キャサリン妃に続き、女優のメーガン・マークルを妃に迎えた、人気うなぎのぼりの英国王室。なんと言っても、二人とも英国貴族の出身じゃないところがいい。キャサリン妃は英国王子が350年ぶりに迎えた平民階級の妃だし、メーガン妃に至ってはアメリカ生まれの女優で、母親がアフリカ系、年上バツイチです。それぞれの厳しいハードルを乗り越えるために、おふたりには様々な苦労があったと思いますが、もし王子たちの母、ダイアナ妃の存在がなければこうはいかなかったでしょう。ダイアナ妃は、その無垢な信念と恐れを知らない行動で世界中で愛された反面、保守的な英国王室をコテンパンに破壊した史上最大のデストロイヤーともいえる「悪姫」です。

ダイアナ妃は1961年生まれ、名門貴族のスペンサー伯爵家の出身。でも両親はまさにダイアナ妃の誕生あたりから関係をこじらせて、彼女が7歳で離婚しています。幼い頃、裕福な実業家と結婚した母のもとでも暮らしていた彼女は、「お作法だらけのお城暮らし→お嬢様寄宿学校」で、よくできた貴族の子女に育った二人の姉に比べ、ごく普通の――スポーツ好きで勉強は苦手、友達とふざけ合うのが大好きで、流行のロマンス小説にポワーンとなる夢見がちな――女の子に育ちます。

当時の彼女を知るハイソサエティ男子によるダイアナ評がこちら。

「入ってきたとき、彼女は何か品の良くないことを言ってその後くすくす笑っていました。私は思いましたね。『ああ、なんてこった。くすくす笑う女の子なんて。かんべんしてくれよ』ってね」

個人的には16歳にして「ふざけてクスクス笑うことが許されない」とか英国貴族マジか! と思いますが、つまるところダイアナ妃は、貴族の世界に生きるには自由な、別の見方では「幼い」と思われてしまうような子だったんです。この頃に彼女と出会ったチャールズ皇太子の目に留まったのも、「なんか面白い子」というのが理由だったとか。

再会は2年後。王子が美しく変貌した彼女を見染めて交際がスタートし、1981年に婚約が成立します。これダイアナ妃が20歳の時。キャサリン妃は28歳、メーガン妃なんて36歳ですから、めちゃめちゃ若いんですね。これまで一度も真剣な交際をしたことがなかった少女が、初恋相手の王子と結婚! っておとぎ話かと思いますが、おとぎ話には必ず語られないダークサイドがあるもの。この頃から、ダイアナ妃の過食症が始まります。

結婚式を目前に激ヤセした「生贄の羊」

英国王室でダイアナ妃が舐めた辛酸は、もし私だったとしても(ないけども)、「やってられんわ!」と思うに違いなものですが、とはいえもし私ならそれが分かり切ってるから嫁には決して行きません(ないけども)。そういう意味で、組み合わせとタイミングの悲劇という部分が大きいような気もします。

ダイアナ妃の一番の不幸は、彼女がまだまだ夢見がちな子どもだったこと。「王室」という、伝統と体面と階級を何よりも重んじる世界について何もわかっておらず、だから結婚や家族関係の愛のなさや、個人の主張や自由が軽んじられること、お作法を知らないことで蔑まれることに、どうしてもいちいち傷ついちゃう。さらに追い掛け回すマスコミによってプライバシーはほとんどなし。世慣れた大人でもうまくやるのは至難の業です。

もちろん頼みの夫さえ優しければどうにかなるのでしょうが、大事に大事に育てられてきた王子様はやがて彼女の体調不良に付き合うのが面倒になり、「どうせ後で吐くのにそんなに食べるのか。なんて無駄なんだ」ととどめを刺します。

パイをホールでまるまる1個、1ポンド(450g)入りのキャンディを1袋、ボウル1杯のカスタードをペロリ、それでもガリガリと痩せていくダイアナ妃。かくて婚約発表時に73cmだったウエストは、5か月後の結婚式には59cmに。後に結婚前夜を述懐した彼女は、こんなふうに語っています。

「生贄として殺される羊になったような気持ちだったわ。そうなることがわかっていたけど、どうすることもできなかったのよ」

夫は、私の人生の「主人」ではありません

「彼女は王室の制度から、ただファッションモデルと従順な妻という役割だけを期待されていたのです」

友人がそう語るような自尊心を全く持てない数年を経て、彼女が「一人でも立ち上がらなくては」と思い始めたのは1988年、27歳くらいの時のこと。

これは以前から私が個人的に思っていることですが、女子が自分自身を理解し、転職やら結婚やら留学やら自分探しの旅やら、悪戦苦闘し始めるのはこのくらいの年齢かなーと思います。それまで「子どもだから」「女の子だから」と許されていたことが許されなくなる、逆に「女子はキレイならOK」とか言われると「一人前に扱われてない」「ナメられてる」と思うようになってくる時代ですよね。

王室にいるダイアナ妃にも本当の意味でそうした自意識が芽生え、「自分以外の誰も自分を助けてはくれない」と腹をくくる瞬間が訪れたのかもしれません。ここから数年の間に、拒食症を本気で治そうと病について学び、占いやニューエイジ思想にハマり、髪をさらに短くし、エイズなど病や貧しさに苦しむ人への慈善活動を始めるようになります。

特に彼女がエイズ患者を抱きしめる写真は、当時「触れば感染する」かのような偏見を覆すことになりました。もちろん世間にはそういう病気に王室の一因が関わるのを良しとしない人も多かったのですが、ダイアナ妃はそんなこと一切考えなかったんですね。むしろ世間から打ち捨てられた人々は、彼女自身でもあったのかもしれません。そしてそこで感謝されること――王室内では経験したことがない――によって自身の生き方に悪心を得て、彼女をより強く成長させてゆきます。

その極めつけが、'92年に出版された自伝『ダイアナ妃の真実』の発表です。チャールズ側の人間が「史上最長の離婚申立書」と呼んだこの本は、自身の摂食障害と自殺未遂、チャールズとカミラの関係、嫁姑の関係などなど…これまで隠されていた英国王室のゴタゴタ――一般家庭と変わらない、いわゆる下世話な話――を暴露したものだったんですね。

皇太子との不仲説はありながらも、伝統と格式に満ちた英国王室を象徴する王妃として人気を集めてきた彼女は、ここから始まる壮絶な泥仕合――チャールズがカミラに「君のタンポンになりたい」(ひゃああああ!!!!)と言っている会話テープの暴露なども! ――の下手人として、壮絶なつるし上げを食らってゆきます。こんな感じに。

「理性も分別もないヒステリー」

「誇大妄想狂で自分がトップにいないと気が済まない」

「この国の君主制そのものを危機にさらしている」

いやいや君主制を危機にさらしてるのダイアナ妃じゃないでしょ、っていうのはまあ置いといて。彼女はさらに手を緩めず、1995年にはBBCのインタビュー番組に出演し、自身の不倫関係を告白します。女王は辛抱たまらず早急な離婚を提案、翌年には王室との合意が成立します。そしてダイアナ妃、さっさと以下のような声明を――女王の許可とかまったく得ずに――発表しちゃうんですね〜。

「プリンセス・オブ・ウェールズ(ダイアナ妃のこと)は、引き続き子どもたちに関するすべての決定にかかわり、ケンジントン宮殿にとどまり、セント・ジェームズ宮殿のオフィスもそのまま運営いたします。(中略)その称号を保持し、『ダイアナ、プリンセス・オブ・ウェールズ』と名乗ることになります」

…ダイアナ妃、めちゃめちゃ頼もしい「ワル」に育っています。まあ全部が全部通ったわけではありませんが、彼女はついに王宮の束縛から放たれます。――たとえそれが人生の最後の1年であったとしても。生前の彼女はこんな風に言っていたそうです。

「小さな女の子だったころには、(中略)夫と言うのは父親のような存在で、私を支えてくれ、勇気づけてくれて、『よくやった』とか『ダメだな、まだ充分じゃない』とか言ってくれる人だと思っていました。でもそういうものはどれも得られませんでした」

「これからは自分の主人となり、自分自身に対して正直でいたいと思います。もう私が誰で、どうあるべきかについて、誰か他の人の考えに従って生きるつもりはありません。これからは本当の私でいます」

(参考文献)

『【完全版】ダイアナ妃の真実 彼女自身の言葉による』 アンドリュー・モートン

『プリンセス・ダイアナと英国王室物語』 別冊歴史読本

『ダイアナ』 ニコラス・デイビス