施設全体が2メートル近く水に浸かった広島県三原市の「本郷ひまわり保育所」(筆者撮影)

泥まみれの積み木。水浸しの床に倒れたピアノ。七夕飾りにも茶色い砂がこびりつき、カサカサになって垂れ下がっていた。短冊には「大きくなりますように」「元気にすごせますように」などの願いごとが読み取れる。


泥がこびりついた七夕飾り(筆者撮影)

西日本豪雨(平成30年7月豪雨)の発生から1週間以上が経った7月15日、広島県三原市の「本郷ひまわり保育所」。許可を得て屋内に足を踏み入れると、子どもたちの願いが切なく感じるほどの無残な光景が広がっていた。

三原市では計8人が死亡

三原市では南東に向かって流れる沼田川が3カ所で溢水したのをはじめ、支流の河川9カ所で破堤。住宅の1階部分を丸ごと沈めた洪水や土砂崩れで計8人が亡くなった。


園庭に運び出された電子ピアノ(筆者撮影)

特に三原市西部の本郷地区は被害が激しく、ひまわり保育所を含む一画は工場やショッピングセンター、そして病院までもが1階の天井近くまで浸水。氾濫したのは夕方以降だったので保育所に子どもたちはいなかったが、遊び道具や乳母車などほとんどのものが泥水にのみ込まれた。もしこれが日中に子どもがいる時間だったら……と思うとぞっとする。


乳母車も乾いた泥に覆われていた(筆者撮影)

「再開は1カ月後、2カ月後という話ではないでしょう。まったく先が見通せません……」。まだボランティアも入っておらず、1人で泥出しや備品の運び出しをしていた市子育て支援課の職員は、額に汗をしたたらせて声を絞り出した。

市内のほかの保育所や子ども園は、ほぼ通常どおり再開したが、ひまわり保育所は子どもたちを他の施設に振り分ける代替保育を当面続けることになる。入所していた親子たちにとっては、直接の被災に加えてのつらい現実だ。

時間が経つほどに追い詰められる被災者はほかにもいる。本記事では「アレルギー」を持つ親子たちが直面している危機についてリポートしたい。

母親たちの焦燥

3連休初日の7月14日、山陽新幹線三原駅前のビルの1室に、若い母親たちが焦燥した様子で集まっていた。


アレルギー対応食を仕分ける「三原アレルギーの会ひだまり」の母親たち(筆者撮影)

取り囲んでいたのは卵や乳、小麦などの成分を除去したアレルギー対応食。魚の缶詰からレトルトのご飯とおかず、離乳食やミルクもある。

当初、三原市の避難所にはアレルギー対応食がほとんどなかった。そこで、地元のアレルギー患者会「三原アレルギーの会ひだまり」が備蓄していたアレルギー対応のアルファ化米100食を持ち寄り、さらに日本小児アレルギー学会や各地の患者会などに支援を呼び掛け、被災から5日ほど経って数百食分を確保。三原市社会福祉協議会の部屋を借り、集まったものを整理していたのだ。

ただ、「ここに食料があることをどうやって知ってもらうか、取りに来られない人にはどうやって届けたらいいのかわからない」と「ひだまり」メンバーの沖のり子さんと中尾みゆきさんは困惑していた。

「保健福祉課」が窓口に

「今も断水が続いている本郷地区は、ここから車で30分ぐらいの距離。現地で小さい子を抱えている母親は簡単に移動ができない」。自らも4歳と2歳の娘を連れた沖さんは訴える。


アレルギー用ミルクなども全国から届いている(筆者撮影)

「ひだまり」のメンバーは三原市を中心に東広島市や尾道市などに約40人。しかし、つねに連絡の取り合える仲間は限られ、メンバー以外にも困っている親子はいるはず。そうした人たちが避難所でどう過ごしているのか……。

市に現状を把握してくれるよう頼んだが、「保健福祉部」の中で「社会福祉課」から「子育て支援課」……とたらい回しのようにされて、ようやく「保健福祉課」が窓口になってくれた。

ただ、実際に本郷地区の避難所の1つを訪れると、罹災証明書の届け出や災害ごみの収集などに関する張り紙にまぎれて「災害用アレルギー除去食が必要な方は保健福祉課へ」とホワイトボードに小さく書き込まれている程度だった。

避難所担当の職員は「これを見て当事者に電話をしてもらうしかない。特に避難所でアレルギーがあるか声を掛けたり、食事どきにアレルギー食を選んでもらったりする対応はしていない」と話す。

そこからまた車で10分ほど離れた南方コミュニティセンターに市社協が設けた災害ボランティアセンターでも、「今はアレルギーのことまでは……」と対応しきれていなかった。

「やはり、そんなものなんですね……」。状況を知った沖さんらは肩を落とした。

命にも直結する問題

今回の災害で、特に被害が大きく頻繁に報道されているのは広島市や呉市などの広島県西部と、「真備町」を中心とした岡山県倉敷市。その間に挟まれ、周辺の交通が麻痺していた広島県東部の三原市は、支援の手が行き届いていない印象を受ける。

しかし、市や市社協などの対応は、どの地域でも似たり寄ったりであろう。行政にとって、絶対数が少なく、目に見えにくいアレルギー患者への対応はどうしても後回しになりがちだ。患者によって食べられないものが異なり、対応を間違えれば責任問題にもなりかねない。だから「アレルギーどころでは……」と後ろ向きになるのは仕方ないとも言える。

ただ、持病の薬ならある程度の量を保管して、まとめて持ち歩けるかもしれないのに対し、アレルギーは日々の食の問題。長期に及ぶ避難生活は患者にじわじわと負担をかけ、それが命にも直結する。

前身の団体を含めて約30年間活動している名古屋市の認定NPO法人「アレルギー支援ネットワーク(支援ネット)」は、2011年の東日本大震災時に東北各地のアレルギー患者向けに支援を展開。当初は交通や通信の寸断で患者からのSOSをうまくキャッチできなかったが、メディアに対する広報の強化や避難所でのポスター張りなどの周知を続けて、患者の声を拾い上げた。

前年に東海地震の発生を想定して「バイクボランティア」に遠方の患者へ備蓄食を届けてもらう訓練をしていたこともあり、東北でも内陸の拠点から沿岸の被災地へ物資を届ける態勢はつくれた。

それでも、名古屋市の協力を得て仙台市に送った7700食分のアレルギー対応食の大半が、一般の支援物資に紛れてしまうなどの混乱も続いた。

しばらくすると「避難所ではアレルギー対応の離乳食が手に入らず、1歳3カ月の卵アレルギーの子に半月ほど硬いおにぎりを食べさせたり、ほとんど卒乳していたのに母乳を何度も飲ませたりして命をつないだ」「避難所でパンやラーメンが出ると食べられないので、近所の避難所を回り、おにぎりを探した」といった悲痛な叫びが伝わってきた。

発災から3カ月後、ようやく被災地に事務局を開設でき、支援が軌道に乗り出したという。

状況は徐々に改善

こうした経験を受け、支援ネットや日本小児アレルギー学会などの関係者は災害時の体制づくりや啓発活動に努めてきた。

今回も学会を窓口に情報を集約、被災から1週間以内には名古屋からアルファ化米500食分を広島市と三原市に送ることができた。しかし三原の「ひだまり」は昨年2月に結成されたまだ新しい団体で、「災害対応はよく学んでいたが、実際の情報発信や集約などで少し混乱があり、こちらでも現地の拠点から先の状況が把握できなかった」と支援ネットの中西里映子常務理事は言う。

【7月19日19時追記】中西常務理事の発言を初出時のものから上記に修正しました。

アレルギー学会災害対応委員会の三浦克志委員長(宮城県立こども病院アレルギー科医師)も「ここまで広域的な災害は東日本大震災以来。被災地も点在しており、支援の態勢づくりにどうしても時間がかかっている」と課題を口にする。

こうした中で、学会は日本栄養士会と連携して18日現在で広島、岡山、愛媛の各県に拠点を確保。栄養士が可能なかぎりアレルギー患者にも直接支援できる態勢をつくっている。「今回の災害で現地をできるだけサポートすると同時に、今後も患者一人ひとりや行政にアレルギー食の備蓄を進めるよう呼び掛けていきたい」と三浦委員長。全国の災害支援ネットワークの情報共有も、ようやく三原市を含む広島東部で活発になり、状況は徐々に改善しつつある様子だ。

アレルギーは突然、大人も発症する可能性がある。今回の対応を一人でも多く「わがこと」として受け止め、次の教訓とするべきだろう。