山尾志桜里

写真拡大

 先日、私は山尾志桜里に偶然にも邂逅した。のっけから私への敵愾心を鮮明にするどころか、初見から激しく罵倒された。「だから、読んでもいねぇのに批判すんな、つーの! あ?」(ママ)「私の国会答弁全部観た? 観た? 観てねーのに批判すんじゃねーよ!」(ママ)。ぷん、とワインの匂いがした。酔っているのだろう。周囲の空気が凍り付き、皆がドン引きするほどの怒声であった。

 山尾が執拗に私を面罵した理由は、私が先般刊行させて頂いた『女政治家の通信簿』(小学館)において展開した山尾評が、ネット上(NEWSポストセブン)で一部転載された以下のものを同人が読んだからだと思われる。

“山尾志桜里が何を主張しており、またどういった政治的世界観を有しているのか、いくら山尾の言動を追っても、私にはよく分からない”

 この部分のみを標的にして、ほろ酔いの山尾は激しく私にかみついてきた。「政策広報を読んでもいねえのに、批判してんじゃねー、ってんだよ! あ?」(ママ)。仮にも公禄を食んでいる国会議員が、紙上で文筆家から批判的に論評されたからといって、この品性下劣で知性のかけらも無い物言いは、はっきり言って異常の領域である。

山尾志桜里

 一方的に怒鳴られたので私には自衛権がある。よって自存自衛のための最低限度の口撃は許されるはずだ。しかし私はその場で「貴様あ! 公僕の分際でその言葉遣いは何だ! 国会中継でもそのまんまの口調でやってみろ!」と言い返しても良かったが一切黙っていた。こんなメチャクチャな国会議員に出会ったのは初めてで、衝撃と幻滅と失望が怒りよりも先に諦観として私を沈黙せしめたからである。そしてそのとき黙っていた代わりに、物書きとしてここに洗いざらい事実を暴露してやろう。

 苟も主権者・国民の代表である国会議員が、ひとたび少しアルコールが入れば「敵」と認定した人間に対してはこのように徹頭徹尾、周囲の空気も考えず一方的に、その辺のチンピラのように怒鳴り散らし喰ってかかる。こんな異常な人物こそ山尾志桜里であるということを。

 本当にこの人はその昔検事だったのだろうか。茨城県南部のヤンキーでも、今日日、初対面の人間にこんな絡み方はしない。赤旗だって「ですます調」で丁寧に有権者に語りかけている。この時点で山尾に代議士である資格は無い。即刻下野して言葉の使い方、対人コミュニケーションの何たるかをいちからやり直すべきである。あと酒の飲み方を考え直したらいかがか。

 古谷が作話している、という抗弁は一切通用しない。なぜなら山尾のこの一件は、多くの著名人やジャーナリストの眼前で行なわれたもので、その場にいた者は皆苦笑しながらこの様相の一部始終を目撃していたからだ。誇張でも嘘でも無い。山尾、貴女の醜態の証言者は幾らでもいるぞ。2・26事件鎮圧風に申し上げれば「今カラデモ遅クナイカラ己ノ非礼ト非常識ヲ恥ジヨ」、である。

開陳するだけの「セカイ」がない

 私のポリシーとして、選挙時に出した政策広報を読まなければその政治家を批判してはいけない、という作法は存在しない。なぜなら選挙公報には右から左まで、揃いも揃って綺麗事のみが羅列されているだけで、なんら資料的価値は存在していないと私は確信しているからだ。

 1942年の翼賛選挙における選挙公報が、当時翼賛会が推薦して当選した帝国議会議員の善し悪しを測る物差しになるだろうか? 美辞麗句しか書いていないから読んでも読まなくとも同じである。当然答えはNOだ。選挙ポスターや広報で資料として活用できうるのは、先日逝去した又吉イエスくらいなものである。毎回「○○は地獄の業火で焼かれるべきだ」の○○が入れ替わるので面白い。無論、「国会答弁を全部観る」ことなど物理的に不可能なので、論外である。当選または落選した際の地域別得票数の方がよほど客観的筋として政治家を評価しやすい指標だ。

 私が政治家への評価として最重要視するのはその人による、政治に関する単著である。実際に政治家は多忙であり、または文章力がない場合もあるので口述筆記やゴーストライターに頼ることもあるが、ともあれ政治家の名前が冠された単著は、私が政治家を評価する上で第一級の資料であり、後世の歴史家もこれを基準とすることには、かのE・H・カー先生も同意して下さるるに違いない。

 直近では安倍晋三、石破茂、野田聖子から始まり、小泉純一郎、田中角栄、小沢一郎、石原慎太郎、猪瀬直樹、田中康夫、土井たか子、辻元清美、翁長雄志、大田昌秀etc.……全部堂々たる単著がある。

 先日オウム死刑囚13人に対する極刑を執行した上川陽子法務大臣も単著がある。出版の経緯はどうであれ、単著にはその政治家の世界観が滲み出る。いや印刷に至るまでどのような整形を経たとしても、畢竟(ひっきょう)滲み出てしまうものなのである。

 だから私は単著がある政治家はそれだけで評価の羅針盤が得られるから高い評価である。しかし単著が無い政治家は自身の世界観を開陳するだけの「セカイ」を有していないか、同時に「文章の力」というのを軽視していると判断せざるを得ないのでまずマイナス評価としている。

 よって連続7回も当選しているのに一冊も単著を有しない小渕優子への評価が「低」になるのは当然至極である。これは私が、憚りながら文筆家としてこれまで20冊以上の単著を世に出させて頂いた経験と蓄積から、そう判決しているのである。山尾にはそれが一切無い。

 しかし流石の山尾もこの状況を恥じたのか、2018年8月に筑摩書房から『立憲的改憲』という本を出した。ほう。遂に山尾が単著を出したのかと思ったが違った。

 内容は中島岳志氏、井上達夫氏ら7人との対談本である。単著10万文字を書き下ろすだけの文筆体力が無いのか。はたまた山尾の文章力の無さを忖度した出版社の優しさなのか。この対談本だけでは政治家・山尾を評するのに足りないが、ひとまず山尾自身の手で書いた物と思われる序文を点検する。

「私の専門的知見の不十分さや、検討の未熟さも、全部浮き彫りにする覚悟と引き換えに、『立憲的改憲』の質が高まるなら本望だ」(P.4)と来て、「あらゆる議論を排除せず、しかしいかなる議論をも盲信せず、他者の視座から見える風景に敬意を払い……」(同)。この「他者の視座から見える風景に敬意を払い」という、この対談本における僅かの山尾の地の文章が、如何に嘘にまみれた虚文であるのかは、これまでの本稿で察しが付くであろう。

 そして同書冒頭よりP.31(及びP.371-381)まで山尾の手による一応の「立憲的改憲とは」という小論が続くのであるが、立憲的改憲が単なる「改憲」とどのように違うのか、いくら山尾の筆を追っても、私にはよく分からなかった。単に反自民、反安倍のポジションからの憲法第9条改憲論であって、ここに新しい修辞――つまり「立憲的」を付けているに過ぎず、単に「改憲」と言ってしまえば支持母体から警戒されるからわざわざ「立憲的」と付けている、と解釈せざるを得ない。兎に角文章が足らないから、山荘にでも籠もって2カ月缶詰になって10万文字書いてご覧なさい。

 山尾は同書終わりで「本書は、無私の立場で惜しみない助力をくれる『政治家ではない』人々に支えられて完成しました」(P.381)と謝意で結んでいる。ならばどうか「無私の立場で惜しみない助力を・く・れ・な・い『政治家ではない』人々」にも暴言を吐かないで、民主日本の精神に則って誠実に議論して頂きたい。

 たとえ飲酒時であっても、愛知選挙区834票の僅差で当選したという奇蹟を自身のみの力による戦果であると傲岸不遜にとらえず、その民主的議論、民主的対話の精神を忘却しないで欲しい。軽い飲酒時にこそ、人の本性はむき出しになるという。前後不覚でも歩行困難でもなく、少し上機嫌のほろ酔い加減でなされたこの罵詈雑言こそが山尾の人間としての本性だとすれば、まこと罪深い。貴殿に票を投じた選挙民は泣くぞ。次の解散時に、山尾が代議士の資格を有しているか否かは相当程度怪しいと判決する。――実るほど頭を垂れる稲穂かな(詠み人知らず)

古谷経衡(ふるや・つねひら)
文筆家。1982年札幌市生まれ。立命館大学文学部史学科(日本史)卒業。ネット保守、若者論などを中心に言論活動を展開する。著書に『日本を蝕む「極論」の正体』『女政治家の通信簿』など。

「新潮45」2018年10月号 掲載