【明田川進の「音物語」】第8回 「星のオルフェウス」制作秘話と、ロスで手塚先生のお手伝いをした話

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前回から続けて、虫プロ入社から5年後の1968年に、田代(敦巳)氏らとグループ・タックを立ち上げることになるあたりから話をはじめましょう。

虫プロでは、ある時期に「あしたのジョー」など、手塚(治虫)先生のキャラクターではない作品もやらざるをえない時期がありました。そうした経験もふくめ、いろいろな作品で音の仕事をやりたいとの気持ちから、田代氏たちと新しく会社をつくろうという話がでてきたのがきっかけだったと思います。「ジャングル大帝」や「リボンの騎士」の音楽でお世話になった冨田勲さんにも応援のお願いをして、協力していただきました。

グループ・タックをつくってからは、虫プロの仕事をしながら外部の案件もやりはじめ、「ウルトラマンレオ」の仕事(※選曲)などにも携わりました。また、東京ムービーの社長であるプロデューサーの藤岡(豊)さんが僕らのことをわりと気にいってくれて、仕事をだしてくれるようにもなりました。そんな頃、虫プロの経営がおかしくなったんですね。なんとか支えたいとの思いで僕らもがんばりましたが、虫プロの倒産で(※1973年)、その負債の一部をグループ・タックが負うことになり、経理の人が銀行とかけあってくれて、解散せずに継続することができました。

その後、グループ・タックをでて自分で会社をつくろうと考えたとき、後輩が休眠状態になっている自分の会社を「いちからつくるとお金がかかるだろうから」と譲ってくれました。ちなみに、もとの社名は「アイディアコマーシャル」といって、のちに「マジックカプセル」と改名して今にいたります。ただ、虫プロからサンリオに移ったプロデューサーの富岡(厚司)さんから、「サンリオで映画部を新設するから、社員としてきてくれないか」と誘われたため、サンリオに入ることになりました。

サンリオでは、「METAMORPHOSES(メタモルフォーセス)」という映画を担当しました。僕も正確なことはよく分からないのですが、当時アメリカでアニメの仕事をしていたタカシさんという日本人がいて、彼がサンリオに「こういう企画でアニメーションをつくりませんか」と提案してOKをもらい、ロスにアニメスタジオを立ちあげたんです。そうして作品をつくっているときに、サンリオの辻(信太郎)社長や役員らと制作状況を現地にみにいったら、報告とは違ってまったくものがあがっていない。そこで辻社長から、「現地に残って、制作の管理をしてほしい」と言われ、そのままロスに残ることになりました。

僕の仕事は、プロダクションマネージャーとして全体を見ることでした。まずカットの一覧表を見て、誰がどういう状況なのかを洗い出し、アメリカではできないカットは全部日本に送って、日本のアニメーターに描いてもらう。また、アメリカで完成した原画を日本に送って動画を描いてもらうなど、日本とアメリカの間で制作素材をやりとりする作業を1年半ぐらいやりました。撮影は全部アメリカでやっていたので、アメリカで全部作画できるのがいちばんですが、現地のアニメーターには週給で働いてもらっていたので、残業までさせてしまうと、はるかに高くつきます。送る費用を考えても日本でやってしまったほうが確実だし早くできると判断したのです。

アメリカのスタジオでは、「METAMORPHOSES」の次の作品が決まっていなかったので、横長のすごく大きなスタジオに最初は150〜160人ぐらいいたのが、作品が完成に近づくにつれてどんどん人が減っていき、最後は制作や経理、秘書みたいな人たち10人ぐらいでやっていました。当時は、制作費として外貨をアメリカに送らなければならなくて、日銀(日本銀行)に何度も行っては、いろいろなことを言われ、それを社内の部長や社長に相談して、やっと向こうに送金できるという苦労もありました。

「手塚治虫物語 漫画の夢、アニメの夢 1960〜1989」(伴俊男+手塚プロダクション 著、1994年・「朝日文庫」朝日新聞社刊)、193ページより

アメリカのスタジオで働いていたとき、手塚先生がスタジオの見学をしにロスまでこられたことがあります。1976年6月のことです。本来の目的はイースター島の観光で、当時は日本からの直行便がないためロス経由でいくことになり、「ちょっと立ち寄るから、面倒をみてほしい」と。手塚先生はディズニーが大好きで、アメリカでもアニメをやりたいと思っていたでしょうし、ウチのスタジオには日本からきたアニメーターもいましたから、やっぱり見たいわけです。「METAMORPHOSES」制作中の様子をご案内しました。

手塚先生はたくさんの連載を抱えていて、ロスのホテルでもずっと原稿を描き続けていました。てっきり僕は、スタジオの見学が終わったらすぐにイースター島に行くものだと思っていたら、手塚先生から「アケさん、原稿を日本に送りたいので飛行場まで届けてくれませんか」と頼まれ、ホテルで先生から原稿をうけとって航空便をだしにいったこともあります。それも1回ではなくて何度もです。あるときには夜中、「アケさん、ケーキが食べたいのですけれど」との連絡も入ってきました。いろいろ店をあたったらホテルのラウンジみたいなところで扱っていたので、買って先生に届けたこともあります。このときのエピソードは、のちに伴(俊男)さんにお話して、「手塚治虫物語」という漫画のなかで描いてもらいました。

話は「METAMORPHOSES」に戻りますが、最初の音楽は、ミック・ジャガーが作曲していたんですよ。彼が歌も歌ってくれました。「フォークの女王」と言われるジョーン・バエズも曲を提供し、ザ・スリー・ディグリーズという女性3人グループが歌っています。それもすごい曲でした。映像をつくっているときにミック・ジャガーの名前があがったときには、まず彼のトップマネージャーが日本にきて、僕と監督のタカシさんとで京都を案内し、やってくれることになりました。そうして、できあがった音楽をもとにアメリカでダビングをし、ロスで完成披露試写をやりました。それを日本で見せたら、当時のサンリオの専務の方が、「今、日本ではディスコ風の音楽が流行っているから、これではダメだ」と言って音楽が差し替えられることになり、日本では「星のオルフェウス」というタイトルで公開されました(※1979年公開)。最初の音楽のまま日本で公開できていたら、すごい価値があったと思います。ちなみに、日本で上映するときには、たまたま僕がプロデュースしていたゴダイゴの映画(※「MAGIC CAPSULE Godiego」)も併映しました。ある程度は動員に効果があったのではないかと思います。

当時のサンリオは、映画や出版など、文化的なことをやっていく機運があって、辻社長がキャラクタービジネスを展開するための方法として、アニメーションがいいのではないかということで映画部をつくったと聞いています。手塚先生には、サンリオのために「ユニコ」というキャラクターをつくっていただき、映画にしています。最初は社内で短編をつくり(※「ユニコ黒い雲と白い羽」)、その後の劇場作品はマッドハウスにつくってもらいました。途中で僕はサンリオをはなれますが、手塚さんと繋がりがあるということで、「ユニコ」のキャラクターをサンリオの少女漫画雑誌(※「LYRICA 〜リリカ〜」)に載せて、最初の短編をつくるところまでの段取りをしました。