<決勝進出の実力とともに「人種を越えた統合のシンボル」が帰ってきた>

ロシアで開催中のサッカー・ワールドカップ(W杯)の決勝は、フランス対クロアチアに決まった。

この両チームがW杯で戦うのは20年ぶり。前回はフランス大会、パリ郊外のスタッド・ド・フランス競技場での準決勝だった。

あのときは0対0で前半を終わり、ハーフタイムの後にいきなりクロアチアに1点を取られた。だがフランスはすぐに1点を取り返す。その時GKのほぼ正面に躍り出て、シュートを放ったのはリリアン・テュラムだった。彼は、その後もペナルティー・エリアの角のすぐ外からゴールを決めてフランスを勝利に導いた。

2点目のボールがネットを揺らすと、テュラムは座り込んで指で鼻をつつき「どうして俺が」という表情をした。無理もない。彼は142回という男子ナショナルチーム選抜の記録をもっているが、ポジションはDF。この日の2点が彼のキャリアの全得点だったのである。そしてその2発が、テュラムを国民的英雄にした。

その後、テュラムがその名声をどう使ったのかを話したい。

わが名は「ブラック・ブラン・ブール」

20年前、決勝に進んでブラジルも破って初優勝を遂げたフランス・チームは国旗の「bleu-blanc-rouge(青白赤)」をもじって「black-blanc-beur(ブラック・ブラン・ブール)」といわれた。黒、白、そしてブールは「アラブ」をひっくり返した「ブラア」がなまって「ブール」となったもので北アフリカからのアラブ移民のことだ。

たしかに、リリアン・テュラムはフランスの海外領土グアドループ(カリブ海)生まれで、9歳のときに家族と共に本土に渡った黒人、キャプテンは白人で現在監督のディディエ・デシャン、そしてチームの軸はアルジェリア移民2世のジネディーヌ・ジダン。まさにフランスの理想とする人種を越えた統合のシンボルだった。

「当時のブラック・ブラン・ブールというスローガンは、フランス人であるとはどういうことなのか、私たちに問いかけてきました。あのチームは異なる宗教、異なる色、異なるアクセントで構成されたイメージを発信しました。とてもポジティブでした」──ロシア大会たけなわの6月15日、フランスのラジオ・フランスキュルチュールのインタビューでテュラムはこう語った。

ところが次の2002年日韓大会、優勝の最有力候補として臨んだが結果は惨憺たるものに終わった。ジダンは大会前の試合で負傷し、チームも予選3試合で1点もとれず無残に敗退した。

その頃国内では、移民を排斥する極右勢力が伸び、その空気を読んだ当時のサルコジ内相は「郊外の若者は社会のクズだ」と言い放った。

広岡裕児(在仏ジャーナリスト)