イベント会社を経営する平野貴裕(ひらのたかひろ)・35歳は、ほんの出来心から取引先の奈美子と不倫関係に。

すでに関係は解消していたが、別れ際に奈美子から渡された手紙が華に見つかってしまう

華から「奈美子に慰謝料を支払わせるか、そうでないなら離婚する」と迫られた貴裕は、苦肉の策で300万円を肩代わり。さらには高級時計までプレゼントさせられる。

それでも強硬な姿勢を崩さない華に辟易し、再び奈美子と密会してしまう貴裕。しかし華の一大事に妻の大切さを痛感し、奈美子との関係をLINEで一方的に解消する。

しかしその身勝手に奈美子は逆上。深夜の自宅に、地獄のコールが鳴り響く…。




「ご用件は何かしら。…わざわざ、こんな時間に」

静寂に、華の冷淡な声が響く。

青山一丁目のタワーマンション40階。月明かりと消えない街灯が華の横顔をぼんやりと映し出し、貴裕は妻の眼光に身震いをした。背中を、冷たい何かがツーッと伝っていく。

どうやら、電話の向こうで奈美子は無言を貫いているらしい。

勢いに任せてかけてはみたものの、華の微塵も動じない声に圧倒されてしまった、というところだろうか。

腕組みをした妻は苛立ちを隠そうともせず、わざと奈美子に届かせるように大げさなため息をついた。

そして貴裕をちらりと横目でみやると、耳を疑う提案を始めたのだ。

「まあ、こんな夜中に言い合いをしても仕方がないわ。お互い感情的になるだけ。明日、改めて会って話しましょう」

-ちょっと待て。会って、話す?

しかし慌てる貴裕のことなど、華はまったく無視。奈美子に待ち合わせ場所を指示すると、早々に電話を切ってしまうのだった。

「…華、奈美子に会うなら俺も行くよ」

恐る恐る申し出た貴裕を、華は当然のごとく一蹴する。

「いいわよ、来なくて」

「いや、でも」と食い下がる夫を、妻は思いっきり眉を顰めて突っぱねた。

「あのね、あなたが来ると余計ややこしいってわからない?こうなった以上、奈美子の対処はもう私に任せて頂戴」


ついに修羅場勃発!浮気相手の奈美子に、華はどう対峙するのか?


華:本妻の貫禄


-やっぱり、ね。

ザ ストリングス表参道『ゼルコヴァ』に現れた奈美子に、私が抱いた感想はそれだけだ。

巻かれていない肩下のストレートヘアは、ナチュラルというより手抜きを感じる。ネイルもお粗末だし、メイクの完成度も低い。

花柄のワンピース姿は精一杯の若さ&華やかさをアピールしたものと見受けられるが、量産品によくある形のそれは、見るからに安いポリエステル素材で垢抜けない。

そして何より、彼女の目だ。

自信なさげに揺れており、強い意思がない。本人に自覚はないのだろうが、こういう女を男は上手に嗅ぎ分ける。そして、二番手に使うのだ。

だいたい会社帰りとはいえ、不倫相手の妻に面会するという、女としてここ一番の気合をいれるべき場面でコレなのだから普段が思いやられる。




「初めまして。平野の妻です」

おどおどした様子で着席する奈美子に、私は左手薬指の大粒ダイヤがよく見えるよう、わざとゆっくり前髪をかきあげてやった。

とはいえ威嚇するまでもなく、奈美子は私の敵ではない。

そんなことは、貴裕が彼女を「この世にいない」などと勝手に抹殺したときにわかっている。要は貴裕にとって奈美子など、妻の前では死んだことになってしまう程度の女なのだから。

その時点で、私の中から「離婚」の選択肢は消えた。

金を稼ぐ男が浮気をするのは世の常だ。それなのに一度や二度のお遊びで離婚していたら、東京で結婚生活なんぞ維持できない。

しかしながら私を蔑ろにする行為には目を瞑れない。百歩譲って浮気は許せても、手紙をバッグにしまったままにしておく、その詰めの甘さを許すわけにいかないのだ。

300万円の慰謝料を請求したのも、ショパールの時計を買わせたのも、別に金目のものが欲しかったわけじゃない。

すべては、貴裕にお灸をすえるため。

男という生き物のしつけは犬と同じで、いくら言葉で説いても意味をなさない。その場で痛い目に合わせておくのが最も効果的だから、そうしたまでである。

実際、その効果はてきめんで(私が交通事故に遭うという事件も相重なり)、貴裕は以前にも増して私を大切に扱うようになった。

ゆえに、この女が大人しく引き下がってさえくれれば、こんな不毛な時間を費やす必要などなかった。しかし夜中に電話をよこすなどという愚行に及ばれては、黙っておけないのだ。

「うちのバカ夫がご迷惑をおかけして、本当にごめんなさいね」

黙って俯く奈美子に、私は最大限柔らかい声で謝罪した。

「どうせ最初に誘ったのは貴裕なんでしょう?私が代わりに謝罪するわ。だから、今日を限りに忘れてもらえないかしら。そう…交通事故に遭ったと思って。

あなたもしょうもない男に引っかかって運が悪かったわね。まあ、それは私も同じなんだけど」

自虐を交えながら、穏やかに奈美子を諭す。

妻としての余裕を見せれば引き下がるはず。そう思っていたのだが、しかし私は目の前に座るこの野暮ったい女のことを、少々舐めていたようだ。

それまで大人しく黙っていた奈美子だったが、何に触発されたのか、急に反論を開始したのだ。

「私は…貴裕さんのこと、しょうもない男だなんて思ってません。

自分の夫のことをそんな風に言うなんて信じられない。奥さんは貴裕さんのこと、本当に愛してるんですか?

貴裕さん、言ってました。奥さんはドSで全然優しくないって。家にいても心が休まらないって。貴裕さんが浮気してしまったのは、あなたの愛が足りないからじゃないんですか?

奥さんより私のほうが、貴裕さんのこと…」

「夫を愛しているかなんて、あなたに聞かれる筋合いない」

調子に乗って語り出す奈美子を、私はぴしゃり、と遮った。

貴裕が自分のことを「ドS」だの「優しくない」だの愚痴っていたというくだりには思わず頭に血が上ったが、ここは冷静に対処せねば。

相手は、自分の置かれた立場もわきまえず勘違いをしているただの小娘なのだ。


しゃしゃり出る奈美子に華が語る、夫婦の愛とは。


私は迷いつつも「そもそも」と切り出した。

奈美子に本音を話すつもりなどなかった。しかし思いがけず抵抗する彼女を納得させるには、言っておくしかない。

「あなたの言う愛って何なの?」

私の問いに、奈美子は「それは…」と言葉を詰まらせる。

「相手の間違いや弱さもすべて受け入れるような自己犠牲のこと?それとも見返りを期待しない、無償の愛?親子じゃないんだから続かないわよ、そんなの。

貴裕も私も完璧じゃない。弱いし間違いも犯す。ただの恋人同士だったら、我慢したり見ないフリもできるかもね。もしくはすぐに匙を投げることもできる。

だけど私たちは夫婦だから、一生を共にするパートナーだから、見過ごせないの。傷を舐め合う関係でもいられない。二人がよりよい生活を送るためには、間違いも正すし厳しいことだって言わなきゃならない。

それが、夫婦の愛。私たちはそうやってここまで来たの。…未婚のあなたにはわからないでしょうけど」

私が最後に挑発的なセリフを言ったものだから、奈美子は目に怒りを溜めている。

しかし何も言い返すせず黙って唇を噛む彼女を、私は射抜くように見据えた。

「とにかくこれ以上うちの夫に接触したら…次は容赦しませんから。あなたも身の程をわきまえなさい」

すべてを言い終えると、テキパキと会計を済ませて席を立った。

これだけ強く言っておけば、さすがの奈美子もこれ以上の愚行は慎むだろう。




一人になった私は表参道を早足で歩き、夜風が興奮でのぼせた頭を冷やすのを待った。

そうして平静を取り戻したところで、貴裕に電話をかける。

おそらく彼は今日、不安でほとんど仕事になっていないことだろう。きっと今も自宅でひとりソワソワとしているに違いなかった。

「終わったわよ。今から帰ります」

ワンコールで電話を取った貴裕は、事務的に告げる私に媚びるような声を出す。

「そうか、ありがとう。華、ご飯は?カレー作ったんだけど…」

…また、カレー。まったくそんな気分ではなかったが、彼に調子を合わせておくことにする。

「そうね、食べようかな」

夫との関係を、壊すわけにはいかない。私にとっても貴裕は必要な存在なのだ。

少なくとも今は、まだ。

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一難去って、また一難。奈美子問題が片付いたと思ったら、今度は華に男の影が…?