―あの頃の二人を、君はまだ覚えてる...?

誰もが羨む生活、裕福な恋人。不満なんて何もない。

でもー。

幸せに生きてるはずなのに、私の心の奥には、青春時代を共に過ごした同級生・廉が常に眠っていた。

人ごみに流され、都会に染まりながらも、力強く、そして少し不器用に人生を歩む美貌の女・里奈。

運命の悪戯が、二人の男女の人生を交差させる。これは、女サイドを描いたストーリー。

派手な女子大生生活を送っていた里奈は、総合商社に入社したものの、理不尽な社会人生活に疲弊していた。




―俺の子ども、産んでよー

なんて言葉は、男が女をベッドに誘うための安っぽい文句だと思っていた。

だが、軽い付き合いを続けていた直哉との関係は、思いがけず、その後どんどん密になった。

南麻布にある直哉の部屋の合鍵を渡され、彼の友人にもしょっちゅう紹介された。そして、以前はチラホラ感じていた他の女の影も完全に消えた。

“結婚”という明確な言葉はなかったものの、直哉なりの真剣さで私にコミットしているのはよく伝わってきたし、「絶対に幸せにする」という彼の言葉通り、一人の男にきちんと愛され大切にされるのは確かに“幸せ”な状態と呼べたと思う。

このまま本当に話が進み、直哉のような御曹司の妻となったなら、私の人生はそこである種の完成を遂げる。

そんな風に思うと、まだ24歳の私の胸にも、ちゃっかりと安堵と余裕が広がった。

だが私は、こうして周囲の環境が勝手に整っていくことに胡座をかき、結婚を決めるのに最も重要な“ある感情”が抜けていたことに、気づいていなかったのだ。


流される里奈に、廉が突きつけた核心の一言とは...?


「そいつのこと、好きなワケ?」


ある日のランチタイム。

私は丸の内のオフィスを抜け、一人ご機嫌で仲通りの『GARB東京』を訪れていた。

手元にはハワイのガイドブック。夏休みに一緒に旅行に行こうと直哉に誘われたのだ。

久しぶりの海外旅行に、私の胸は踊っていた。宿泊先はハレクラニホテル。しかも直哉は、ダイヤモンドヘッドを望むオーシャンビューの素敵な部屋を予約してくれていた。




「彼氏と旅行?」

低い声が聞こえ、ガイドブックから顔を上げると、そこには廉がいた。

許可も取らずに、同じテーブルにどさりと腰をおろす。

「あっついなぁ」

外回りの帰りなのか、廉は軽く汗ばんでいたが、その身体からは清涼感のある香水の匂いが漂った。一体いつから、廉はこんな香りを纏う男になったのだろう。

「例の年上の彼氏とハワイ?」

そう、とだけ答えると、廉はニヤニヤ笑った。

「相変わらずだな、里奈」

そう言って店員を呼び、堂々とランチの注文をするその姿は、まるで知らない男のようだ。

学生の頃とは違う、自信に溢れた口調。目つきもギラギラと挑発的だ。

私は妙な居心地の悪さに包まれ、早々に席を立とうと決意する。

「じゃあ...先に戻るね」

「なに、急いでんの?お前、そんな真面目に仕事してるワケじゃないじゃん」

すると、廉は私の手首を強く掴んだ。

「最近の“相沢サン”、感じ悪くない?あ、もうすぐ苗字も変わんのかな。でも、社内のコミュニケーションは大事だと思いますけど」

ワザとらしく苗字で呼ばれると、思わずカッと頭に血が上り、思わずその手を強く振り払ってしまった。

廉が嫌味を言っているのは明らかだった。

今となっては仕事への情熱を完全に失い、社内や同期との関わりも遮断している私を、廉がどことなく蔑んでいるのはヒシヒシと感じていた。

だが、それは私も同じだ。商社マンという身分に奢り、毎晩安っぽい食事会に繰り出す男の相手なんてしたくない。

要は、私たちは、お互いにお互いが気に食わないのだ。

少し前まであれほど毎日のように一緒に過ごし、何でも話し合っていたのに、今では価値観も考え方も仕事へのスタンスもプライベートの過ごし方もまるで違う。

もっと言ってしまえば、お互いが嫌いな男、嫌いな女になっていた。

「...行くね」

何も、話すことはない。

むしろ一緒にいるほど、お互いが苛立つのは分かってる。だが、私が最も恐れていたのは、そんな相手に胸の内をすべて打ち明けてしまいたくなる衝動だった。

「一個だけ聞きたいんだけど」

しかし廉は、背を向けた私になおも喋り続けた。

「里奈はさ、その年上の彼氏......そいつのこと、結婚するほど好きなわけ?」

私は聞こえないフリをしてその場を去ったが、廉の視線は、いつまでも背中に刺さっているような気がした。


旅行先で訪れた、幸せの絶頂。しかし里奈の反応は...?


絵に描いたような幸せ


直哉とのハワイ旅行は、想像していたよりもずっと贅沢で快適なものだった。

マイルが相当残っているからと飛行機はビジネスクラスだったし、例のハレクラニの部屋もこの上なく優雅で居心地がいい。

幼い頃から家族でしょっちゅうハワイを訪れているという直哉は土地勘もあり、有名なレストランやゴルフ場にも連れて行ってくれた。

「リナ、ゴルフサークルにいたんだろ?もうちょっと上手いと思ってたんだけどな...」

だが、初日は私のゴルフの腕に少々幻滅したようだ。すると、次の日からはプライベートのコーチまで手配されていた。

直哉は、まるで面倒見のいい父親のようだった。私はただ彼に甘えるだけで、何事もスムーズに楽しむことができる。

「リナはまだ若くて可愛いのに賢いし、こうやって趣味を共有できるのもいいよな」

練習の甲斐あり、みるみる上達していく私を見て、直哉は満足気に何度もそう言った。

南の島を堪能し、彼の希望通りに段々と二人でゴルフも楽しめるようになるうち、直哉と私は自然と親密さを増していく。

そしてそれは、最終日にハレクラニ内の『ラ メール』でフレンチを堪能している時だった。




「リナ......。本当に、俺の奥さんにならない?」

夕焼けで美しく染まった空に、耳に心地良い波の音。

何となく予感はしていたが、私は本当に直哉にプロポーズされたのだ。しかも、この上なくロマンチックな空間で。

普段は滅多なことでは物怖じなどしない大人の彼の目が、ほんの少しだけ不安げに揺れている。

...こんな風に結婚を申し込まれたとき、女は一般的にどんな感情を抱くのだろう。

心の底から幸せが湧き上がるような感動を覚え、相手の男への愛情も溢れんばかりに膨らむだろうか。

そして、この時を一生忘れはしないと、目の前の光景を瞼に強く焼き付けるのだろうか。

しかし、私の心に反射的に浮かんだのは、「上手いことやったね、私はなんて幸運な女だろう」という、自分への賞賛のような感情だった。

絵に描いたように甘い二人をどこか他人事のように思いながらも、だが私は、この場面に順応するように目を適度に潤ませ、言葉を詰まらせながらゆっくりと頷く。

「...うれしい」

―そいつのこと、結婚するほど好きなわけ?―

そのとき、憎たらしい廉の言葉が脳裏を過ぎった気がしたが、すぐに頭から振り払った。

重要なのは、間違いなく愛されることだ。

一昔前に流行った小説のように、死ぬ間際に誰かを愛した記憶を思い出したところで、女が幸せになれる保証はない。

迷いだとか本心だとか、無駄なセンチメンタルは必要ない。私は、私の人生に必要な選択と決断だけすればいい。

そうして甘い一夜を過ごした直哉と私は、帰国日の空港に向かう前、大急ぎでカラカウア通りのブティックをまわり、ティファニーで婚約指輪を購入した。

もう、廉のことを思い出すことはなかった。

そしてあのとき、大きなダイヤモンドを初めて左手薬指につけて感じたのは、“幸せ”という真っ当な感情だと思っていた。

あれが“達成感”という名の快感だったと気づいたのは、私がもう随分と歳を取ってからのことだ。

▶NEXT:7月11日 明日更新予定
里奈が直哉と結婚へ。そのことを知った廉の、胸の内は...