-なぜ今、思い出すのだろう?

若く、それゆえ傲慢だった同級生・相沢里奈の、目を声を、ぬくもりを。

これは、悪戯に交錯する二人の男女の人生を、リアルに描いた“男サイド”のストーリー。

商社マンらしくモテ男人生を送る一条廉は、27歳で3歳年上の美月と結婚。シンガポールで新婚生活をスタートさせる。

しかしその心には、特別な思いを抱く大学時代の同級生・里奈がいた。

腐れ縁のように少しずつ距離を縮めていくふたり。そんな中、大学サークルの集まりで再会した二人は密かに会場を抜け出し、ついに一線を超えてしまう。

禁断の恋に溺れる夫の不貞を確信した本妻・美月は、意外にも廉に別居を申し出る。その真意とは?




美月の思惑


-私、シンガポールには戻りません-

そう宣言した時の、廉の、あの表情。

まさか私から別居を言い渡されるなんて、思ってもみなかったのだろう。

私を裏切ったのは廉自身のはずなのに、「それは嫌だ」と顔中に書いてあった。…本当に、勝手な男。

けれどそう分かっていても、身勝手と優しさを操る男に惹かれるのが女の性というものだ。そしてそんな男だからこそ、廉は私を妻に選んだ。

我が家はシンガポールでもお手伝いは雇わず、家事の一切を私がやっている。

物価の高いシンガポールで上手に食材を探し、接待や外食の多い廉がホッとできるような和食を用意することも、家では意外に神経質な彼の好む日用品を欠かさず揃えておくのも、私だからできること。

廉が私を手放したくないのは、おそらくそういう現実的な理由だ。

しかし男女を永く結びつけるものは、純愛なんかじゃない。ましてや非日常の高揚に浮かれ不貞を重ねる、薄汚い欲情でもない。

結婚は現実で、生活なのだから。

だけど廉、心配しなくても大丈夫よ。

私は離婚なんてしない。

私が日本に残るのは、廉を苦しめたいわけでも責めたいわけでもない。

…ただ、“やるべきこと”が残っているだけだから。


美月がひとり日本に残った理由。“やるべきこと”とは、もちろん…


シンガポールに戻る廉を羽田で見送ったその夜、私は再び、延泊の手続きをしておいた渋谷のセルリアンへと戻った。

とにかく、一人になりたかった。

廉といても、何をしていても、ふとした瞬間にあのシーンが蘇る。

リッツのロビーを淫らに乱れた姿で走り抜けて行った、あの女の姿が。

そしてそのたびに気がおかしくなってしまうのではないかというほどの、怒りと憎悪が私の体を駆け巡るのだ。

悪いのはあの女、相沢里奈なのに。悪いことなど何一つしていない私が、どうしてこんな思いをさせられなければならないのか。

…ぜったい、許さない。

この焼き尽くされるような胸の痛みを、息もできないほどの苦しみを、あの女にも味わってもらわなければ気が済まない。

そして、もう二度と廉に近づかないと約束させる。絶対に。

ホテルの部屋で一人きり。私は憑き物を落とすように大きな息を吐くと、照明を落としたまま煌めく夜景の前に立った。

そしてスマホを取り出すと、“ある番号”を呼び出す。…相沢里奈の、自宅だ。

…この番号をどうやって入手したのか?

それは、秘密。誰にも言わないと約束したから。だけど…“彼女”は拍子抜けするほどあっさりと、私に情報を漏らしてくれた。

聞けば相沢里奈は、学生時代からサークル仲間に疎まれていたというではないか。

可哀想だが、まあ自業自得だろう。

女という生き物は本能的に、複数の男に色目を使ったり、夫がいながら他の男と寝るような、だらしない女が大嫌いなのだから。


廉:そして誰もいなくなった


結局、僕はひとりでシンガポールに戻った。

誰も待っていない真っ暗な部屋は、自分の家だというのにまるで見知らぬ場所のように感じられる。

美月とは結婚前からほぼ同棲状態だったし、彼女はいつだって家を整え食事を用意して僕を待っていてくれたから、思えばこんな風にひとりになるのは随分と久しぶりで落ち着かない。

…そばにいるときは、特に最近は、彼女の探るような視線を鬱陶しく思っていた。

シャワーを出しっぱなしにしてまでこっそり僕の様子を見に来た時などは、背筋がすっと寒くなったほどだ。

けれどこうして突然突き放されると思いのほか孤独が染みるもので、僕はそんな自分を自分で嘲笑った。そもそもすべて、自分のせいだというのに。

-理由なら、自分が一番知っているでしょう?-

…あの美月の言葉はどういう意味だろう。彼女は一体、何を、どこまで知っているのか。

里奈との関係を疑っていることは間違いない。が、しかし確信はないはずだ。

実際、美月は「実家に帰る」と言っただけで他には何も語らず、声を荒げることもなければ僕を責めることもしなかった。

大丈夫。美月が知る由はないのだから。前の日に、僕と里奈がリッツの部屋で何をしていたかまでは…。

-里奈。

その名を思い出した途端、僕の頭の中は里奈のことでいっぱいになっていく。

ふと気を許すと、里奈の滑らかな肌ざわりや艶っぽい吐息が未だ鮮明に思い出され、まるで青春時代の恋のように切ない思いが込み上げてくるのだった。

里奈とはあの夜から、一切の連絡を取っていない。

夫の元へと戻った彼女は、今頃何食わぬ顔で夫婦生活を続けているのだろうか。夫とともに食事をし、同じベッドで寝ているのだろうか。

考えたって仕方がないのに、そんな想像を繰り返しては自分で自分の首を絞めてしまう。

焦りとも苛立ちともつかぬ感情に耐えきれなくなった僕は、やりきれなさを纏ったままソファに倒れ込み、そして静寂に自分のため息が響くのを聞いてあることを痛感した。

これまで僕が里奈への溢れる感情をどうにかコントロールできていたのは、他でもない美月の存在があったからなのだと。

そして、こんな風にたった一人で人妻を想うとき、そこにあるのはただ痛みだけなのだということを。

そうしてバランスを失った僕は、自分でも呆れてしまうほど無謀な行動に出てしまうのだった。


美月不在の中、里奈への想いと戦う廉。そこに里奈から、突然の連絡が…


再び、東京にて


「里奈と別れるくらいなら、離婚したっていい」

初めて肌を重ねた夜と同じ渋谷のセルリアンで、僕は強引に押し倒した里奈の腕を掴みながら、気がつけばそんなセリフを吐いていた。




-ほとぼりが冷めたら、私から連絡する。-

そう言っていた里奈からようやく着信があったのは、リッツでの逢瀬から一月以上が経ったあとだった。

しかし久しぶりに聞くことができた里奈の声は明らかに他人行儀で、突き放すような冷たい響きに、僕はすぐに嫌な予感がした。

「里奈。よかった、連絡くれて。ずっと心配してたんだよ。また近く東京出張入れられそうだからさ、都合が合えば…」

「もう終わりにしたいの」

彼女との甘い時間を取り戻すような思いで言葉を繋いだ僕を遮って、里奈はそう言ったのだ。

「もう会わないほうがいい。それが、お互いのためよ」

そう繰り返す里奈は僕が何を言っても、聞く耳を持とうとさえしない。

「とりあえず、会って話そう。こんな電話で終わりにするなんて、俺にはできない」

里奈と会えなくなるなんて考えられなかった。とにかくもう一度、里奈に会いたい。

いてもたってもいられなくなった僕はその週末、半ば無理矢理の弾丸スケジュールで東京に戻ったのだ。

「里奈と離れるなんて、俺は絶対に嫌だ」

力を込めて腕を掴んだまま、なおも繰り返した僕に、里奈は驚いたように目を見開く。

僕は、本気だった。

10年以上もすれ違い続けた里奈と、ようやく心も身体も一つになることができたのだ。

彼女ともう会えなくなるなんて、二度と触れられなくなるなんて耐えられない。

里奈を失うくらいなら全てを捨ててもいいと、心から思ったのだ。今、この瞬間は。

けれども里奈は、そんな僕の目をまっすぐに数秒見つめ、そして今にも泣き出しそうに唇を歪ませた。

「…できもしないこと、軽々しく言わないで」

そして僕は、その言葉に否定も反論もできなかった。

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廉の言葉に心揺れる里奈。果たして、この禁断の恋の結末は...?