三等水兵時代の疇地哲氏(昭和18年頃)

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 戦艦「大和」の元乗組員、疇地哲(あぜち・さとし)氏。沈没後、漂流する海の中で「米軍に負けてなるものかと思った」と語る91歳の生き証人は、不沈艦の最期を体験して何を思ったのか。

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 昭和19年(1944年)3月に第96期普通科砲術練習生を首席で卒業した私は、第一志望の不沈艦「大和」に乗り組むことができた。

 水兵長となっていた私の配置は、右舷第11機銃群の従動照準器射手。21番・23番機銃の照準を行うこの従動照準器には、指揮官・器長・伝令と射手の私の4人がつく。艦首方向を0度とし、時計回りに160〜180度(右舷最後部)が受け持ち範囲だった。

 敵機の速度や進入角度を入力すると、機銃の発射角度が自動的に計算される。少しでも時間があれば、新田器長が砲術学校高等科でとっていたノートを見て勉強した。12基ある従動照準器の射手のうち、高等科卒業の下士官でないのは私だけだった。居住区ではベッドで寝られて、トイレも洋式で水洗。すべてが特別だったと分かったのは、実は戦後である。

 マリアナ沖海戦(昭和19年6月)では、「大和」に損害はなかった。最新鋭の空母「大鳳」が沈んで、小型空母もやられたと聞いたが、負けたとは思わなかった。

 レイテ沖海戦(同年10月)では、シブヤン海で同型艦「武蔵」が撃沈される。「大和」も前部に直撃弾を受けたが、揺れさえしなかったので戦闘中は気付かなかった。敵は高度2000mくらいを水平飛行しているが、機銃の射程は1500mくらいなので届かない。だから、敵機が急降下爆撃する時には、突っ込んで来る先で当たるようにタイミングを見計らって撃った。

 激しい戦闘でレイテ湾突入直前に反転(※注)したことは分からず、ブルネイに戻ってきてから知った。

〈※注/当初作戦では「大和」など第一遊撃部隊が敵上陸部隊を殲滅するためレイテ湾に突入する予定だったが、レイテ湾目前で反転し、「謎の反転」と呼ばれた。〉

 そして最後となる沖縄特攻(昭和20年4月)では、出撃前に一番砲塔の上から能村副長が「4月8日黎明に中城湾に突撃して浮き砲台になる」と訓示した。一番砲塔横の黒板に、「総員 死ニ方用意」と書かれていたのを覚えている。いったん軍隊に入れば、お国のために命を捧げるのが当然の務めであり、親孝行でもあると当時は思っていた。

 4月6日出撃の際には、日本の見納めだとは思っても、自分が死ぬとはなぜか考えなかった。4月7日は朝から曇っており、午前11時頃に戦闘配置となる。そのあと電探(レーダー)から「左舷に大編隊」、しばらく経ってから「機種はグラマンF6F(艦上戦闘機)」と知らせてきた。やがて敵機が見えてきて、右舷30度のあたりで大きな白い綿雲に入ったり出たりしながら、向かって右方向へ進んでいる。その頃から天気が悪くなった。

 ついに敵機が雲から出て右舷160度(艦尾)から急降下してきたので、対空射撃が開始される。距離は2500mくらいで、右舷からは急降下爆撃が来た。こちらが撃った機銃弾が命中したかどうか分からず、敵機が爆弾を落とすたび、続く二番機か三番機を狙った。撃墜された敵機が、右舷後部の海面に突っ込んでいくのを一度だけ見た。(敵は大和の左舷に攻撃を集中させたが)左舷から集中的に来た雷撃機は、こちらからは見えなかった。

 沈没したのは午後2時23分だが、その30分以上前からすでに対空兵器は全部使用不能であった。魚雷や爆弾の命中で、もう電路がいかれて傾斜している。「総員退去」命令の前に、最上甲板の半分が沈んで浸水していた。機銃が撃てなくなったので配置を離れ、左舷側に傾いて海面上にむき出しになった“赤腹”まで歩いて行って靴を脱いだ。この期に及んで、初めて「大和」は助からないと思ったものである。

 後部から海に飛び込んで、500〜600mほど離れたところで、大爆発が起こる。3番砲塔の弾庫が誘爆したように見えたが、火柱が収まった時に「大和」の姿はなかった。防舷物(当時は竹製)が流れてきたので、5〜6人でつかまった。

 服は着たままで、「大和」から流れてきた重油で真っ黒。でも最後まで死ぬとは思わず、「米軍に負けてなるものか、必ず生きて帰るんだ」と自分に強く言い聞かせる。どこを見ても水平線なので、もう味方のフネは全滅だと思っていた。

 3時間くらい経った日没前、「雪風」が近くに来てくれた。ジャコップ(縄梯子)を垂直によじ登って救助されると、露天甲板で衛生兵が目の消毒だけやってくれた。

 4月15日に呉へ帰ると、「『大和』のことはしゃべるな」と厳命される。しかし下宿に戻ると「あんたは本物の疇地さんか?『大和』が沈んで全員戦死って聞いた」と言われた。

 砲術学校を首席卒業して学校長から拝領した時計は、今も2時23分を指している。70年以上たっても忘れられず、4月7日その時刻に南西の方角へ向かって手を合わせている。海底の「大和」が発見されて引き揚げようという話になった時は、東海地区大和会もみんな反対だった。戦友がたくさん死んだ身としては「大和」を枕に安らかに休んでほしい、そっとしておいてほしいという思いである。

■聞き手・構成/久野潤(大阪観光大学専任講師)

●あぜち・さとし/1926年三重県相賀町(現・紀北町相賀)生まれ。尋常高等小学校卒業後、大竹海兵団卒業後に入院と療養を経て、昭和19年3月に横須賀の海軍砲術学校普通科を首席で卒業。「大和」に乗り組む。

●くの・じゅん/1980年大阪府生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒。京都大学大学院法学研究科国際公共政策専攻修了。著書に『帝国海軍と艦内神社』(祥伝社刊)、『帝国海軍の航跡』(青林堂刊)など。

※SAPIO2018年7・8月号