8月4日に本屋B&B(東京・下北沢)で行われた対談イベントの様子。壇上は星野博美氏(左)と山川徹氏。

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日本人の誰もが飲んだことのあるカルピス。特にバブル世代は、幼少期に『ムーミン』『ハイジ』『フランダースの犬』といったアニメを「カルピス名作劇場」で見ており、ブランドが浸透している。自らを「カルピス世代」と称す作家・星野博美氏とカルピス社創業者・三島海雲の評伝を書いた山川徹氏。2人の濃厚な「カルピス談義」をお届けしよう――。

※本稿は、8月4日に本屋B&B(東京・下北沢)で行われた対談イベントの内容を再構成したものです。

カルピスはモンゴルの乳製品をヒントに作られた

【山川】カルピスは日本人の99.7%が飲んだという調査もあり、国民飲料とも呼ばれたぐらい日本人になじみが深いですけど、星野さんの作品にもカルピスが出てきて、驚きました。

【星野】え、ホントですか? どの本に書いていましたっけ?

【山川】『コンニャク屋漂流記』(文藝春秋)です。「コンニャク屋」と呼ばれる漁師の一族だった星野さんご自身のルーツをたどる旅のあとがきで、3.11で被災した親戚のお姉さんたちとの思い出を次のように書いていました。

〈黒光りしたアパートの階段。廊下の隅にもうけられた共同炊事場。お姉さんがいつも出してくれるカルピス。年の離れたお姉さんが2人できたみたいで、嬉しくてたまらなかったのだ〉
星野博美『コンニャク屋漂流記』(文藝春秋)

【星野】ホントだ! 忘れていたので、びっくりしました。多分、幼少期を象徴する記憶の一つがカルピスだったのでしょう。私、子どものころからカルピスが本当に大好きだったんですよね。そんな私のカルピス愛を刺激したのが、今回山川さんがお書きになった『カルピスをつくった男 三島海雲』(小学館)です。カルピスが、モンゴルの乳製品をヒントに作られた。しかも根底にあったのが、仏教的な思想。関心があるものがてんこ盛りでした。

【山川】ありがとうございます。おっしゃるようにカルピスは、仏教を抜きには生まれなかったかもしれない。カルピスを開発する三島海雲は、1878年に大阪の浄土真宗寺院の長男として生まれました。その後、エリート僧侶を養成する学校で学び、大陸進出を積極的に推し進めていた教団のネットワークで日本語教師として中国にわたります。そして雑貨商に転身して、やがて旧日本陸軍の依頼でモンゴル高原に軍馬を探しに行ったり、モンゴルの王族に頼まれて武器の売買を手がけたりするようになる。

【星野】そこでカルピスのルーツとなる乳製品と出会うわけですね。

■三島は「大陸進出」の体験をポジティブに変換した

【山川】そうです。ぼくはこのエピソードを調べながら、星野さんの『みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記』(文藝春秋)を思い出しました。この本で、16世紀に布教のために日本にわたってきたポルトガルの宣教師たちが登場しますよね。若い彼らは純粋な冒険心や好奇心に従って、長い旅をした。三島もそうだったのではないかという気がしたんです。

【星野】なるほど、そこはシンクロしますね。キリスト教の布教が、南蛮国家のアジア進出に利用されたと指摘する研究者はたくさんいます。確かにそれは否定できない。でもその視点だけでは見落としてしまう部分がたくさんある。私は、世界を冒険したいと思った若い宣教師ひとりひとりが何を見て、どんな体験をしたか、そして異国で出会った人や文化にどんな影響を受けたのか、個々の体験を知りたかったんです。

【山川】三島の場合は、旅のなかでモンゴル遊牧民たちと親しくなり、遊牧文化を知った。その個人的な体験をカルピス開発の原動力にしたわけです。

【星野】16世紀の宣教師と同じ息吹を感じますね。山川さんの本を読むと三島さんが行った旅や商売も日露戦争や日本の大陸進出と無関係ではなかったとよく分かる。決して美しい歴史の話だけではない。でも三島さんはその体験をポジティブに変換した希有な人だったんではないかと感じました。

【山川】三島はモンゴルについてふるさとについて語るように話したと言います。またモンゴルはカルピスの母とも語っている。ぼくも中国の内モンゴル自治区に三島の足跡を追うなかで、乳製品とモンゴル遊牧民のつながりの深さを実感しました。星野さんはモンゴルに行った経験はありますか?

カルピスの素は馬乳酒ではなく牛乳だった

【星野】一昨年、三島が旅した内モンゴル自治区の北にあるモンゴル国に行きました。めちゃくちゃよかったです。馬が大好きなので。

【山川】乳製品はどうでした?

【星野】私が飲んだのは馬乳酒ですね。ウォッカ入りのカルピスウォーターって感じで、感動しました。

【山川】確かに飲みやすいからぐいぐい飲んで大変なことになる(苦笑)。

【星野】実は、この本を読むまで、カルピスの素は馬乳酒なんじゃないかと思っていました。でもカルピスは牛の乳なので、馬乳酒とは違う。

【山川】そう。カルピスの原料は牛乳です。三島が最初に食べたと思われる乳製品が、牛乳を発酵させて作ったジョーヒ。モンゴル国ではズーヒーとも呼ぶらしいです。

【星野】それは、残念ながら食べていませんね。食べたかった!

【山川】作り方はとてもシンプルで、モンゴル遊牧民のゲル(中国ではパオ)に置かれた瓶に牛乳を入れておくんです。すると2、3日後には表面に膜が張る。これをすくい取って食べる。無味無臭の生クリームみたいですが、砂糖と煎った粟を混ぜて食べるととてもうまい。

【星野】三島さんが「これは王者の食べ物だ。これさえ食べていれば、病にもならない、年もとらない。不老不死の妙薬に遭遇した気がする」と言っていますよね。それがとてもいい話だなと思って。私自身、乳製品が大好きなので、そう言った気持ちがよくわかる。

■草原で動物とともに生きるというモンゴルへの幻想

【山川】子どもの頃から病弱だった三島は元の時代にユーラシア大陸を征服したモンゴル人の健康と力強さに憧れていたようなんです。だからみんなが軍馬や羊毛を求めてモンゴルに行くなか、三島は乳製品に着目した。

【星野】モンゴルにわたったたくさんの日本人のなかで、乳製品に感銘を受けたのは三島さんだけだったのかもしれませんね。それに短絡的な金儲けではなく、国民の健康という長い目で見た利益を求めた。そこが、面白いと感じました。

【山川】乳製品を食べて体調が快復した三島は世話になったモンゴル遊牧民に乳製品の作り方を教わります。調べていくと、彼が遊牧民にとても歓待されて、愛されたのが分かる。

【星野】遊牧民は家畜を連れて移動するでしょう。だから自分たちも客になり、自分たちのもとに客もくる。だから客人を迎え入れるホスピタリティが自然に備わっているのではないでしょうか。私もモンゴルでそう思いました。

【山川】いま内モンゴルでは中国政府の政策によって、かつて自由だった移動が制限されています。さかのぼれば、三島の時代には漢民族の定住化が徐々にはじまっていた。定住化が進むと家畜が同じ草原の草ばかり食べるから草原が荒れ果てて、砂漠化が進んでしまう。これも詳しく書きましたが、モンゴル人研究者が、三島が旅した100年前の草原に憧れると話していたのが印象的でした。

【星野】失われたモンゴルということですね。私が行った草原でも怪しげなレアアースの開発が進んでいました。草原が掘り起こされると遊牧民は追い出されてしまう。あとは急激に増えたお金持ちが草原でパーティーを開いていた。モンゴルっていいなと思った反面、ものすごい勢いで変化が起きているとも感じました。

【山川】でも日本人はいまだにモンゴルといえば、草原で動物とともにおおらかに生きる人々というイメージが根付いている。

【星野】モンゴルに対する幻想ですよね。

■東京オリンピック前後に産まれた「カルピス世代」

【山川】遊牧の生活は変わりつつあるなか、ぼくは三島が旅した当時と同じ製法の乳製品を食べることができた。本当に運がよかった。

【星野】実は、この本を読んで、あっと気づいたことがあるんです。私は、「カルピス世代」だったんだな、と。

【山川】なんですか、そのカルピス世代って!?

【星野】昭和36年〜昭和42年に生まれた世代です。東京オリンピック(1964年)前後に産まれた人たちで、バブル世代にも重なります。

【山川】星野さんの世代ということですか。

【星野】そうです。私の幼少期、つまり大阪万博(1970年)の頃ですが、カルピス、ヤクルト、森永のマミー、明治のパイゲンCという乳酸菌飲料があり、壮絶な戦いが繰り広げられていました。カルピスの発売は1919年ですよね。それ以降を調べてみると、ヤクルトのシロタ菌が発見されたのは1930年で、ヤクルトレディが63年に活動をはじめます。そして森永マミーが1965年に、さらには明治パイゲンCが1967年に発売を開始します。熾烈な「乳酸菌戦争」が勃発しました。

【山川】その戦争は見落としていました(笑)。どんな戦いだったのでしょう。

■熾烈な「乳酸菌戦争」の主戦場は銭湯だった

【星野】主戦場は銭湯。お風呂から上がった子どもたちは、森永マミーや明治のパイゲンC、あるいはフルーツ牛乳を飲むのを楽しみにしていました。400年前の宣教師たちが、キリスト教の布教のためにはまずは子どもを取り込むことを重視したように、各種飲料メーカーも子どもを取り込もうとしたのでしょう。ちょうど東京オリンピックが開催されて、国民の健康、体力増進が図られた。飲料メーカーが乳酸菌飲料のシェアを競っていたんです。

【山川】東京オリンピックのとき、86歳の三島は、まだ社長で「全世界の人にカルピスを知ってほしい」「カルピスは身体にいいのだからたくさんの人に飲んでほしい」と全選手村に無料で配りました。三島の命で、オリンピックの担当になったカルピス社のOBも、いまは80歳を過ぎています。三島は彼らに「白のカルピスは、黒のコカコーラに勝つんだ」と語っていたそうです。

【星野】すでに発売から50年の歴史を持つカルピスは、その乳酸菌戦争に巻き込まれず、大船に乗ってオリンピックで海外に向けて宣伝していたわけですね。

【山川】子どもに向けた宣伝と言えば、カルピス社がスポンサーとなった「カルピス名作劇場」の公開もこのころ。1969年からですね。

【星野】『ムーミン』『ハイジ』『フランダースの犬』『母をたずねて三千里』『あらいぐまラスカル』という良質なアニメを世に送り出したわけでしょう。宮崎駿をはじめ、のちに日本を代表することになるトップクリエイターが子どもに向けに良質なアニメを、と集結した。私たちはカルピスを飲みながら「カルピス名作劇場」を見ていたわけです。だからもう、「カルピス世代」としか言いようがない。

【山川】ぼくはすべて再放送で見た世代です。なんだか遅れて生まれてきて悔しい気もしてきました(苦笑)。

■『火垂るの墓』で母親が「カルピスも冷えてるよ」と呼びかける

【星野】カルピス世代の思い出で言えば、昔カルピスの瓶はシワシワッとした包装紙に包まれていたんです。あの質感はいまでも指先に残っています。

【山川】実は、今回の本の表紙はカルピスの包装紙を模した紙を使っているんですよ。

【星野】そうだったんですね。問題はその紙。うちはカルピスを冷蔵庫に入れず、棚に置いていました。朝起きると包装紙にプチプチと小さな穴が開いている。夜、その包装紙に染みたカルピスの原液をゴキブリがなめにきていたんです。「許せん、私の大事なカルピスを!」って怒っていた記憶があります。いつも飲もうとすると親に「それじゃ濃い」とか言われて自由に飲めない。カルピスの濃度は親によって管理されていたんです。それをゴキブリがなめているわけですからね。そりゃ、怒りますよ。

【山川】ぼくが子どものころにカルピスが特別な飲み物じゃなくなっていたせいか、そこまでカルピスに対してアツい思いはなかったですね。小学5年生のときに母と観に行った『火垂るの墓』です。回想シーンで、元気だったお母さんが砂浜で遊ぶ兄妹に「カルピスも冷えてるよ」と呼びかける。あれを見て、戦争中もカルピスがあって、自分と同世代の少年も飲んでいたんだな、と思った。それはカルピスのルーツを追う大きな動機となりましたが、星野さんのような直接的な記憶じゃない。

【星野】カルピスが好きな私を見かねた母親が「そんなにカルピスが飲みたいのか」と手作りカルピスを作ってくれました。すでに貧しい時代ではなかったですが、まだ母親たちは子どもに商品を買え与えることを好まず、自分たちでなんでも作るという風潮が残っていたんです。

■「マイカルピス」を作るのがブームになっていた

【山川】お母様はカルピスをどうやって作ったんですか?

【星野】まず薬局で乳酸菌を手に入れてくる。次に大きな鍋で牛乳をゆっくりとかき混ぜながら煮る。その後に乳酸菌を入れるんですが、このタイミングがポイントで、牛乳を煮立ててしまうと分離してしまう。それを瓶に入れ替えて飲んでいました。いわば、マイカルピスです。

【山川】マイカルピスの味はどうでしたか?

【星野】めちゃくちゃ濃厚でおいしかったです。あの味はオリジナル以上ですよ。母は私の同級生のお母さんに聞いたと話していました。想像すると、当時、カルピスを飲みたいという子どもが大勢いて、それぞれの家庭で、マイカルピスを作るのがブームになっていたんじゃないかと思います。マイカルピスは、濃い目にしても親は何も言わないから心おきなく飲めた。カルピス飲み放題で幸せでした(笑)。

【山川】マイカルピスではないですけど、市販のカルピス(原液)も好みで濃さを変えられるのがいいですよね。内モンゴルで三島の面倒を見たモンゴル貴族の末裔を捜し当てたんです。彼に濃い目のカルピスを作った。でも遊牧民は水で割ったカルピスは物足りないらしく、原液を口に含んで「いい酸味だ」と話していました。

【星野】その味に私たちの世代は脳の中枢を支配されている気がするんです。

【山川】支配されてしまいましたか(苦笑)。

【星野】ふだんはみんな普通に暮らしているけど「カルピス」と聞いたら飲まずにはいられなくなる。カルピスに覚醒せよ、と。

【山川】星野さんがそんなにもカルピスを愛しているとは思いませんでした。

【星野】私も山川さんの本を読むまで自分がこんなにカルピスが好きだとは思いませんでした(笑)。びっくりです。

【山川】それは本当によかったです。発売から100年もたったのにこんなにもカルピスを愛している人がいる。三島もきっと喜んでいるでしょうね。

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山川 徹(やまかわ・とおる)
ノンフィクションライター
1977年、山形県生まれ。東北学院大学法学部法律学科卒業後、國學院大学二部文学部史学科に編入。大学在学中からフリーライターとして活動。著書に、『捕るか護るか? クジラの問題』(技術評論社)、『東北魂 ぼくの震災救援取材日記』(東海教育研究所)、『それでも彼女は生きていく3・11をきっかけにAV女優となった7人の女の子』(双葉社)など。Twitter:@toru52521
星野博美(ほしの・ひろみ)
ノンフィクション作家
1966年、東京生まれ。著書に『謝々! チャイニーズ』『転がる香港に苔は生えない』(大宅壮一ノンフィクション賞)、『のりたまと煙突』(以上、文春文庫)、『迷子の自由』(朝日新聞出版)、『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『コンニャク屋漂流記』(文春文庫。読売文学賞、いける本大賞)、『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『みんな彗星を見ていた──私的キリシタン探訪記』(文藝春秋)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)ほか。Twitter:@h2ropon

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(ノンフィクションライター 山川 徹、ノンフィクション作家 星野 博美 撮影=山川徹)