理不尽な校則を強いることは、子どもの個人の尊厳を踏みにじることにほかならない。写真は本文とは関係ありません(写真:blanche/PIXTA)

近年「ブラック校則」という言葉をよく聞くようになった。生徒が自らの意思で自由に装ったり、行動したりすることを、合理的な理由なしに制限する理不尽な校則のことだ。

最近多くの人を驚かせた事件といえば、2017年に明るみに出た大阪府立高校の頭髪指導だ。

生まれつき茶色い髪の女子生徒に対し、「生徒心得」を理由に髪を黒く染めるよう求め、それを怠ったとして授業を受けさせなかったり修学旅行に参加させなかったりしたというのだ。このためその生徒は不登校になってしまった。

これは明らかに人権侵害だと言わざるをえない。

「自分がされていやなことはしない」だけで十分

地毛の色が黒ではない生徒の髪を黒に染めるよう求める校則は論外だとしても、頭髪を染めることを禁じる校則は多くの学校に存在する。さらに教師が「間違った」指導をしないよう、地毛が黒ではない生徒に「地毛証明書」を提出させる高校も多い。

アルバイト禁止やバイクの免許取得禁止も、多くの高校が設けている校則だ。さらに下着の色を白と指定している例や、休日の私的な外出の際の服装まで規制している例もあるという。

2006年の教育基本法の改正によって、学校においては「教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずる」という文言が盛り込まれた(6条2項)。いわば、校則の根拠規定のようなものが設けられたのだ。

確かに、学校は児童・生徒と教職員がつくる1つの社会である。そこには日々の生活があり、秩序の維持や利害の調整が必要になるだろう。しかし「必要な規律」とはなんだろう。事細かな決まりを定めることがどこまで必要なのだろうか。

ドキュメンタリー映画『みんなの学校』の舞台となった大阪市立大空小学校では、児童が守ることを求められる「たった一つの約束」は「自分がされていやなことは人にしない、言わない」だ。これ1つで十分なのではないか。

教育基本法は「教育の目的」として「人格の完成」を掲げている。人格は個人の尊厳に立脚して形成される。理不尽な校則を強いることは、子どもの個人の尊厳を踏みにじることにほかならない。

児童の権利に関する条約12条は「締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする」と規定している。

髪型や服装の規制は明らかに「児童に影響を及ぼす事項」であり、子どもには「自由に意見を表明する権利」が認められなければならないし、その意見は「相応に考慮」されなければならない。校則を一方的に押し付けていいものではないということは、児童の権利条約からも明らかだ。

校則は、当事者である児童生徒の意見を聞きながらつねに見直されるべきものである。しかし、実際に校則について児童生徒の意見を反映させようとする学校はほとんどないと言ってよい。

裁判所は生徒の訴えを認めなかった

校則をめぐっては、これまでいくつもの訴訟が起きている。

よく知られている古い判例としては、熊本県公立中学校丸刈り訴訟(1985年確定判決)がある。

この裁判では、公立中学校で丸刈りを強いられた生徒側(原告)が、近隣の公立中学校に丸刈りの校則がないのに自分の通う学校では校則で強制されるのは、居住地等による差別であり、法の下の平等を保障する憲法14条に違反すると訴えた。

また、法定の手続きによらない身体の一部の切除の強制は憲法31条(適正手続きの保障)違反、個人の感性、美的感覚あるいは思想の表現である髪型の自由を侵害したので憲法21条(表現の自由)違反だという主張も行った。

しかし、熊本地方裁判所はこうした主張を認めず、「服装規定等校則は各中学校において独自に判断して定められるべきものであるから、……合理的な差別」であり、「髪型が思想等の表現であるとは(特殊な場合を除き)見ることはできず、特に中学生において髪型が思想等の表現であると見られる場合は極めて希有であるから、本件校則は、憲法21条に違反しない」と判示した。

東京私立高校パーマ事件(1996年最高裁判決)は、東京の私立高校がパーマ等を禁止する校則に違反した女子生徒に対し「自主退学勧告」をした事件だ。

生徒側(原告)は、髪型は美的価値意識と切り離せず、人格の象徴としての意味を有するから、「髪型の自由」は人格権と直結した自己決定権の一内容であり、憲法13条により保障された基本的人権だとし、その規制目的・規制手段の合理性・必要性は、規制する側が立証責任を負うと主張した。

東京地方裁判所は、「髪型の自由は憲法13条によって保障される自己決定権の一内容である」ことは認めた。しかし他方、私立学校には「私学教育の自由」があり、独自の校風と教育方針をとることができるとし、パーマを禁止する校則が髪型の自由を不当に制限するものではないと結論づけた。

学校の決断に任せ、裁判所は判断しない

この事件は最高裁まで争われたが、最高裁もこの高校がその教育方針を具体化するものの1つとして校則を定め、パーマを禁止することは「高校生にふさわしい髪型を維持し、非行を防止するため」であることから、社会通念上不合理なものとは言えないと判示した。

これらの判例をはじめとして、校則をめぐる裁判では、裁判所は学校側を勝訴させる場合が多い。それはなぜだろう。

かつて、憲法学説のなかに「特別権力関係論」というものがあった。

国や地方公共団体の役所で働く公務員、罪を犯して刑務所に入れられている在監者、国公立学校の在学者など、国と特別な関係にある者に対しては、特別な規律が認められることから一般の法が及ばず、国は一般国民に対する場合よりも強い人権制限をしてもよいとする考え方だ。

この理論は、現在ではほとんど支持されていない。

特別権力関係論に代わって一定の支持を得てきたのは「部分社会論」だ。自律的な団体の内部(部分社会)では、一般社会の規律とは異なる自律的な規律が認められ、そこには司法の審査権が及ばないとする考え方だ。

学校がそういう部分社会だとすると、校則はその部分社会における自律的な規律だということになり、その是非については学校内部の判断に任せ、裁判所は判断しないということになる。

校則は強制力を持つ規範ではなく、教育的な指導ないし教育的な配慮なのだから、学校に任せるべきものだという考え方もある。単なる指導や配慮によって権利侵害が起きることはないので、司法の判断の対象ではないという理屈になる。

いかなる理屈に拠るにせよ、理不尽な校則に対して、裁判所による救済がなかなか働かないという事態に変わりはない。結局「特別権力関係論」と同じ結論になってしまうのだ。「どうも裁判所は当てにならない」というのが、筆者の偽らざる印象である。

裁判所による救済がなかなか働かないのなら、市民が代わって監視するしかない。

NPO法人キッズドア理事長の渡辺由美子さんたちが発起人になり、「ブラック校則をなくそう!」プロジェクトを立ち上げた。同プロジェクトでは「ブラック校則」を「一般社会から見れば明らかにおかしい校則や生徒心得、学校独自ルールなどの総称」と定義し、そうした理不尽な校則や運用方法を、時代に合ったルールにしていく議論を進めたいという。歓迎すべき動きだ。

子どもたちの意見を聞くべき

理不尽な校則は、健全な市民感覚によってその見直しを求めていくのがいいと思う。その際には、当事者である児童生徒の意見を幅広く汲み上げることも必要だろう。

そういう議論を行うべき場は、学校制度の中にもともと用意されている。

まずは教育委員会だ。

公立学校を管理する教育委員会の委員は、本来普通の市民感覚を教育行政に反映させることが期待されている。教育委員会の使命は「レイマン・コントロール(素人統制)」だといわれるゆえんである。校則をめぐる問題は、教育委員会の場で委員同士で話し合うのに適した課題だと思う。

また、保護者や地域住民が加わる学校運営協議会を置く「コミュニティ・スクール」では、学校運営協議会の議題として取り上げてもいいだろう。

もちろん、PTAもそうした議論の場としてふさわしい。

どこで議論するにせよ、校則のあり方について議論する場合には、児童会や生徒会の代表の出席を求めるなどして、当事者である子どもたち自身の意見を十分聞くことが必要だ。

「学校の常識は社会の非常識」などと揶揄される事態を変えていくためには、そういう議論を積み重ねていくことが大事だと思う。