英検1級相当の英語力がないと、仕事では使い物にならないかもしれない(写真:sasaki106/PIXTA)

日本人の英語力が向上しない原因は、端的にいって学習と実践の思考プロセスに隔たりがあるからだという。この課題を克服する方法として、英語で別の教科を学ぶ教育がある。英語教育に詳しい上智大学の池田真教授が2回にわたって解説する。後編のテーマは「日本がやるべき英語教育」について(前編はこちら)。

理科や社会、体育など、別の教科を英語で学ぶ英語教育の最先端理論「CLIL(内容言語統合型学習)」には、2つのタイプがある。

1つは、英語教育の一貫として語学教師が教科内容的なものを授業で使う「弱形」。もう1つは、一般教科教育として各科目の教員が、時に英語教師の助けを借りながら、自らの科目を英語で教える「強形」である。

日本では今のところ前者が多く、個人レベルで英語の授業に取り入れている小中高大の先生方は全国に何百人もいる。

一方、ここ数年の動きとしては、プロトタイプである「強形」の実践が広まっている。

2020年に大きく改訂される「次期学習指導要領」では、他教科の学習内容を言語活動に活用することに言及しているため、各社の英語検定教科書には、扱いの違いこそあれCLIL的なものが入ってくるだろう。

すでに取り組んでいる学校も

「強形」の実践が広まる中、1科目ないし数科目をCLILで教える学校が私立校を中心に増えている。

事例には欠かないが、私が関わっている学校でいうと、仙台市の私立女子小学校では算数を英語のみで学ぶコースが3年目に入っている。児童の英語での発話は活発で、何人かはバイリンガルと思えるほど上達している。

横浜市の女子中高一貫校では、ESD(持続可能な発展のための教育)をテーマに科目横断型のCLILプログラムを立ち上げ、そのための生徒募集も行っている。独自に開発した教材を用い、CLILならではの内容学習と英語使用と思考活動が一体化した授業が展開されている。

興味深いのは、関西にある私立の中高一貫校の取り組みである。

その学校では、今年度から一般教科と英語の教員がペアでCLILの試行を始めた。さまざまな科目の先生が年間数時間程度、英語で教えているのだ。これがなかなかどうしてなのである。

地理の先生はクラス全体だけでなくグループワークの際にも生徒たちに朗々と英語で説明しているし、数学の先生が使うシンプルな英語は数学の論理とマッチして、無駄がなくかえってわかりやすい。

体育の先生にいたっては、ソフトボールの捕球のコツを指南する際に、「Don’t go and catch the ball. Catch your dream!(ボールを取りに行くな。自分の夢をつかめ!)」とジョークまで飛ばしている。

公立小学校の先生が正規科目としての英語を教える(検定教科書を使って授業を行い、児童に成績をつける)時代である。中高の物理や歴史や音楽の教員が英語で自分の科目を教えることもありだろう。

日本語で勉強したほうが効率的だが…

こういった取り組みには、批判がつきものである。誤解していただきたくないのは、全ての教育を英語で行えと言っているのではないことである。

実際、CLILの授業では母語での学習で育てられた思考力や知識力を活用して指導を行うことが求められる。母語による教育の有用性や重要性は言うまでもないことであり、今後も本流であり続けるべきである。

ただ、すでに述べたように、使用言語と知識活用と思考方法のグローバル化が進む中で、これからの世代には国際言語による国際基準の教育も経験する必要がある。

また、現場の声に耳を傾けると、生徒からも教師からも、「教科を英語で学ぶ意味がわからない」という声が常に出る。確かに、母語が日本語である場合には、日本語で勉強したほうが効率的だし、細かく深いところまで網羅できる。

それに対してはこう答えられる。

英語で何かを本気で学んだことがある人ならば、時間をかけて考えながら読んだり書いたりすることで、しっかりと知識が定着するという経験をしたことがあるだろう。

分野によっては、日本語よりも英語の方が用語や概念が理解しやすいということもある。それ以上に重要なのは、新しい知識を英語で仕入れ、それについて考え、話しあったり文章にまとめるという学習プロセスである。

なぜなら、それは、社会に出て英語で仕事をする際の認知プロセス――仕事上の最新情報を英語で入手し、それを基にさまざまな言語背景を持つ人々と英語で考えディスカッションをし、英語でのプレゼンやレポートにまとめる――と全く同じだからである。

受験英語が実際の場面で役に立たない理由

このような学習転移のプロセスは、「転移適切処理」という仮説によって説明される。

それによると、学習の成果が最も出やすいのは、学んでいる際の脳の処理プロセスと実際に使う際のそれが近い時であるとされる。これは受験英語がなぜコミュニケーションに役立たないかの説明でよく使われる。

すなわち、単語を覚え、文法を理解し、日本語を英語に訳すという学習は、和文英訳対策としては有効だろうが、英語で効果的なメールを書くことには直接は役立たない。

取り組む活動の違いもさることながら、学習時の思考と使用時の思考が異なるからである。

それに対してCLILでは、教室における学習時の思考プロセスと、社会における使用時の思考プロセスが一致する。ゆえにグローバル社会で使える英語が育つというわけである。

世界に伍していくレベルの英語習得には時間がかかる。英国のある著名な研究者は、「CEFR(ヨーロッパ言語共通参照枠)でC1レベル(英検1級相当)の英語力がないと仕事では使い物にならない。それ以下の達成度では英語を勉強してもムダ」とまで言い切っている。

CLILこそ、グローバル化に対応できる英語教育

その真偽や根拠はともかくとして、英語と言語的に近い言葉を第1言語とするヨーロッパですら、英語の授業だけでは時間数が足りない。そこで、教科を英語で学ばせるという秘策を生み出して、国民全体の英語力向上に努めている。

イタリアに至っては、中等教育の最後の学年で最低1科目は英語で学ばないと高校卒業の資格が得られないように法律が改正された。日本ではそこまではいかないだろう。

とはいえ、世界の英語教育の動向を鑑みると、理論の上でも実績の点でも、おおむねそのような方向に向かうのは必要であり、必然である。

従来の英語教育の上にCLILを加える――。世界と社会のグローバル化に対応する英語教育は、これしかない。