10代半ばで凄惨な性暴力に遭った彼女の告白

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「自分の悪かったところはなんだったのだろう」と自問自答を繰り返す日々があった(写真:高橋エリさん提供)

性暴力の被害者を、被害から生き抜いた人という意味を込めて「サバイバー」と呼ぶことがある。被害を受けた過去はあっても、それだけがサバイバーの人生ではない。今、彼女ら彼らはどんなふうに生きているのか。それぞれの今を追う。

「花そのものの姿を生かしたデザインが好きです。花と対話をしながら活けている感じがする。そういうとき、幸せそうな顔をしてるって言われます」


本記事は連載の第1回です

高橋エリさん(仮名・40代)。フラワーデザインに関する資格を持ち、長年、国内外で花に関する仕事に携わってきた。彼女は10代半ばで、監禁と集団強姦の被害に遭っている。

高校生のときに遭った拉致監禁

人生で何度か、忘れられない瞬間があるとエリさんは言う。1つ目は、高校生のとき。春休みが明けて登校し、仲の良い友人たちと、いつもと同じように雑談をしていた。あの先輩がかっこいいという、たわいもない会話。その瞬間、自分だけがエレベーターでストンと落ちていくような強烈な感覚を覚えた。       

「私はもう、みんなとは違う。私はもう、この場所にいられない」

幼い頃に父が亡くなり、母は働きながらエリさんや姉妹を育てた。「手に職を」と、子どもたちを大学や専門学校に通わせてくれた一方で、エリさんが10代になると、恋人のできた母は家にあまり帰らなくなった。姉妹の一人は荒れて引きこもり、食器を投げる。家具や壁をボロボロにする。帰宅してから、ぐちゃぐちゃになった室内を片付けるのがエリさんの日常だった。

居場所がない。そう感じて、春休みにほかの街に住む先輩を頼って家出をした。駅で先輩を待っていたそのとき、若い男の集団に拉致された。車内でシンナーを吸わされ、その後の記憶は朦朧としている。男たちはエリさんが駅で缶のココアを飲んでいたのを見て、シンナーを吸っていたと勘違いしたらしい。「なんだシンナーじゃなかったのかよ、じゃあ吸えよ」、そんな会話だけ覚えている。

一軒家の2階に連れ込まれたこと、豆電球のあかり、「女がいる」と電話をかけている男の姿、つねに誰かが出入りしていたこと、部屋の隅に寝かされていた自分。食事は与えられ、トイレにも行くことはできたが、会話をした記憶はほとんどない。それが何日続いたのか覚えていない。

「シンナーを吸わされていたし、被害の最中は乖離(※1)していたのだと思います。いつ終わるのかわからない、終わらない地獄感。いっそ殺してくれみたいな気持ちがあったと思う。でも同時に生きたいという気持ちもあった」

※1 衝撃的な体験によって意識や記憶に問題が生じる状態

当時のエリさんは知らなかったが、同時代に東京都足立区で女子高生コンクリート詰め殺人事件が起こっている。10代の少年たちが女子高生を約40日間にわたって監禁し、死に至らせた事件だ。監禁場所が犯人の一人の自宅で、犯人の親も在宅していたことなどが、エリさんのケースと共通している。

類似の事件が横行していたのではないかとエリさんは振り返る。加害者たちは手慣れていた。エリさんから生徒手帳を取り上げ、シンナーを吸わせ、抵抗できないようにした。「逃げたり、警察に届けたりしたらもっと怖いことになる」、そう思わせる手段に長けていた。

加害者のうちの一人が、「ここにいるのはやめて、自分のものになれ」と言ったことで、監禁は終わった。けれど、このことが逆にエリさんを長く苦しめた。

「その場に残ることと男についていくことをてんびんにかけて、男についていった。本当はすごくイヤだったけれど、演技をしてついていきたいフリをしました。車に乗せられたのもシンナーを吸わされたのも、自分の意思ではなかったけれど、男についていったのは、出ていくためとはいえ主体的な行動。それが許せなくて、人に言えない原因のひとつになりました」

フラワーデザインの仕事に打ち込んだ20代

春休みが明けて、友人たちと自分は「もう違う」という感覚にとらわれてから不登校になった。その後の長い間、考え続けた。

「自分の悪かったところはなんだったのだろう」と。

駅でココアを飲まなければよかったのか。母に連絡しておけばよかったのか。先輩を頼らなければ、家出しなければ、あの家でしんどさに耐えていれば、大人が気づくようなSOSを出せていれば……。

考えてみても結局は「仕方なかった」に行き着く。あのときは、ああするしかなかった。「どこかでターニングポイントがあったかもしれない」と、「結局ターニングポイントはなかった」の自問自答を繰り返す日々。

10代後半で母に打ち明けたときに「忘れなさい」と言われ、それからしばらくは、記憶を閉じ込めて生きた。目の前の仕事に打ち込み、性暴力のニュースや連想させるような表現はシャットアウトした。当時のスケジュール帳には怖いぐらいに予定がびっしりと書き込まれている。ただ幸運なことに、なんとなく始めてみたフラワーデザインの仕事は天職だった。


エリさんの作品(写真:高橋エリさん提供)

「フラワーショップで働き始めてすぐの頃に、『彼女とけんかしてしまったから仲直りのために花を贈りたい』と若い男性が来たんです。当時の私は恋愛のことなんて全然わからなかったけれど、花言葉を調べたり、その彼女の好きな色を聞いたりしながら一生懸命花束を作りました。そうしたら次の週に、仲直りしましたって彼女と一緒に来てくれたんです。今でも涙が出るぐらい、そのときのことはうれしい。ずっと続けていこうという気持ちになりました」

言葉にできないことを花で表現するのは、自分が満たされる体験だった。日本で取得できるフラワーデザインに関する資格をほぼ網羅した頃、ドイツへの留学を決めた。大学へ行けなかったエリさんのために、母は留学費用を出してくれた。

個人の気持ちを尊重してもらえるドイツでの暮らしは性に合っていたという。自分の過去を詮索されない環境にも後押しされて、ドイツでも資格を取り、働いた。

「ここにあるマテリアルをなんでも使っていいから、エリの好きなように作品を作ってみて。それに値段をつけて売るから」

上司からそう言ってもらえる職場で技術と自信を身に付け、ドイツでの暮らしは約3年間続いた。

「なぜ通報しない」と怒ってくれた同僚

エリさんは言う。

「実は、ドイツでも性暴力の未遂に遭っているんです。でもその記憶は日本での事件と全然違う。その理由を含めて記事に書いてほしい」

エリさんを襲おうとしたのは、アパートの隣部屋に住んでいた男。ある日、帰宅したところを待ち伏せしていた。下に住んでいた大家が気づいて止めに入り、男はその日のうちにアパートを追い出された。

「次の日、仕事を休んでいたら同僚が心配して来てくれたので、休んだ理由を打ち明けたんです。そうしたら同僚がすごく怒った。犯人のことはもちろんだけど、大家さんに対しても怒ったんです。なんで警察を呼ぼうとしないんだ、エリが外国人だから差別してるんじゃないのかって」

エリさんからしてみれば、犯行を止めに入り、ただちに男を追い出してくれたことだけでもありがたかった。それでも同僚は怒って大家に苦情を言い、「こんなアパートじゃダメだ」と、代わりの住まいを見つけてきてくれた。

「同僚も店のオーナーも怒ってくれて、大家さんも謝ってくれて。誰も『エリにすきがあったんじゃないの?』なんて言わなかった。そういう周りの反応に救われました」

その後、日本でカウンセリングを受けたとき、「自分が安心できる場所、逃げ込めるようなシェルターになる場所を思い浮かべて」と言われて想像したのは、南ドイツで見た広々とした丘。人生で何度かある忘れられない瞬間の1つは、「生きていてよかった」としみじみと感じたドイツでの日常のひとコマだ。

「あのとき、殺されておけばよかったんじゃないか」

けれど帰国後、エリさんは30代の前半を混乱の中で過ごすことになる。交際相手との婚約がきっかけだった。病院でのブライダルチェックで判明した不妊の可能性。担当した女性の医師が言った。

「若いときの性病を放っておいたんでしょう」

どうせ遊んでたんでしょうとでもいうような、見下した言い方。子どもが大好きなエリさんは、結婚したら早く子どもが欲しいと思っていた。でも、もう無理かもしれない、自分が望んだわけでもない性暴力が原因で。その現実を突きつけられたとき、事件の記憶を押し込めておけなくなった。あのとき、殺されておけばよかったんじゃないか。いっそ殺してと思ったあのときの気持ちがよみがえり、死を願うようになった。

仕事に行けなくなり、自殺未遂をした。婚約者は支えようとしてくれたが、彼が上司から「そういう女性はやめたほうがいい」と言われていると知ったこともあり、破談――。

その後は数年間、入院と通院が続いた。3年連続で入院したのは、松尾スズキの小説『クワイエットルームにようこそ』のモデルとうわさされる精神病棟だ。入院する時期は決まって2月から3月。被害に遭った季節が近づくと不安定になり、リストカットやオーバードーズを繰り返した。

「年が明けると『今年こそは入院したくない』と思うけれど、やっぱりその時期が来ると”死にたい病”になる。それでいつも、桜が咲く頃に退院するんです。当時は桜を見ると『今年も生きてる』ってホッとしました。桜は生きているという象徴だった」

カウンセラーには、しばらく性被害を話せなかった。父との死別、幼くして祖父母に預けられたこと、母に懐けなかった子ども時代、ネグレクトぎみだったこと、姉の家庭内暴力。いろんな話をするうちに、カウンセラーから「男性に対してなにかあるよね」と指摘され、ようやく少しずつ話すことができた。

「私はたまたま性被害について話せて、カウンセラーもそこを拾ってくれたからよかった。でも同じ病棟にいた女性の中には身内からの性虐待の過去があり自死してしまった人もいました。入院中の雑談で、性被害の経験を話す人は多かったです。でも本人が『大したことじゃない』と思おうとしていたり、カウンセリングでも性暴力よりも家庭環境が原因だとされていたり。精神医療の現場でも、性暴力がクローズアップしてケアされていないことがある。それが不思議でした」

最後の自殺未遂と変化

ある年の春。今度こそ確実に死のうと思い、入念に計画して薬を飲んだ。でもやっぱり、死ねなかった。3日後病院で目が覚めると、病室の床には寝袋にくるまった母の姿。

後から聞いた話では、母は医師から「もうこのまま目が覚めないか、後遺症が残るかのどちらか」と告げられていたという。でもエリさんは生き残った。

「母の姿を見て、そこで吹っ切れたんです。これだけやっても死ねないんだから、生きるしかないんだなって。それからは、主治医の指示もありそれまで処方されていた睡眠薬などを飲むのもやめました。離脱症状で10キロぐらいやせたけれど」

それからしばらくして、性被害に遭った人の話を聞く支援員になるための講座に申し込んだ。20代の頃は、頑なに避けてきた性暴力の話題。30代で通院するようになってからは、ネット検索をして支援団体のHPをのぞくこともあった。そして40代に近づく頃、この問題に自分からかかわっていくことを選んだ。

被害直後の人の話を聞くことに不安もあったが、講師は「あなた自身にとっても癒やしになるといいね」と背中を押してくれた。講座終了後、問題を1つクリアしたような気持ちになった。

退院後も、EMDR(※2)による治療やメールでのカウンセリングを続けてきた。40代になってからは通信大学で教育学を学び保育士資格も取得した。今はフラワーデザインの仕事と並行しながら非常勤で働いている。「子どもができないなら、仕事にすればいい」と、チャレンジすることにしたのだ。

※2 眼球運動を利用することでPTSDのケアを行う心理療法

自身の回復について、エリさんは言う。

「周りの支えもあって、随分強くなったと思う。力を奪われてしまったと思っていたけれど、奪われたわけではなくて、自分にも力があることを思い出したり、信じられるようになったりして、私の場合は変わったと思う」

性被害はひどく軽視されることがある一方で、二度と立ち直れないような重たい被害だと決めつけられ、腫れ物やタブーのように扱われることもある。両極端だ。当事者のエリさんは、「回復にはたくさんの時間がかかる。でも癒やされる日は来る」の両方を伝えることが必要だと信じている。

「今も地獄からよく這い上がったなって自分を褒めて、褒めて。複雑だけど、そういう過程を社会はもう少し理解してほしい」

自分の力を信じている

以前、カウンセラーから「加害者のことをどう思うか」と聞かれたとき、「殺してやりたい」と答えたエリさん。もし日本に性犯罪の時効がなければ今から訴えたいとも思う。罪悪感のかけらもなかったあの加害者たちは、きっと親になっている。何を子どもに教えているのかと思うと悔しい。自分には子どもがいないことが悔しい。

昨年の刑法改正は一般的に「厳罰化」と言われるが、「集団強姦罪」は廃止になった(※3)。廃止の理由は罪を軽視したためではないが、それでも当事者のエリさんにとっては、集団強姦の被害者の気持ちが置き去りにされたような悔しさがある。

※3 強姦罪(現・強制性交等罪)の懲役の下限を3年から5年に引き上げることにより、集団強姦罪の量刑(懲役の下限4年)を超えたため。

一方で、最近受けた治療で同じことを聞かれたとき、自分では思ってもいなかった言葉が出た。


言葉にできないことを花で表現するのは、自分が満たされる体験だった(写真:高橋エリさん提供)

「彼らを子どもに戻して私が育て直したい」

それが本当に自分の本心なのか、半信半疑だとエリさんは言う。

「なんだかきれいごとに聞こえるし、犯罪者に許しを与えるみたいで許せないって思う人もいるだろうから、誰にでも話せることじゃない。私も半分は『本当にそんなこと考えてるの?』って思っています。でも、今自分が保育士の仕事をしていることとつながるから、納得できる部分もあるかな……」

花で表現する力、海外で働く力、40代からさらにチャレンジする力、回復の過程を言葉にする力。一つひとつ、丁寧に自分の力を探してきた。昔の自分のように居場所のない子どもに寄り添いたい気持ちもある。たとえ自分の子ではなくても、愛情を注ぐ力。きっとその力もあると信じている。