タワーのライトはすでに消えており、まるでぬるま湯につかっているかのような夏の重苦しい空気が横たわっていた。

一人でも育ててみせるという決意は変わらない。けれど、なぜこうも涙が溢れてしまうのか。


愛しい人を、いつも引き止めることができない男の苦悩。


ショーン「心から、愛していたはずだったのに」


元妻は"子供を持って、家族を完成させること"に執着した。

俺が、屈辱的ともいえる診断結果を見せても「可能性はゼロじゃないわ。」と、目に涙をためて下唇を噛んでいた。

見たこともないサプリがキッチンに並び、カレンダーには不吉な印が並ぶ。

「2人だけの人生を楽しみたい」と言っても、元妻は涙ながらに「いいえ、諦めないわ。」と、訴えた。

そんな彼女をいつしか避けるようになり、仕事が忙しいと言い張って家に帰らない日が続いた。

ある時、家に帰ると、ダイニングテーブルの上には緑色の薄い紙が残されていた。整然と記入された元妻の文字。

結局話し合いをすることもなく彼女は去っていった。

だけどあの日、心底ホッとしたのを今でもよく覚えている。

-もう、泣きながら責められることはない。




だが千華は違った。

不妊の事実を伝えても、「ちょうどいいじゃない、私たち。」と笑ったのだ。

あの日の笑顔は一生忘れないだろう。

"お互い仕事と人生を楽しもう"という合意があってスタートした付き合いは、心から楽しいと思える時間だった。

否定されているだけの息苦しい結婚生活とは真逆で、千華と顔を合わせると全て許されているような、そんな気がしていた。

だが、それがとんでもない奢りだと気づいたのは、あの日、よりによって千華の誕生日をすっぽかしてしまった時だ。

決して俺を否定しなかった彼女の気持ちに、あぐらをかいていたのだ。いくら激務に追われていたといっても、言い訳のしようもない。

だから今日は全てをやり直すチャンスだと思った。でも、千華の口から飛び出した「妊娠した。」という告白に、一瞬の戸惑いを覚えてしまったことは否めない。

そしてクライアントからの電話に気を取られているうちに、千華は店を出ていった。

その姿は、元妻が去ってしまった日の光景とダブって見える。

ー愛していたはずなのに。

いや、愛しているのだ。

手に握りしめたスマホは虚しく鳴り続けているが、そんなものよりずっとずっと大切な存在を、手放してはならない。

慌てて会計を済ませ、店の外に飛び出した。しかし、すでに千華の姿は消えてしまっていた。

「くそっ…。何やってんだ俺は!」



千華「私は一体、何を期待していたんだろう」


翌日、私の体調は最悪だった。

歯ブラシを口に入れただけで吐き気は止まらない。ファンデーションを顔に近づけると、その匂いでまた吐きたくなる。

ウォークインクローゼットでも息を止めなければ、服を選ぶことさえできない。

なんとか身支度を整え、会社に向かう途中に思い出すのは昨日の夜のこと。私は一体ショーンに何を期待していたのだろうか。

ショーンの瞳が陰り、明らかな戸惑いを見せたことが予想よりも遥かにショックだったのだ。会社に着いてからも、昨夜の出来事を思い返しては一人で傷ついていた。

時計は昼をまわり、吐き気はあるものの空腹感に負け、唯一口にできそうなゼリーでも買いに行こうと席を立った時だった。

「木田さん、こっちはもう俺たちでなんとかなりそうなんで、授賞式よろしくおねがいしますね。」

「え?」

私が怪訝な顔をすると、部下の徳永は呆れた顔で私を見つめた。

「"え?"って…今夜、パーティーもあるからって直帰の予定入れてるじゃないですか。」

慌ててカレンダーを見ると、そこにはしっかり『グランドハイアット東京』と、入力されている。

ー忘れてた。

広告賞の授賞式。そんな大事な予定だというのに、この数日のドタバタですっかり頭から抜け落ちていたのだ。

「ごめん、思い出させてくれてありがとう。」


迫りくる"つわり"の恐怖、逃げられぬ乾杯の儀式。


授賞式は滞りなく進んだ。

真っ白なスポットライトに照らされながら受け取る花束と盾。午前中に感じていた吐き気など吹っ飛んでしまうほどの名誉に、私はほんの少しの間、酔いしれていた。

そう、授賞式までは全てが完璧だったのだ。

アフターパーティーの会場には、豪華絢爛なケータリング、そして生花が所狭しと飾られている。

しかしさっきまでの私だったら、嬉々として写真を撮っていただろうが、今、それらは凶器となって私の体調をかき乱していた。

その一つ一つが発する匂いは複雑に入り混じり、強烈に鼻を刺激する。今はただ、どのタイミングでこの会場から抜け出すか、そのことで頭がいっぱいだ。

それなのにタイミング悪く、ある人物が私に近づいてきたのだ。

「いやあ、こんな立派な賞をもらえるなんて。すべて木田さんのおかげだ!」

それは、広告動画のクライアントである赤松専務だった。専務は顔を赤らめ、シャンパンをぐいっと差し出す。

-来たっ…!

この男、ややアルコールハラスメントの気があり、しかも話が長いのだ。

「あ、ありがとうございます…。いただきます。」

いつもなら2、3杯付き合って早々に離脱するのだが、今の私にはそれすらできない。グラスを受け取り、乾杯するも不自然に口をつけない私を見て専務の表情が曇っていく。

ーどうしよう…。飲まずにグラスに口をつけるフリだけしたら、なんとか逃げきれる…!?

鼻の先でパチパチと弾ける泡、強烈に香るアルコール。

ーだめだ…、吐いちゃう!

その時だった。

「千華ちゃん、ここにいたのね!赤松さんも。」

軽やかに栗毛色の髪をなびかせ、オープントゥのパンプスと、ジャージーワンピを身にまとった美しい女性が立っている。




押し寄せる胃酸を寸前のところでなんとか抑え、ふと顔を見れば、そこにはかつて私が憧れ、目標としていたセールスの先輩が立っていたのだ。

「なんで…浅野先輩、育休中じゃ…。」

「ふふ、先週から広報で復帰したのよ。」

先輩は名刺を取り出し、赤松専務に渡しながらにこやかに挨拶をしている。

「赤松専務、この度は弊社を起用していただきありがとうございました。ところで、来月予定しているマーケイベントで御社との対談をお願いできないかと思いまして…。」

産休中に会ったときは、仕事よりも育児に専念している様子だったのに。

今の彼女には、大きなナイロンのマザーズバッグも無ければ、プラスチックのおもちゃもマグも無い。

憧れていた当時の姿そのままの浅野先輩が、そこには居た。

そして不意に目が合った私に、先輩は出口の方をこっそりと指差し、そちらに早く行くようにと目で促す。

私は少しずつその場から後ずさり、あとは誰にも引き止められないことを祈りながら、足早に会場の外のトイレへと向かった。

もう私の胃袋は限界だったのだ。



しばらくして、浅野先輩の足音が聞こえた。誰よりも上品にコツコツと歩く先輩の足音だ。

「千華ちゃん…、お水とポカリ、買ってきたわよ。」

浅野先輩の顔を見るなり、私の目から涙が溢れ出す。理由は自分でもわからない。

「ねえ、もし違っていたらごめんね。」

先輩が私を見つめ、問いかける。

「千華ちゃん…、妊娠してる?」

私はいつも、先輩の背中を追いかけてきたからわかる。彼女ほど、勘の鋭い人はいない、と。

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