あなたが港区界隈に住んでいるならば、きっと目にしたことがあるだろう。

透き通るような肌、絶妙にまとめられた巻き髪。エレガントな紺ワンピースに、華奢なハイヒール。

そんな装いの女たちが、まるで聖母のように微笑んで、幼稚園児の手を引く姿を。

これは特権階級が集う秘められた世界、「港区私立名門幼稚園」を舞台にした、女たちの闘いの物語である。

麻布十番在住の菱木悠理は、作家の夫・邦彦のたっての願いで、仕事を辞め、娘の理子を名門幼稚園に入れることになった。

しかし初日から、異世界に来てしまったことに気が付き、呆然とする。

そして麻布・白金グループランチ会が、会員制の東京アメリカンクラブで催され、役員を引き受けるよう仕向けられた悠理。初仕事は運動会だが―。




「不思議…なんなのこの運動会…」

悠里は放送室から見える光景に衝撃を受けた。そこには園児がずらりと並んで、母親のことを振り返ることもなく背筋を伸ばして先生の話をきいている。

「悠理さん!カウント見て!この曲が終わったら退場の音楽よ。遅れたらどうするの?」

「あ…はい!すみません!」

元モデルの長者妻・神崎葵が、悠理に向かって遠慮ない口ぶりで注意する。

入園してからの1か月、慣れない園生活の開始とともに役員を引き受ける羽目になった。そんな悠理の生活は、誇張でなく朝から晩まで幼稚園一色だ。

この園では、母親、とくに役員は、職員並みに手伝いが要求される。もはや行事の主催は母親なのではないかとさえ思うくらいだ。

都心の競技場を借りて行われる運動会には、園児の両親のみならず、祖父母までもが駆け付ける。しかもたいてい彼らはこの園の「卒園生」でもあり、その目は自然に厳しい。

朝から高級車の見本市と見紛うような駐車場の誘導と受付で、悠理はすでにへとへとであった。

この時間の役員ヘルプが神崎葵でなかったら、本日二つ目の山場、放送係を全うできなかっただろう。

「葵さんがいてくださってよかった。すみません、事前にきいてはいたんですけど、色々運動会の様子が衝撃的で…」

葵はフン、と鼻を鳴らす。二人しかいない放送室で、葵の態度が急変したような気がして、悠理は思わず葵のドールフェイスを二度見した。心なしか声のトーンも違う。

「確かにね。ママはトップス白、ボトムス紺指定。遠巻きにずらりと並ぶ、入園希望のお受験スーツママ軍団。父兄は権力者か有名人がどっさり。門の外には週刊誌のパパラッチ。運動会なのにお弁当なし。そして一番びっくりするのは―」


こんな運動会見たことない!?悠理と葵が驚いたこととは?


「芸能人と成金の夫婦は、億万長者でも格下なの」


「運動会なのに子どもたちが制服ってこと」

葵の言葉に、悠理は思わず、「うん!それ!」と相槌を打った。

「こんなにフォーマル感たっぷりの制服で運動会っていっても…。いくら激しい競技がないからって、普段から体操服がないならせめて今日はTシャツに着替えるとか」

「…ねえ、悠理さん。なんでこの幼稚園に入れたの?そんなんで、あのお受験よく突破したね。みんな専門の個人塾なんかに通って、入園後の心得とかも指導されてるよ?

この幼稚園に子どもを入れたくて、セレブ産院御三家で出産して、幼児教室、ジンボリーにリトミックとか相当頑張ってる人も多いのに」

葵が、競技中のBGMリストを確認しながら、不審そうに悠理を見た。

「そうなんですか!?…うちは、恥ずかしながら主人が主導で…」

「ああ、ご主人の卒園生子弟枠なのね。羨ましい」

葵はため息をついて、放送席の丸い椅子に腰かけた。さすがモデル、頭蓋骨を上から見ても小さい、そして可愛い。悠理は上から見下ろすかたちになった葵を見て思う。

「うちはご存知のとおり二人とも成り上がり一代記だから、こんな超名門幼稚園、縁もゆかりもないの。

たくさん寄付の約束をして、いろんな人に紹介状書いてもらって、願書出すために便利屋雇って受験番号1番狙って、どうにか潜り込んだのよ」




―一代で莫大な財産を築いた有名夫婦が、そんなことまでしていたなんて…。たかが幼稚園じゃない。

悠理はどうにかその言葉を飲み込んだ。

ここにいる親が、この幼稚園で子どもを学ばせたいと思う気持ちは、理由や程度の差こそあれ、とても真剣なものなのだ。それを他人が簡単に否定するべきじゃない。この1か月で、その位の知恵はついていた。

「葵さんがそんなこと言ったら、私なんてどうしたらいいんですか。ママランチの会場にさえ自分じゃ入れないんですよ」

「…悠理さんて、イイヒトよね。気が抜けるわ。あのね、芸能人と成金の夫婦なんてこの幼稚園じゃ格下よ。これでもけっこう陰でいびられてるんだから。この世界の『序列』、気づいてるでしょ?」


妻界ヒエラルキーのトップに君臨するのは?


財力、知力、美貌、子どもの実力…現在格付判定中


「序列なんてあるんですか?」

悠理の言葉に、葵はこれまでの上品で愛想のいいセレブ妻「神崎葵」の仮面を外し、忌々しそうに言った。

「成り上がりはここにはふさわしくないって、元麻布や高輪の名門一家の奥様からは見えないモノとして扱われてる。白金台の聖心OGマダムたちもいくら話しかけてもよそよそしいし。私が高卒で香川出身の田舎者だってみんな知ってるから」




悠理は絶句した。役員の仕事に忙殺されている間に、そんな雰囲気が醸成されていたとは…。

芸能界でポジションを確立し、ECマーケットで大成功を収めた男を射止めた葵がこんなにしょぼくれてるのだ。相当にきついのだろう。あわてて放送音量を調節しながら続ける。

「ち、頂上決戦みたいなところにいる方たちは大変なんですね…全然知らなかった。役員の仕事でポンポン150セット制作の夜なべに必死でした…」

葵はきょとんとして悠理を見ると、気が抜けたように吹き出した。

「頂上決戦ね。ママの階級闘争、か。まだまだ始まったばかりってところね。知ってる?年少の間に決まったポジションは、そのあとも永遠に変わらないんですって。

財力、夫の仕事、子どもの出来、母親の容姿とキャラ…今は総合的に情報収集して評価しあってるところ。とりあえず、麻布チームは他のチームにベンチマークされてるから気を付けて、栄えある役員さん?」

葵は心なしかさっぱりとした表情を浮かべると、これまで通りの仮面を再びつけて、「ごきげんよう」と放送室を出ていった。

―そもそも、役員なんかやってるのはあなたのせいでもあるんだけど…。

悠理は半分あきれつつも、葵の本音を聞けた気がして、華やかで遠い存在だった彼女をほんの少し身近に感じたのだった。



「運動会も終わって、次のビッグイベントは『フェスティバル』ですね」

運動会の翌日、月に1度の役員会が行われた。一息つく暇もなく役員代表から告げられたのは、何やら陽気なタイトルだ。

末席でメモを取る悠理は、年長・年中の役員たちを中心に、さっと緊張とも興奮ともつかぬ空気が走ったのを感じる。

「ご存知の通り、わたくしたちの園のフェスティバルは、子どもに当日思い切り楽しんでもらい、幼稚園の、いえ、幼少期の大切な思い出にしてもらうための行事です」

―文化祭、みたいな感じかな?なんだか楽しそう…!

楽しい気持ちになりかけたが、悠理は次の言葉で思わず動きが固まった。

「例年、お母さまたちが完成度を追及するあまり、直前期はホテルなどに泊まりこんで徹夜で準備するなどの状況が報告されています。くれぐれも良識ある範囲でお願いします」

―て、徹夜?子どもは?ママがオールで、子どもはどうなるの!?

思わず周囲を見渡すが、皆は平然としている。

「とは言え、最高のフェスティバルにするためには、皆様とご家族の協力が不可欠。運動会では残念ながら、積極的に参加されなかったお父様もいらっしゃるようですが、今回は臨戦態勢でご準備を」

何人かの母親が、ちらちらと悠理の顔を見ている。

悠理は、運動会に締切が重なり、結局手伝いには参加できなかった邦彦のことを皆が良く思っていないのだと悟った。

「それでは、それぞれお得意な分野に分かれて、準備チームを組みましょう。

サロンを開かれているお母様はワークショップ係、舞台で披露できる特技がある方は出し物係、手芸やお裁縫が得意な方は制作係、絵画や工芸が得意な方は装飾・印刷物係に。

すべてのお母さまがいずれかの係になります。後日クラス会で決定して、役員は報告してください」

―と、得意って、どの程度…?

嫌な予感がする。入園して2か月、そろそろこの園のテンションを理解しつつある悠理は周囲をそっと見回し、久しぶりに「心細い」としか言いようのない気分になっていた。

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サロネーゼの本領発揮、白金妻。チームワークの芝浦妻。そしてお金で解決したい麻布妻。それぞれの思惑がぶつかって…!?