豊田喜一郎は「自動車は組み立て産業だ」と喝破し、工場を創り上げた。(毎日新聞社/AFLO=写真)

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トヨタ自動車には現場から生まれた言葉がいくつもある。「ジャスト・イン・タイム」「自働化」「視える化」……。なかでも創生期から使われている言葉は、創業者・豊田喜一郎の「1日に10回、手を洗え」。それはどういう意味なのか。ノンフィクション作家の野地秩嘉氏が「仕事の現場」から言葉を拾い上げる。連載第1回はトヨタの言葉について――。

■長く続いている会社はなぜ生き残っているのか

1980年代、経済誌には「日本の会社の寿命は30年」と書いてあった。当時のビジネスマンは「少なくとも自分が働いている間、うちの会社はつぶれない」と、ほっとしたことだろう。99年には、同じメディアが「会社の寿命は7年、アメリカは5年」と言っている。これから会社に入る学生は定年までに会社を3回くらい変わるのが当たり前になるのではないか。

では、長く続いている会社はなぜ生き残っているのか。それは会社自体が時代に合わせて変化し、業務も変容しているからだ。

設立から80年以上経ったトヨタだって、実はずいぶんと仕事の中身が変わっている。戦時中のトヨタは軍需の会社で、陸軍に車両を納めていた。戦後すぐの頃はアメリカ軍のジープやトラックの修理で稼ぎ、その後はトラックを製造した。乗用セダンを開発し、売り始めるが、主な用途はタクシーなどの業務用だった。

本格的に大衆向け乗用車を売るようになったのは66年のカローラ以降で、日本にモータリゼーションが起こったのと同時である。その後、トヨタは海外向けの輸出メーカーとしての存在感が高まり、車の開発で言えば、ハイブリッド、燃料電池といった技術で業界をリードするようになった。「変わらない会社は生き残れない」という典型がトヨタだろう。

■柳井正「トヨタの強さは現場にある」

トヨタの現在の売上高は29兆3795億円で、前年からプラス1兆7823億円だった。営業利益は2兆3998億円、前年からプラス4054億円。増収増益である。

業務を変容させながら、しぶとく粘り強く生き残ってきたトヨタの強さはどこにあるのか。それは現場だ。

ユニクロ創業者の柳井正はトヨタの強さは現場にあると見抜いている。

「今日の成功は明日の失敗になるかもしれない。進化し続ける『現場』。それがトヨタの本質だ」

柳井が言うように、進化を続けないと組織はたくましくはならないし、何より外部環境の変化に対応することができない。

「あ、キミ、昨日の続きをやっておいて」と言ったまま、席にじっと座っている上司がいる会社は10年どころか5年ももたない。せいぜい半年の命だ。

■トヨタの言葉は聞いた人間に誤解の余地を与えない

トヨタ、ユニクロに限らず、強い会社は現場が進化しているし、現場に強さがある。メーカーなら生産現場、物流であれば運搬の現場、小売りであれば販売現場が強い。そして、そういった会社は強さを支える言葉を持っている。最前線で働く社員は現場で生まれた言葉を頼りにしている。

トヨタには現場から生まれた言葉がいくつもある。トヨタ生産方式を支える2本柱の「ジャスト・イン・タイム」と「自働化」は生産現場に対する指示だった。さらに、「視える化」「自工程完結」「現地現物」といった言葉も生産現場から生まれている。

いずれも具体的な言葉で、聞いた人間に誤解の余地を与えない。トヨタの生産ラインで働く人間は20代の若者が中心だ。カタカナのテクニカルタームや形而上の哲学を標語にしても、聞いた人がわからなければ意味はない。現場の言葉とは具体的な言い回しでなければ通用しない。

数あるトヨタの言葉のなかで、もっとも初期から使われていたそれは、創業者・豊田喜一郎が大学卒の社員に向けて言ったものだ。

「1日に10回、手を洗え」

■「大卒は理屈ばっかり言って役に立たない」

喜一郎は発明王・豊田佐吉の長男で、豊田自動織機の常務だったが、「人の役に立ちたい」とベンチャー企業のトヨタ自動車を創った。「自動車は組み立て産業だ」と喝破した彼はアメリカから1台のシボレーを購入、分解し、自らすべての部品を原寸大でスケッチする。そうして、自動車と部品の機能と性能を頭に叩き込み、自動車工場を創り上げた。

もともとエンジニアだった彼は生産現場が好きだった。息子の豊田章一郎(現名誉会長)は「親父は現場の人だった」と言っている。

「父は生産現場が好きで、『論より実行』がモットーだった。『大卒は理屈ばっかり言って役に立たない』と怒り、現場に行こうとしない大卒社員には、『現場に行け、現場の機械を触れ、現場で手を汚せ、そして、1日に10回は手を洗え』とよく言っていた」

トヨタの経営者は喜一郎に限らず、現場が好きだ。たとえば、喜一郎のいとこで、長く社長を務めた豊田英二もまた現場に足を運んだ。

■「おい、社長だぞ。上役の悪口でもなんでも言っちゃえ」

副社長を務めている河合満はたたき上げの職人だ。河合が鍛造工場の現場で働いていたときも、英二はたったひとりで現場にやってきた。

「昼休みに工場の隅でタバコを吸っていたら、英二さんがひとりで入ってきて、『新しい機械を見せてくれないか』って。あわててタバコを消して、機械のところに連れていったんですよ。英二さんは機械をほれぼれと見ていて、触って、『これを使いこなせるといいな』って。帰りにまだ若造だった僕に、『今日はありがとう』って帽子を脱いで、直立不動で深々と頭を下げる。いやあ、あれにはびっくりしました」

現在の社長、豊田章男もまた時間が空くと、現場に来る。副社長の河合の部屋をのぞいて、「河合さん、一緒に行こうよ」と工場へすたすたと歩いて行く。

現場の主のような職人副社長の河合は工場に入ると、大声で叫ぶ。

「おい、社長だぞ。みんな集まれ。何を言ってもいい。上役の悪口でもなんでも言っちゃえ」

現場の若い作業者が集まってきて、章男を囲む。章男は自ら話をするよりも、彼らの話に耳を傾ける。時には相談に乗る。トヨタは30万人以上も従業員がいる会社だ。けれども社長は雲の上の人ではない。生産現場にいれば、ふらりと訪れてきたトップと仕事の話や世間話ができる。トヨタはそういう会社だ。

■経営者の仕事とは、現場のみんなを幸せにすること

2010年のこと、トヨタはアメリカで車の品質が問題となり、豊田章男は下院の公聴会に呼ばれた。彼は議員たちから厳しい質問を浴びせられたが、時に毅然として対応した。公聴会が終わり、アメリカの従業員を集めた会合の席で彼はこんなスピーチをしている。

「みなさん、公聴会では私はひとりではありませんでした(I was not alone)。あなたたちがそばにいてくれました。ですから、何もつらいことはなかった」

日頃から現場を訪ね、若い作業者と言葉を交わし、冗談を言っては肩をたたいて笑い合ったりしているからこそ、こういうフレーズが出たのだろう。

経営者は孤独ではない。孤独だと思っている経営者は粋がって、格好をつけているだけだ。経営者は現場の人間に寄り添い、現場のみんなを幸せにするのが仕事だ。

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野地秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年、東京都生まれ。早稲田大学商学部卒、出版社勤務などを経て現職。人物ルポ、ビジネス、食など幅広い分野で活躍中。近著に、7年に及ぶ単独取材を行った『トヨタ物語』(日経BP社)がある。

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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉 写真=毎日新聞社、AP/AFLO)