高性能さとクオリティが世界から認められるパガーニ

1台数億円――。

超高級スーパーカーを少量生産するパガーニ・アウトモビリ(以下パガーニ)は1992年に創業した新興の自動車メーカーだ。現在、世界の有力自動車メーカーの多くが1950年よりも前に創業していることを考えると、パガーニの歴史はあまりに短い。にもかかわらず、その高性能さと卓越したクオリティが世界から認められ、とんでもなく高額なプライスタグが付いているにもかかわらず、多くのバックオーダーを抱えている。


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先日、このパガーニのオーナーであるオラチオ・パガーニがスーパーカーの聖地たるイタリア・モデナのモデナ・レッジョ・エミリア大学で名誉修士号を獲得した、というニュースが飛び込んで来た。自動車に関するイノベーションに多大な貢献を行ったという主旨の受賞に対して、彼のクルマ作りに対する情熱を知る世界中の多くの仲間たちが、それを祝福した。

オラチオ・パガーニの生い立ち

パガーニとは、まさにオラチオが幼少時より持ち続けていたスーパーカー作りへの情熱そのものなのだ。それではパガーニ・アウトモビリ、そしてそのパガーニを設立したオラチオ・パガーニの生い立ちについて、ここでまとめてみよう。


オラチオ・パガーニ

オラチオ・パガーニは1955年、アルゼンチンに生まれた。スポーツカーにあこがれ、バルサ材などを使ったモデルカー作りに没頭した幼少期を送った。夢はカーデザイナーになること。大学ではデザインとエンジニアリングを学んだ。

クルマを作りたいという強い意志を持った彼は大学在学中にも、友人たちとF2マシンを完成させたし、キャンピングカーなどの特殊車両を製作するファクトリーを開業し、クルマ作りの実践を学ぶ。木型を作りFRPを貼り、オリジナル・ボディを作る技術を習得し、理想のスポーツカー作りのために世界へ飛び出す夢を膨らませていた。

ある日、オラチオにすばらしいチャンスが訪れた。知人の紹介で、アルゼンチンを代表するF1ドライバー、ファン・マヌエル・ファンジオに会えることになったのだ。ランボルギーニ・カウンタックのようなクルマを作りたかった彼は、ここぞとばかりに熱い想いを伝えた。「イタリアでスーパーカーのデザイナーになりたいのです。ランボルギーニへ紹介していただけないでしょうか」と。


スーパーカー作りへの情熱をファンジオに伝える

彼の情熱にほだされファンジオは、早速、ランボルギーニのジェネラル・マネジャーに紹介してくれた。モータースポーツ界の伝説とも言えるファンジオからのプッシュがあれば怖い物なし、と感激したオラチオであったが、世の中そう甘くなかった。彼が訪ねた1982年のランボルギーニは倒産した後の政府管理下からようやく再建に向けて動き始めたばかりだった。

ジェネラル・マネジャーは、オラチオの腕を認めながらも、経営状態が安定するまでしばらく待つようにと指示したが、オラチオにとっては前進することしか考えられなかった。すぐに妻と共にアルゼンチンからイタリアへと移住し、テント生活をしながら入社の機会を懇願したという。情熱の人である。

ランボルギーニにおいて存在感を高めていく

無理矢理、ランボルギーニにもぐりこんだ彼だが、デザイン、FRPボディ製作、エンジニアリングなどクルマ作りのすべてにオールマイティな彼は、再建途中でマンパワー不足のランボルギーニでは大いに重宝された。今年、日本にも導入されたランボルギーニ初のSUV「ウルス」の祖先とも言える「LM002」や「カウンタック・アニバーサリー」などをすぐさま手掛け、頭角を現した。

また、チーフ・エンジニアと共に複合素材リサーチ室を作り、まだF1などにしか採用されていなかったカーボンファイバー素材の市販車への導入も図った。何事もとことん追求する彼は試行錯誤を重ね、ついには自力でカウンタックを一台丸ごとカーボンファイバーで作ってしまった。

そしてカウンタックの次期モデルであるランボルギーニ「ディアブロ」ではオラチオの手によるカーボンパーツがバンパー、エンジンフード、インテリアなど多数採用された。ランボルギーニはカーボンファイバー技術を重要な社のDNAとアピールしているが、その原点はオラチオにあったとも言えるのだ。

ランボルギーニにおいて存在感を高めていくオラチオであったが、彼の情熱はぶれることがなかった。理想のクルマ作りという夢に向かって、次のステップへと進んでいった。まもなく、オラチオはカーボンパーツ製造に特化したモデナデザイン社を設立した。ランボルギーニやフェラーリF1などのクライアントに対するサプライヤーとしてパーツ製造を請け負ったのだ。

そして、1992年、ついに自らの名前を用いた自動車メーカー、パガーニ・アウトモビリを設立。長年温めていた自前のデザインとエンジニアリングによるオリジナルカー、ゾンダを1999年に発表したのだった。


ゾンダF

2002年に限定399台で発売されたフェラーリ・エンツォが8000万円ほどであったにもかかわらず、新興メーカーであるパガーニがそれに匹敵する価格でゾンダを発表し、着実に売り上げを伸ばし続けている。現在では1台あたり3億円とも5億円とも言われる高価なモデルの注文がコンスタントに入っており、昨年の売り上げは前年比29%アップを記録したという。パガーニのビジネススタイルに対するフォロワーは数多く生まれたが、それに追いついて来る者は誰もいない……。それはいったいなぜなのだろうか……。理由は3つあると私は考えている。

少量生産にこだわり、顧客満足度を上げる

1つ目の理由は、手作りにより少量生産にこだわり、顧客満足度を上げることをモットーとしたことだ。パガーニは創立以来、ゾンダ、続くウアイラという2モデル、それらの派生車種たるワンオフ(特別注文モデル)で少数作り続けるという体制を続けている。


ウアイラ

「私は会社を大きくしようとはまったく考えていません。仲間と共に理想のクルマを作り続けることがすべてなのです」とオラチオが語るように、いくらたくさんのバックオーダーを抱えても、増産することなしに、数十名の従業員によって製造する体制は創立以来、まったく変わっていない。


従業員

各モデルには最新の素材やテクノロジーが導入され、少量生産にもかかわらず、工業製品としての安定したクオリティを備えるというパガーニならではのセールスポイントを生み出している。

現在のように複雑な電子デバイスなどが導入されている自動車は一般的に大量生産すればするほど、品質が安定すると言われている。そんな中で、パガーニのような年間数十台しか生産しないメーカーにとって、いくら販売価格が高く設定しても、建て付けの良い内外装や、どんな環境でも調子の良い走りを見せる個体に仕上げるということはそう簡単なことではない。

幸いなことに、ランボルギーニ時代から、モデナを知り尽くしたオラチオは、周辺にある高い技術をもったサプライヤーについて熟知している。彼らとの親密なコラボレーション体制が確立されていることがパガーニの強みだ。だから、他メーカーからの流用パーツなしに、ほぼすべてのパーツを1品ずつ金属削り出しなどによって作ることができる。


削り出しパーツ

さらにボディなどに使われるカーボンファイバーなどの製造技術は、パガーニの最も得意とするところだから、熟練したスタッフの匠により世界最高峰のクオリティが達成される。目の肥えた顧客もパガーニのこだわりに満足するのだ。

2つ目の理由は、スーパーカーにおける世界最大のマーケットである北米においてホモロゲーション(認証)を獲得できたことにある。北米は世界でいちばん、衝突安全基準や排気ガス規制が激しい国であり、少量生産車であれども例外はない。年間数十台しか作らない自動車メーカーが、1台1億円近くもするクルマを何台もクラッシュテストのために壊さなければならないのだ。


ウアイラ

「しかし、パガーニは少量生産メーカーが輸出することの最も難しい北米市場に挑戦しました。簡単なことではありませんでしたが、このホモロゲーションを獲得するということは、世界中の大量生産車と同様の安全性を持つというお墨付きをもらったということにもなります。私たちは世界中のパガーニ・オーナーに安心して楽しんでもらえるよう、その安全性を証明したのです」とオラチオは語る。北米のセレブリティたちが日常の足としてパガーニを楽しむ風景は、世界に向けてブランドの大きなアピールとなった。 

ブランドとしてのイメージ作り

最後の理由はブランディングに関して、徹底的にこだわったということだ。「私は経営者であるとともに、エンジニアであり、デザイナーでありメカニックでもある。そしてセールスマンでもある」という彼のコメントはモノ作りにおいて、とても重要な意味を持つ。彼は理想のクルマを作ることだけでなく、マーケティングにおいてブランディングがいかに重要であるか、ということをよく理解していた。

このカテゴリーにおいてはフェラーリやランボルギーニ、ブガッティ、マクラーレンなど、スポーツカーやモータースポーツのフィールドにおいて長きにわたって培ったヒストリーをベースとして成立している強豪がひしめいている。そこに新興メーカーが立ち向かうのはそう簡単なことではない。そこでオラチオは前述の伝説のドライバーたるファンジオのイメージをブランディングに活用した。

実際、メルセデス・ベンツとの深いつながりを持つファンジオの助力によりパガーニは創立当初より特別チューンのAMGエンジンの供給を受けることができ、それを大きくアピールした。さらに、ファンジオをパガーニのアドバイザーに迎え入れ、彼に捧げた“ゾンダF(=ファンジオ)”というスペシャル・モデルも設定したのだ。


工場

パガーニのブランドとしてのイメージ作りは細かい所まで、とことんこだわっている。新工場のアッセンブリー(組み立て)ラインは古いモデナの町並みのような、およそ自動車メーカーのそれとは思えないエレガントな雰囲気を醸し出している。北米で行われるモントレー・カーウィークにおいても、同様なイメージのパガーニ顧客のためのスタンドが、広大なゴルフ場のグリーンに展開され、当地のオーナーたちが招待される仕掛けができている。

しかし、パガーニのビジネスは最初から順調だったワケでもなかった。ゾンダはスーパーカーの頂点たるフェラーリよりも高価なクルマである。それを何のバックグラウンドもない新興メーカーが作るのだから、クルマの出来は評価されたものの、はたしてリセールバリューが、しっかりとキープされるかと疑問視された。


ゾンダ・チンクエ・ロードスター

そこでオラチオが香港のパガーニ・ディーラーであるS.P.Sと共に開発したのが、ゾンダ・チンクエだった。チンクエとはイタリア語で“5”を表す。つまり5台限定のナンバリング入りスペシャル・モデルであった。この企画は世界の富裕層に大きく刺さり、即時完売となった。それを契機にパガーニが大きく注目されたのだ。

パガーニの躍進は、スーパーカー界でもごく少数の限定数量モデル、さらに1台のみというワンオフカーが大人気となるきっかけともなった。パガーニのリセールバリューはマーケットで確立され、3年待ちと言われても、皆が競ってオーダーを入れはじめた。

パガーニ本社の国旗

最後に、オラチオがセールスマンとしても優秀であることも付け加えておきたい。私が初めてパガーニ本社を訪ねたときのことだ。社屋にアルゼンチン、イタリア、そしてカナダの国旗が掲げられていたのを見つけた。

オラチオの祖国、そしてここイタリア、前者2つの意味はすぐにわかるが、3つ目は不明だ。カナダの国旗の意味を訊ねる私にオラチオはこう答えた。「うちには世界の国旗がそろえてある。答えは簡単だ。今日はカナダのお客様が訪ねてくるからね」。

注文書にサインしようとやってくる顧客達はオラチオのホスピタリティにイチコロになるようだ。オラチオの熱心なセールスにより特別仕様が次々と加わり、考えていたよりも相当に高額となった注文書の控えを手に顧客はパガーニ社を後にすることになるのだ。