佐藤静恵さんが離婚を経て得たものとは?(筆者撮影)

今後の人生を「シングルマザー」として生きようと決める女性は後をたたない。金銭的には豊かとは言いがたい状況かもしれない。それでも懸命に生き、前を見据えて力強くほほ笑む姿がある。そんな彼女らの生きざまのリアルに迫る連載の第3回。

今回は電気工事業を行う合同会社MAIZコーポレーション代表で、13歳の娘さんと11歳の息子さんをもつ佐藤静恵さん(40歳)を取材した。半個室席のある珈琲館でお会いした佐藤さんは、仕事ができる女社長の風格が漂う反面、優しくにこやかにほほ笑むギャップが印象的だ。


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佐藤さんは2010年の秋頃、夫と別居した。

「別居当初は子どもにジュース1本すら買ってあげることができない状況でした。必要に迫られ、私は建設会社へパートに出ることになったのですが、そこではひどいパワハラに遭って。喧嘩して会社を飛び出しちゃいました」

社員がどんどん辞める会社

2011年6月、離婚調停が始まった頃からは、太陽光オール電化販売店の正社員になった。ところが、そこで佐藤さんは大変な苦労をする。

社長が退社する際、佐藤さんがお客と電話中だったことがあった。そうすると、社長は「佐藤さんとだけ目が合わなかった」という理由だけで佐藤さんを呼び出し、1時間も説教。トイレを社員全員に断ってから行かなければならなかったり、トイレットペーパーが三角に折られていないと全員業務を止められ、社長自ら犯人捜しを行ったりなどと、いろんな面で不可思議なルールがあった。

社長のやり方に納得いかない社員がどんどん辞めていき、ほとんど人がいなくなった。佐藤さんも入社してから10カ月で退職。2012年4月頃に労働組合ができ、2年間ほど労働裁判が続いた。月に2〜3回は労働組合のメンバーと集まり、メール履歴などの資料を集め、3カ月に1回は裁判所に行く。

そのうち、労働組合メンバーの新職場に、前社長から怪文書が届くようになる。メンバーは徐々に減っていき、最初は30人くらいいた人数も最後は5人に。それでも佐藤さんは最後までやり遂げ、裁判に勝訴した。

当時の稼ぎは基本給17万円に残業手当が少しつくくらい。子どもを2人抱えて、確かに豊かとは言えない状況だったかもしれない。

「でも、度重なる離婚調停で、女性調停員が『女性1人で子ども2人を育てるのは無理だ、生活苦だ、今は我慢だ』と毎度繰り返すので、プチッと切れてしまいまして(笑)。

『この調停が終わる頃には、主人の倍は稼いで、子どもも立派に育ててやる!』と言ってしまいました」

そうして離婚調停、前職場の労働裁判を同時進行させながら、起業した。

「もう訳がわからなくなるくらい忙しかったけれど、これらをやりきらないと未来がないと思ったんです。とにかくどれも必死でした」

労働裁判、会社の設立、離婚調停を同時にこなして

佐藤さんの起業は驚くほどのスピード感で進行していた。2012年4月に前会社を退職し、同年5月22日にはMAIZコーポレーションを設立。その間、たった1カ月ほどだ。

「私、働き始めてから尊敬できない上司ばかりで。こんなんだったら、自分で会社をやったほうがいいと思って。スカイツリー開業と同日の2012年5月22日に、前会社の先輩と2人で現会社を起業しました。当時私は34歳。アパートの一室で始めたんです」

そして現在の事業は、たった10カ月だったが、前会社で学んだことがすべて生かされている。

「前会社の太陽光オール電化事業は未経験からの入社でした。もともと施工管理や設計が私の経歴だったので、『施工部をつくりたいから立ち上げメンバーになってほしい』と言われて。そこから猛勉強をしたんです」

調査票や設計の見積書の作成など、経験のない資料作りを一から任されたため必死だった。子どもが小さかったので家ではあまり時間がとれなかったが、すき間時間で勉強。通勤の行き帰りの電車のなかでも調べものをし、暇があれば勉強にあてた。

「20代は現場監督や管理をしていて、電気の配線図などは書いていました。でも、7年も専業主婦をしていたので、まず、最近のパソコンに慣れなくて一苦労。USBとかも知らなかったし、浦島太郎みたいな気分でした。

ただ、仕事のコツをつかむのは得意だったこともあり、半年で仕事を覚え、7カ月頃には『いける』という確信がありました」

そうして会社の設立、労働裁判、離婚調停を同時進行。目が回るほど忙しい日々だった。

離婚は、会社設立4年目で成立した。離婚調停が長引き、当初の養育費は予定額を一度も払って貰ったことはない。

起業してからの道のりも順風満帆ではなかった。経理は未経験だったので、本を読んで勉強したり、税理士さんに聞いたり、実践で学んでいる部分が大きかった。

最初の数カ月は売り上げが80万円くらいしかなく、厳しい時期を経験。何とか融資をしてもらうのだが、その後2年半は給料が遅れていた。仕事があまりない4月から夏頃に限って、従業員が失敗や事故を起こし、当時の会社にとっては多大な損失を出したこともある。車や工具などを盗まれたこともあった。

会社のスタッフを育てるのも大変だった。研修プログラムやメンタルプログラムなど経費をかけて一生懸命教えるも、若い人材は1〜2年で辞めてしまうのだ。

「私の相方の元先輩が嫌になって辞めることもあれば、ネットワークビジネスで独立した子、プロボクサーの夢を追いかけて辞めた子など理由はさまざま。本当に教育は難しいですね」

さらにはわが子のことでも心を痛めた。離婚をしてからは自分の実家で子どもと暮らしているのだが、昨年まで現場で各地への出張も多かったため、学校の行事にはほとんど行けなかった。子どもには寂しい思いをさせてしまったと思っている。

「月に1回授業参観があって、たまに出席ができると、特に下の子はビックリした表情をして固まるんです。後で聞くと『ママが学校に来るなんて、夢かと思った』と。かわいかったですね」

「来月、会社が潰れてしまうかも」というときに

実は昨年7月、いろいろなことが重なり、今までにないほどのピンチを迎えていた。「来月会社が潰れてしまうかも」というところまで危機的な状況だったのだ。

「今の状況を打破するために、とにかくいろんな人に会おうと思いました。経営者80名の朝活に行ってみたり、建設業の会の幹部メンバーで温泉旅行についていったり。いろんなセミナーに行って、今までとは全然違ったことをしてみました」

すると、思わぬいい結果が生まれた。そのときの、温泉旅行の出会いのおかげで大きな仕事に繋がったのだ。

「やはり思ったのは、類友で集っていてはダメだということ。出会いが助けてくれることも多いんですよね」

それは、自分以外のシングルマザーにも言えることかもしれない、と佐藤さん。

「自分の周りにいないような全然違う人に会いに行くなど、自分から行動することがとても大事だと思います。環境に対して自虐するのではなく、どんどん行動したら、新しい世界が広がってくるかもしれません。

私はシングルマザーで建築の専門学校卒業。大した学歴もなかったけれど起業できました。時間がない、おカネがないは当たり前。女の人の力はすごい、母は強いんです。もっともっとシングルマザーが頑張っていけば、偏見もなくなると思います」

「子どもがいなければ、やってはこられなかった」

佐藤さんは「子どもがいなければ、ここまでやってはこられなかった」と話す。

「自分だけで食べていくだけなら独立はしなかったでしょうし、頑張れなかったかもしれないですね」

現在は長女とも長男ともよく会話し、仲良く暮らすことができている。それは、一緒にいる時間は限られているが、忙しい中でも手を繋いで歩いたり、添い寝したり、一緒にご飯食べたりと、佐藤さんが子どもとのスキンシップやコミュニケーションを欠かさないよう努力し続けた結果だ。

「今では子どもたちが『ママみたいになりたい』と言ってくれるんです。うれしいですね」

さらに佐藤さんは、2017年11月に贈花専門店「Grande Grace」を創設、2018年4月には電気工事会社の山一電設工業で専務に就任した。今後は、飲食業に興味があるため、飲食にも介入していきたいし、自社の太陽光発電所も各地にたくさん作りたいという夢を持っている。

「最近、持病の難病認定が打ち切りになり、児童手当も打ち切りになりました。一生懸命やればやるほど、税金は上がり、手当はなくなります。逆にもっと頑張らなければ」

最後に、佐藤さんには「独立後、守り続けている4つのマイルール」があるそうなので教えてもらった。それは、「とにかくやり続けること」「イヤだと思うことこそ積極的にやること」「素直になること」「ポジティブになること」だ。

「この4つのルールは、すべてをいい方向に回すための秘訣だと自分では考えています。そして、目的と期間を決めて行動する。稼いだおカネは自分の好きな人や自分と一緒に仕事をしたい、と言ってくれる人のために使う。今後は経営者も人格者でないと勝ち抜いていけないと思います」