8月6日、スイスのジュネーブでなくなったジョエル・ロブション。日本には特別な愛情を持っていた(写真:ロイター)

2007年11月19日まで、和食のすばらしさは一部の人にしか知られていなかった。世界中を旅する美食家だけしか、和食が世界でも極めてレベルの高い料理の1つだと知らなかったのだ。その他の多くの人にとって和食は、数ある料理の1つにすぎず、フランス料理や中華料理に遠く及ばないものだと考えられていた。

だが、その夜、一冊の本が和食や日本料理のイメージを一変させた。「ミシュランガイド」の東京版が初めて出版され、東京の星の数はパリを上回ったのである。1世紀にわたり、ほぼ世界中で信奉されてきたミシュランの評価は、国連決議のような重みをもって世界に受け止められた。マスコミや料理雑誌はこぞって和食を取り上げるようになり、旅行代理店も突然、日本旅行を大きく扱い始めた。

「ロブションはつねに日本を愛していた」

その星がつく高級レストランで、何度も革命的な変化を起こした人物の1人が、ジョエル・ロブションだ。彼は30年前、1976年に和食を知って以来、つねにほかのフランス人シェフや批評家たちに和食のすばらしさを訴え続けた。ロブションは、辻調理師学校を創設した辻静雄をはじめ、フランス料理を愛する日本人たちの招待を受けて、本当の意味で和食や日本料理の深みを理解したフランス人シェフの1人である。

8月6日、仏ル・フィガロ紙でロブションの死が公表された際、もう1人の世界的なシェフであるアラン・デュカスは「ジョエル・ロブションはつねに第一人者でした(中略)何より日本の魅力を発見したのは彼ですし、日本をつねに愛していました」とコメントを寄せている。ロブションは晩年、5軒のガストロノミー・レストランや11軒のラトリエを含む19のレストランなど、38店舗を経営していた。最後の挑戦となった「ダッサイ」は、獺祭の蔵元・旭酒造とともに昨年4月にパリに開いたレストラン兼日本酒バーである。

1995年に1度目の引退を表明した際、ロブションは栄光のまっただ中にいた。彼が引退するというニュースに世界中が驚いた。なにせまだ51歳だったし、数年前にインターナショナル・トリビューン紙に「世界一のレストラン」とたたえられたばかりだったのだ。

しかし、ロブションは多くの偉大なシェフと同じように、自分も働きすぎで早死にすること、すなわち、過労死を恐れていた。それからは、セカンドキャリアとして、シェフとしてではなく、レストランのプロデューサーとしての活動を始めた。彼の名を冠したレストランを世界中のさまざまなところにオープンしては、見事なまでにどこでも同じハイクオリティの食事やサービスを提供したのである。

その後の彼の「新たな人生」は日本とのかかわりなしにはなかっただろう。当初、ロブションは、時折ポール・ボキューズに付き添って料理のデモンストレーションをしに日本へやってきていた。ロブションは当時を振り返って、「スーツケースいっぱいのエシャロットと、禁止されていたスパイス類を持ち込んでいた」と、筆者に笑いながら話したことがある。

その後、ロブションは日本で次々とレストランをオープンさせた。最初の店は、東京・恵比寿の「タイユバン・ロブション」(2004年に「シャトーレストラン ジュエル・ロブションとしてリニューアル)。当初、彼は本物のシャトーをフランスから日本に持ってこようとしたが、不可能だと悟って、故郷から石や屋根瓦を持ち込んだ。数年後には、彼の店としては最も独創的なものとなった「ラトリエ ドゥ ジョエル・ロブション 六本木ヒルズ」を開いた。


恵比寿にある「シャトーレストラン ジョエル・ロブション」(写真:Mugimaki/PIXTA)

ラトリエの特徴はなんといっても、オープンキッチンにある。シェフやスタッフと、客がカウンターを挟んで会話をしながら食事を楽しむ――。後に世界中で成功したコンセプトの第1号店となったのは日本だ。「ラトリエでいつもすごいな、と感じるのは空調。厨房ととても近いのに、絶対ににおいが漏れてこないのです」と、ミシュランガイドの元トップで、2007年に初の東京ガイドを創刊した、ジャン=リュック・ナレは話す。

ラトリエのコンセプトは寿司屋で得た

ロブションはもともと、料理を教える「先生」のつもりで日本に来ていたが、気づいたころには自身が生徒となり、自分が教えたよりも日本で多くを学ぶこととなった。彼は日本で、自分自身の考えと近い哲学を見出したのである。それは、フランス料理の大部分が素材を作り替える技術に重きを置いているのに対し、和食は素材に忠実であろうとする点だ。

実際、和食の調理法はロブションのやり方となじんだ。彼は洗練されたレシピを作るよりも、単純でありながら完璧な料理を作ることを好んだ。彼のスペシャリテといえる「じゃがいものピュレ」がいい例だろう。ロブションが亡くなった際、フランス料理評論家ペリコ・ルガッスはこう彼を追悼した。

「彼にとっては素材のエッセンス、素材の起源、素材の季節感は重要なことだった。彼のレシピは素材の真実を取り戻すことを目指していた。彼の料理を食べれば、その料理がどこから来たのかを突き止めることができるはずだ。シェフは自分の素材を裏切るべきではない」

顧客とのインタラクションを重視するということも日本で学んだことだ。シェフだったころ、ロブションは、キッチンとダイイングルームを厳密に隔離していた。どちらかと言えば内気で、長年キッチンにこもって客と会うことはなかった。

が、「すきやばし 次觔」のような寿司屋で食べているうちに、ロブションは客と向かい合うことで、調理が単なるサービスではなく「交流」になりうるということに気が付いた。こうして、ラトリエに関するアイデアを見出していった。ラトリエのカウンターは、寿司屋のカウンターをモデルにしている。その幅は男性が握手をする腕の長さほどで、これが会話するのに理想的な距離だと考えられている。

年4、5回日本を訪れていたロブションだが、その情熱が衰えることはなかった。来日中は、日本のビジネスパートナーが運転するロールス・ロイスで移動し、王様のようなもてなしを受けるのだが、彼自身は謙虚であり、うぬぼれることがないようにつねに注意を払っていたという。

忘れられないのが、2007年11月18日――ミシュランガイドが発売される前日――の朝のことだ。彼のもとに電話で、自身が経営する3つのレストランが計6つの星を獲得したという知らせが入った。すると、若いシェフが彼のもとへやってきて、興奮を抑えきれない様子で「師匠、星を6つとはすばらしいです!」と賞賛した。ロブションはこの青年に目を向けて笑顔を浮かべ、「すばらしい、よな?」と彼の言葉を繰り返した。

興奮する若いシェフをいきなり平手打ち

そのときだった。自身の情熱をこの若いシェフと分かち合うどころか、まるでグツグツと煮えたぎる鍋の火を消すかのようにこのシェフを思いっきりひっぱたいたのである。突然のことだったが、これはロブションなりに、痛い思いをさせてでも、名声に自分が左右されることのないように教えたかったがゆえの行為なのだ。

「ミシュランの星を獲得すると、まるで宝くじに当たったかのように愚かな行動に出るシェフはたくさんいます。そのほとんどが最初にやることと言えば、レストランを改修して借金を作るのです。でも、改修をすることでレストランの魂が失われます。そうして、数年後には破産してしまうのです」と、元ミシュランガイドの社員は話す。

ロブションは「星をとって当たり前」といった高飛車な態度を取ることは決してなく、自身の門下生たちにも同じ姿勢を持つように徹底した。ロブションの日本の従業員は「スペインにある彼のアパートを訪ねたことがあるが、なんともシンプルな場所でした」と話す。

ロブションは日本人の労働観を高く評価していた。料理というものは、同じレシピを数多く、何度も完全に再現する芸術で、それを世界一完璧に実践していたのが日本人のシェフたちだった。彼らはフランス料理のレシピも、ほかのどの国民にもまねができないほど完璧に再現し、それはフランス人シェフにはまねができないことだった。

一方、厨房では「行きすぎた」指導が行われることもある。これは日本に限ったこととは言えないが、それでも日本のレストランで働く数多くの外国人シェフたちは調理場における日本人同士の暴力にショックを受けることもある。

1960年代の厳しいフランス料理の世界で頭角を現したロブションは、日本の厳しい厨房のしきたりに馴染んでいた。同じレストランで働いていた何人かの従業員によると、かつてロブションのレストランで働く日本人シェフの1人がほかのシェフを平鍋で打って彼の腕を骨折させたことがあった。それでもロブションは、暴力を振るったシェフを解雇することなく、ただ別のレストランに異動させただけだった。

筆者はこの件について、彼に尋ねたことがある。すると、ロブションは、暴力は残念なことだったが、許される余地があると答えた。彼は多くの面で革新的であり、突出した才能を持つ人物だった。願わくはいこの「厨房における暴力」においても改革を成し遂げてほしかったが、ここに手をつけることはしなかった。

三つ星シェフ31人をもてなした伝説の夜

2014年、ロブションは自身のレストランで起きた日本人シェフによる暴力についてフランスのフードサイト「アタビュラ」から攻撃されたことがあった。非常に厳しい社会的なバッシングを受けた後、彼はその編集長と自身の店で面会した。そのとき、ロブションはけんか腰で挑むのではなく、この問題について何時間も討論し、徐々に停戦状態にもっていった。彼らはその後も連絡をとり続け、議論を続けたという。

ロブションが亡くなった際、この編集長は彼の微妙な感情を表す独特の文章で追悼記事をしめくくった。「僕は君のことが大好きだった……んだろう?」。

2007年11月19日、ミシュランガイド東京版が発売された夜に、世界で最も有名なシェフたち(その中には多くのフランス料理のシェフがいた)が、東京に集まった。筆者はその場で取材していて、こう考えていた。「彼らが一堂に会してディナーを食べるとしたら、このすばらしいシェフの集団を満足させられる腕を持つ『シェフの中のシェフ』は一人しかいない」。その日の夜、ディナーは六本木のラトリエで開かれた。

その夜、天才的なチェスのチャンピオンのように、ロブションは同時に31人の三つ星シェフのために料理の腕をふるった。彼が毅然とした態度で微笑みながら、すばらしいシェフたちや客へと歩いていくのを見て、私は「今自分はオリンポス山にいて、この人はジュピター神で、ほかの神々に料理をふるまっているのだ」と思った。

そんなことを考えていると、ロブションは筆者に「元気かい、レジス」と尋ねた。この夜のメニューは今でも額に入れて私のキッチンに飾ってある。日本政府に例外的にフランスと日本の二重国籍を認められうる人がいるとすれば、それは彼だ。それくらいたぐいまれなる人物だったのだ。