イベント会社を経営する平野貴裕(ひらのたかひろ)・35歳。

ほんの出来心から不倫関係に陥った奈美子に渡された手紙を、妻である華に見つかってしまい修羅場に発展する。

慰謝料300万円を支払い、さらには高級時計までプレゼントしても妻の怒りはおさまらない。

しかし華の交通事故をきっかけに大事なものに気づいた貴裕は、奈美子との関係を一方的に解消。しかしそれに逆上した奈美子が暴挙に出る。

結局、華が不倫相手を一蹴し一件落着となるのだった。

が、一難去ってまた一難。貴裕の会社のトップ営業マン・乾に引き抜き疑惑が持ち上がる。

「私に策がある」と言う妻・華の真意とは?




ドS妻の涙


青山一丁目にあるタワーマンションの一室。

貴裕&華夫妻が主催するモロッコパーティーは、スパイスの香りと楽しげな笑い声に包まれていた。

思い出話がひとしきり盛り上がったころ、出張シェフがタジン鍋で煮込まれたラム肉とクスクスをサーブする。

「じゃあ次は、赤を開けましょうか」

妻はそう言って、脇に控えるワインボトルを手に取った。

営業スタッフの乾、そして事務スタッフの葵のグラスに赤ワインを注ぐ華。

「本当、懐かしいわね」

貴裕が異変を感じたのは、小さく呟いた華の声が震えていたからだ。

「華…?」

突然黙り俯いた彼女の顔を覗き込むと、彼女はなんと、大粒の涙をぽろぽろと零しているではないか。…ついさっきまで、けらけらと声を立てて大笑いをしていたというのに。

妻の急変ぶりに貴裕は驚き絶句する。しかもあの華が、人前で涙を見せるなんて。

これまでの結婚生活で、貴裕が華の涙を見たのはほんの数回だ。テレビでパピーウォーカー(盲導犬候補の仔犬を育てるボランティア)のドキュメントを見たときと、つい先日、交通事故に遭ったときくらいのものである。

「華さん、どうしたんですかぁ…やだ、なんか私まで泣けてきちゃう」

おそらく酒に酔っているのだろう。そんな華の様子を見た葵までがなぜか瞳を潤ませはじめ、ホームパーティーのムードは一変するのだった。


ドS妻が突然流した涙の理由とは?そしてこのことがきっかけで、営業スタッフ・乾に変化が?


女優と化した妻


「ごめんなさいね…昔話をしていたら、思わず感極まってしまって。

だって、今こんな風にこうして皆といられるのも、すべては初期メンバーである乾さんと葵ちゃんのおかげ。

まだなんの実績もない、だけど夢だけは大きい夫…平野を信じて、助けて、ずっと一緒に頑張ってくれた。

私からも改めてお礼を言わせて欲しいの。ふたりとも本当に、本当にどうもありがとう」

事情を知る貴裕の目から見れば少々芝居がかったそぶりではあったが、溢れる涙を拭い、心を込めて語る華の姿は感動的だった。

実際、すでに目を潤ませていた葵は「華さぁぁぁん」などと言いながら華と抱擁をし始めるほど感銘を受けている。

「華の言う通りだ。“THクリエイティブ”を順調に大きくしてこられたのは、華を含めてここにいる皆のおかげだ。ありがとう」

貴裕もそう後に続くと、葵と抱き合っていた華がおもむろに乾に向き直り、ダメ押しのごとく切々と訴え始めた。

「乾さん。引き抜きの件、平野から聞いたわ。もちろんあなたの人生だから、私たちに引き止める権利なんてない。

だけど…平野はもちろん、私もあなたに辞めて欲しくない。だってあなたは私たちにとって、ゼロからのスタートを共にしたかけがえのないメンバーの1人だから。

私たちは他の誰でもない、乾さんにいて欲しいの」

時折目頭を押さえながら静かに、しかし力強く言葉を発する華を、乾は無言のまま見つめている。

しかしその目は、まるで心の動きを映し出すように微かに揺れており、貴裕に退職を願い出たときの彼とは明らかに様子が違っていた。

「乾さん。もう一度、考え直してくれないかしら?」

妻も気づいているのだろう。揺れる心の隙を突くように、華は乾に懇願の瞳を向けている。

そこでようやく、ずっと黙って聞いていた乾が「いや、参ったな」と呟く。そしてゆっくりと、言葉を続けるのだった。

「おふたりにそんな風に思ってもらえるなんて。ありがたいです、本当に。ちょっとすぐにはお返事できませんが…もう一度だけ考えさせてもらえますか?」

乾がそう言うのを聞くと華は「ええ、もちろんよ」と明るい声を出し、そしてそっと貴裕に目配せをした。

-きっと大丈夫。

妻の瞳は、そう告げていた。


夫のピンチを救う、頼りになる妻。華が貴裕を支える理由は愛?それとも…?


許されたと思っているのは夫だけ


その日の夜。

乾と葵が帰宅すると、貴裕は後片付けをする華をいそいそと手伝った。と言っても、テーブルから食器を運ぶくらいのことではあるが。

「華、今日はありがとう。乾も考え直してくれそうだったし…さすがだよ。本当に助かった」

プレートやカップをテキパキと食洗機にセットする華に、貴裕は心から感謝の意を告げる。

実際、自分が乾を引き止めても、こうはいかなかったと思う。

貴裕自身ではなく妻である華が、立ち上げ時からの歴史と思い出を語り、これまで見せたことのない涙を流す。その後で、決して無理強いすることなく柔らかに再考を促したことが、奏功したに違いない。

そんな芸当ができるのは、他ならぬ華だけである。

「華にはほんと、迷惑かけてばかりだな。ほんと、君がいてこその俺だって心から感謝してる。

その…きちんと言えていなかったけど、今回のこともそうだし、例の件…奈美子のことも本当に申し訳なかった。許してくれてありがとうな」

話題にすることを恐れて礼すら言えていなかったが、逆上した奈美子の暴走を止めてくれたのも結局、華だった。

ただの出来心ではあったし、離婚したわけでもないのに慰謝料300万円を支払い、さらに300万円近い高級時計までプレゼントしたという経緯はあるが、妻は夫の裏切りを水に流し、こうして今も貴裕を支えてくれている。

しかしながら、次の瞬間。過去の過ちがすでに消えたと思っているのは夫だけであったことを、貴裕は思い知ることとなる。

華は突然、流していた蛇口の水を止めた。

そして首だけを動かして貴裕を見ると、これまでと一変し低くドスの効いた声を出すのだった。




「…誰が許したって、言った?」

「え?」

突然の豹変に面食らう貴裕に向かって、妻は続けてはっきりとこう断言した。

「許したつもりなんてないけど。ってゆうか、許すことなんて一生ないから」

一生、許さない…?

あまりの発言に絶句する貴裕。しかし華にとっては至極当然の対応であるらしい。

再び蛇口をひねって洗い物を再開すると、思い出したように口を開いた。

「そうそう。私、来週末に九州出張が決まったから。金曜から家を空けるけど、よろしくね」

軽やかな口調に戻り、一方的に告げる華。

貴裕は、少し前に妻が働くスイーツショップで覗き見た光景を思い出した。

あの時、店には見覚えのある男…華の元カレがいた。あの男と華は今、いったいどういう関係なのか。

まさか、九州出張に同行するのはあいつではないのか。

「出張って…誰と行くの?」

こらえきれずに苛立ちを含んだ声が出て、そして一度放出してしまった感情はもう止められない。

「この間、偶然見たんだよ。君が昔付き合ってた男がスイーツショップにいたけど、あれはどういうことなんだ?なんであいつがいるんだよ。出張もあいつと一緒に行くんじゃないのか?」

そんなつもりはなかったが、つい責めるような言い方になってしまう。自分がしたことは棚にあげるが、貴裕は元カレの存在が気がかりで仕方ないのだ。

「…ねぇ。なんで信用を失うようなことを何もしていない私が、裏切り行為に及んだ夫にそんな言い方をされなきゃならないわけ?」

ムッとした表情で、貴裕を睨む華。

続いて妻は「はぁぁぁ」と大きなため息をつくと、淡々とした口調で貴裕の質問に短く答えるのだった。

「元カレがいたのは、この仕事を彼が紹介してくれたから。そして出張に行くのは私と、スタッフの女性ひとりだけよ。

…言っておくけど私、浮気されたからって浮気し返すような低レベルな女じゃないから」

華は隙のない早口でそう答えると、それ以上の追及を避けるようにさっさとキッチンを離れ、バスルームへと消えていってしまった。

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「一生許さない」と断言され不信感を募らせる貴裕。妻と元カレの間には、本当に何もないのか?