ゲーム機器メーカーの京都本社に勤める一ツ橋紀夫(ひとつばし・のりお)は正真正銘の庶民。

“普通”で平凡な日々を送る紀夫が出会った美女・萬田樹里(まんだ・じゅり)は、なんと全国に名を轟かせる老舗和菓子屋のひとり娘。

そして次第に距離を縮めていくふたりを悲劇が襲う。密かに出かけた一泊旅だが、樹里の許嫁・貴志にすべてを知られてしまっていたのだ。

貴志は紀夫の家にやってきて「手切れ金500万で樹里と別れてほしい」と迫る。

一旦は身を引く紀夫だったが、家を出てきたという樹里を受け入れ、ふたりは束の間の蜜月を過ごす。

しかしやはりきちんと話をしなければと、紀夫は樹里の両親に会いに行くことにした。




両親との面会


紀夫は先頭を切って、老舗フレンチ『おがわ』の2階へ足を踏み入れる。

そこにはすでに、樹里の母親らしき和服姿の女性と、父親らしく堂々とした態度で座るジャケット姿の男性がいた。

「初めまして、一ツ橋紀夫と言います。今日は、お時間をいただきありがとうございます」

固い表情で頭を下げる紀夫。

樹里の両親は話で聞いていた通り、決して人当たりが悪い感じではない。こちらに笑顔を向け柔らかなオーラを纏っているのだが…しかし決して紀夫に心を許していないのが伝わってくるのだった。

「お父さん、お母さん、勝手に家を飛び出してごめんなさい。今日は私と紀夫さんの思いを聞いてもらいたくて…」

先走るように樹里が口を開くと、母親がそれを遮った。

「樹里ちゃん、わかったからまずは座りなさい。…一ツ橋さんも」

そう促され、紀夫は奥の席、父親の前に腰を下ろす。

失礼します、と呟き椅子を引くその一挙手一投足を、樹里の母親が見つめている気配がする。そして逆に父親は、ちょっともこちらを見ようとしない。

紀夫は、背中を嫌な汗がツーと伝うのを感じた。


樹里との交際を認めてもらうべく、直訴する紀夫。その時、母親は何を語る?


結婚に必要なこと


「樹里は、元気にしてるんか」

樹里の父親は、最初にそれだけ問いかけてから、ずっと黙っている。

母親も、できれば紀夫の話など聞きたくないという心の声が、その視線や固い口元に表れている。

それでも、言わなくては。




一向に目は合わないが、紀夫は母親と父親を交互にみやり、覚悟を決めて遂に口を開いた。

「今、僕は樹里さんと真剣にお付き合いをさせていただいています。彼女も、同じ気持ちで」

紀夫の言葉に母親の眉毛がピクリと動き、その場の空気がピンと張りつめた。

「彼女に、決められた結婚相手がいることは知っています。それでも僕は、結婚を前提にお付き合いを続けたいと思っています。まだ出会って間もないですが、彼女も同じ気持ちで…」

「一ツ橋さん」

紀夫が目をそらさずはっきり、堂々と言ったセリフを、しかし母親は強引に遮った。

「結婚を前提に、って…。あなた、ご実家は何をされていらっしゃるの?」

そう尋ねた声は、低く、重く、そして冷ややかだった。

樹里が「お母さん、ちょっと…」と間に入ったが「今、一ツ橋さんと話してるの」と一蹴されてしまう。

「僕の父親は…奈良で教師をしています」

紀夫の返答に、母親は「そう」とだけ呟く。そして静かな物言いを崩さぬまま、紀夫を諭すように続けた。

「一ツ橋さん。うちは…萬田家は300年以上続く老舗和菓子屋なんです。樹里はその一人娘で、結婚相手には婿養子に入ってもらわないとならない。

もしかしたら、あなたにもその覚悟はできてるんかもしれんね。…やけど婿養子って言っても誰でもいいわけやない。萬田の家がより発展する相手やないと」

要は、紀夫では萬田家の跡取りに役不足だと言われたのだ。

「お母さん、私は自分の選んだ人と、好きな人と人生を共にしたい。その気持ちは、わかってもらわれへんの?」

言い返すことのできない紀夫に代わり樹里が叫ぶように割り込んだが、1ミリも冷静さを失わない両親の前で、その声は青臭く響く。

「樹里。お母さんはあなたを、あまりに世間知らずに育ててしまったようやわ」

母親は小さくため息をつき、樹里に向き直る。

「樹里。人の気持ちほどアテにならないものはないよ。時が経てば、環境が変われば、人が人に対して抱く気持ちなんてどんどん変わる。

だからこそ結婚は、恋だの愛だのじゃなく環境を整えることが何より大事なの。これから先の人生、まだ何十年あることか。

樹里、覚えてないの?あなた、幼い頃は貴志くんのことが大好きで、貴志くんのお嫁さんになるって言ってたやないの。それがたったの20年で、こうも変わったわけでしょう?今の気持ちが30年、40年後も変わらない保証なんてないんやから」

「そんな子どもの頃の話…」

樹里は「納得できない」とでも言うように頭を振ったが、「あなたの感覚は、今も子どもや」と言った母親の言葉が、部屋に重たく響いた。


結婚に恋や愛は必要ない。打ちのめされた紀夫は、樹里とともに家に戻るが…


結局、紀夫と樹里の訴えは聞き入れられぬまま、食事会はお開きとなった。

父親は樹里に何度も「家に戻れ」と言ったが、断固として首を縦に振らない樹里に、意外にも母親が助け舟を出した。

「まあお父さん、無理やり戻らせても仕方がないから」

しかしその後、母親は妙に自信に満ちた表情でこう言ったのだ。

「そのうち自分から戻ってきますから」と。




“普通”を望むのは…


竹田駅近くにある紀夫のマンションにふたりで戻ると、締め切られた部屋には熱気が充満していた。

一度窓を開け放ち、その後でクーラーを入れる。

打ちのめされた気分が、じっとりとした湿気でさらに鬱々としてくるようだった。

もしもここが適温に調節された居心地の良い部屋ならば、ふたりの気持ちはもう少しだけでも上向きになっていただろうか。

単身用の、小さな部屋。

現実から離れ、夢見心地で過ごしていた時には気づかなかったが、この部屋はどう考えても大人の男女が過ごすには狭すぎる。

やはり引っ越すべきかと考えたとき、母親の言葉が蘇った。

-そのうち自分から戻ってきますから-

「ノリちゃん、私…」

何かを言いかけた樹里に気づかぬふりをして、紀夫は「あっつぃなぁ」と声を出す。

「俺、ちょっとシャワー浴びてくる」

そう言い残し、紀夫はバスルームへと向かった。樹里が何を考えているか、知るのが怖かったのだ。

紀夫はこれまで、年頃の男女が心を通わせた相手と恋に落ち、結婚することを当たり前だと思っていたし、それこそが幸せなのだと思っていた。

しかしそれは、“決められた階層”を飛び越えない範囲での話なのかもしれない。

事実、樹里の母親が語った結婚観は紀夫のそれと真逆だった。

以前、樹里は、“普通”の人を求めている、と言った。

けれども考えてみれば、そんな発言が飛び出すこと自体、彼女が存在している立ち位置が普通でないことの表れである。

突きつけられた現実を前にしてようやく紀夫はそのことに気がつき、息苦しいほどの閉塞を感じた。

安価なバスルームの床に叩きつけられる水音が、不快に響いた。

▶NEXT:8月25日 土曜更新予定
最終回:紀夫と樹里の、恋の結末は…?