航空自衛隊に2018年8月、初の女性戦闘機パイロットが誕生しました。世界的には100年以上前からいたという女性戦闘機パイロットですが、一時期姿を消していました。その歴史的な流れを解説します。

空自初、女性の「イーグルドライバー」

 2018年8月24日(金)、航空自衛隊に初の女性戦闘機パイロットが誕生しました。


空自初の女性戦闘機パイロット、松島美沙2等空尉(画像:航空自衛隊)。

 初の女性戦闘機パイロットとなった松島美沙2等空尉は防衛大学校を2014年に卒業後、航空自衛隊に入隊。2015年に戦闘機パイロットを養成する戦闘機操縦課程に進み、2018年8月に同課程を修了。今後は宮崎県の新田原基地に所在する第5航空団で実任務に必要な訓練を受けた後、F-15戦闘機のパイロットとして緊急発進(スクランブル)などの実任務に就きます。

 自衛隊は1993(平成5)年に、航空機パイロットを含むほぼすべての職域を女性自衛官に開放し、航空自衛隊も1995(平成5)年から女性パイロットの養成を開始。現在ではC-130H輸送機、C-1輸送機の機長や操縦教官を務める女性パイロットも誕生しています。

 ただ、航空自衛隊は戦闘機と偵察機のパイロット職に関しては、母性保護や男女間のプライバシー保護といった観点から、女性自衛官の配置を制限していました。しかし1999(平成11)年に男女平等を推進する男女共同参画基本法が施行されたことや、少子高齢化時代を迎えるにあたっての人材確保といった観点から、防衛省・自衛隊は女性自衛官のさらなる活用に舵を切り、防衛省は2006(平成12)年に、「防衛庁(当時)における男女共同参画に係る基本計画」を策定。その一環として女性自衛官の配置制限の見直しをおこない、2015年11月13日に、戦闘機と偵察機への女性自衛官の配置制限を解除しました。

 今回航空自衛隊初の女性戦闘機パイロットとなった松島2等空尉は、小学生の時に映画『トップガン』を観て以来、戦闘機パイロットに憧れていたと報じられています。松島2等空尉は2014年に防衛大学校を卒業し、航空自衛隊に任官していますが、この時点では戦闘機パイロットの女性の配置制限が解除されていなかったため、輸送機操縦課程に進むことを決めました。その後、2015年の配置制限解除を受け戦闘機操縦課程を志願して、2016(平成28)年から訓練を開始。先ごろ訓練を終了して、航空自衛隊初の女性戦闘機パイロットに任命されたというわけです。

第二次世界大戦期にはエースも

 日本では松島2等空尉が初となった女性戦闘機パイロットですが、海外では100年以上前から存在していました。一般的には1912(大正元)年に現在のトルコの前身であるオスマン帝国と、ギリシャ、ブルガリア、セルビア、モンテネグロが結成したバルカン同盟が戦った「第一次バルカン戦争」で、航空機(機種不明)からオスマン帝国の領土に宣伝ビラを撒布した、ブルガリア空軍のレイナ・カサボバが世界初の女性戦闘機パイロットと見なされていますが、1912年の時点では戦闘機という概念が存在していなかったことから、1936年にトルコ空軍で戦闘機パイロットとなった、サビハ・ギョクチェンを世界初の女性戦闘機パイロットとする意見もあります。


リディア・リトヴァク上級中尉。独ソ戦などで、ソ連空軍の戦闘機パイロットとして活躍した。

 第二次世界大戦ではアメリカとイギリスで、製造された工場から基地までの空輸や、戦闘機の空対空戦闘訓練の標的の曳航、男性パイロットの訓練をおこなう女性パイロットの部隊が編成されています。アメリカとイギリスでは、女性戦闘機パイロットの役割は後方支援に限定されていましたが、ドイツとの戦いで男性パイロットが消耗したソ連空軍では、女性パイロットだけの戦闘機や爆撃機の飛行隊が編成され、リディア・リトヴァク上級中尉は単独で11機、味方の戦闘機との共同で3機、エカテリーナ・ブダノワ上級中尉は単独で5機、味方の戦闘機との共同で6機のドイツ軍機をそれぞれ撃墜し、5機以上の敵機を撃墜したパイロットに与えられる「エース」の称号を得ています。

 ただ、こうした目覚しい活躍の一方で犠牲も多く、リトヴァク、ブダノワの両上級中尉は第二次世界大戦中に戦死を遂げ、後方支援部隊であったアメリカ空軍(当時は陸軍航空隊)の女性航空部隊「WASP」の隊員も、事故で38人が殉職しています。

 なお日本でも1934(昭和9)年に女性パイロットとして初の海外への飛行を成し遂げ、その年度の最も優れたパイロットに贈られる「ハーモン・トロフィー」を受賞した西崎(旧姓松本)キクが、日本陸軍に志願していますが、日本陸軍は志願を受け入れず、戦前の日本では女性の軍用機パイロットは誕生することなく終わっています。

時代はジェット戦闘機へ、そのとき女性戦闘機パイロットは…?

 第二次世界大戦の終結にともない、各国は空軍の規模を縮小。また時を同じくして訪れた戦闘機のジェット化により、一般的に筋肉が男性に比べて少ない女性では、レシプロ戦闘機に比べて加速時や旋回時に大きな負荷がかかるジェット戦闘機の操縦に適していないと見なされたことなどから、女性戦闘機パイロットは、世界中からしばらく姿を消します。

 1960年代後半にアメリカをはじめとする先進諸国では、性別による役割分担に反対する「ウーマン・リブ」運動が起こり、1979(昭和54)年には国連総会で女子差別撤廃条約が採択されるなど、男女同権の流れが加速するにつれて、アメリカやヨーロッパの軍隊では、女性の職種制限が見直されるようになりました。


F-15E戦闘機のコクピットに座るアメリカ空軍初の女性戦闘機パイロット、ジーニー・レビット。2018年8月現在もアメリカ空軍で准将として勤務する(画像:アメリカ空軍)。

 この頃までには前に述べた、ジェット戦闘機の負荷に女性の肉体が耐えられないという見方に科学的根拠が無く、逆に男性よりも負荷に強いという研究も発表されたこともあって、先進諸国は1980年代中ごろから女性戦闘機パイロットの養成を開始。1989(平成元)年にカナダ空軍でディー・ブラッスール少佐(退役時)がF/A-18戦闘機のパイロットに任命されたのを皮切りに、1990年代の終わりまでにノルウェー、オランダ、アメリカなどの先進諸国で、続々と女性戦闘機パイロットが誕生しました。

 実は先進諸国よりも早く、ソマリア空軍で1976(昭和51)年、アルジェリア空軍で1982(昭和57)年に、女性の戦闘機パイロットが誕生していますが、これは両国が西側先進諸国よりも女性の社会進出を積極的に進めていた社会主義国家であったためだと考えられます。

21世紀、いまだ偏見はなくならず

 21世紀に入ると女性戦闘機パイロットを採用する空軍の数はさらに増え、UAE(アラブ首長国連邦)空軍のマリアム・アル・マンスーリ少佐のように、2014年のISIL(イスラム国)への攻撃作戦で中隊指揮官を務めた女性戦闘機パイロットや、残念ながら2016年11月の事故で亡くなられてしまいましたが、中国空軍のアクロバットチーム「八一飛行表演隊」のメンバーに抜擢された、余旭上尉(他国では大尉に相当)のような、卓抜した操縦技術を持つ女性戦闘機パイロットも現れています。


アメリカ空軍で最初のF-35Aパイロットとなったクリスティーン・マウ中佐(画像:アメリカ空軍)。

 ただ、長年男性の仕事と見なされてきた戦闘機パイロットに女性が進出したことに対する偏見や誤解はいまだに根強く、2014年にはアメリカのテレビ局が前に述べたマンスーリ少佐を揶揄する発言をおこなって社会問題となったほか、日本国内でもネット上には結婚退職した自衛隊の女性パイロットの例を挙げて疑問視する意見が見受けられます。

 おそらく松島2等空尉も、こうした誤解や偏見とは無縁ではないと筆者(竹内 修:軍事ジャーナリスト)は思いますが、松島2等空尉に続くべく訓練を受けている女性戦闘機パイロット訓練生や、これから戦闘機パイロットを志す女性のためにも、誤解や偏見に打ち勝って欲しいと思いますし、そのためにはわれわれ国民も女性だからという理由ではなく、ひとりの戦闘機パイロット、ひとりの自衛官として見守り、応援していくべきだとも思います(文中敬称略)。