駐妻【ちゅうづま】―海外駐在員の妻。

数多の平凡な妻の中で、一際輝くステータス。それは期間限定のシンデレラタイム。 そして普通の女に与えられた「劇薬」。

共通点はただ一つ、夫について、海外で暮らしていること。

駐妻ワールド。そこは華麗なる世界か、堅牢なる牢獄か。

夫・彬の赴任に伴い、タイ・バンコクに来た里香子。駐妻たちのマウンティングに意気消沈しかけるも、バンコクで働く友人ケイと、同じく駐妻の雪乃に励まされる日々。

里香子は、念願の昇進を果たした夫・彬に言われた言葉がきっかけで、家を飛び出してしまう。そしてバッタリ会った駐妻仲間のさりげない優しさに触れるうちに、頑なで未熟だった自分の一面を自覚するのだった。

一方、友人の雪乃は、夫・仁志が「女連れで空港にいた」とケイからの目撃情報が入ったことをきっかけに、夫の女遊びを知ってしまう。

そしてその頃、独身のケイはー。




「ありがとうございました、またよろしくお願いしますね」

ケイは豪奢なスパのエントランスで、会社の車に乗り込む2人の駐妻を笑顔で見送った。

ドライバーで恋人のアナンは、ケイに嬉しそうに目配せしてから、後部座席のドアを慎重に閉める。そして小走りで運転席に戻ると車を発進させた。

以前、「私と付き合っていることは内緒に」とケイが言ったことを、アナンは忠実に守っているのだ。

特に、日本人向け情報誌の編集者であるケイが、読者モデルとして協力を仰いでいる駐妻たちには絶対に知られたくなかった。だから、どこかほっとしている。

そこには屈折した思いがあることを、ケイは最近自覚し始めていた。

―戻ってスパの記事、書かなきゃ。

エントランスにあるスタバでコーヒーを買うと、ホテルから徒歩圏内のオフィスに向かう。ちょうど帰社すると同時に、スコールが降り始めた。

排水機能が弱いバンコクは、激しい雨が数日続くと街が水没してしまう。煌びやかで近代的なショッピングモールが乱立する中で、インフラのレベルはまだまだ日本には遠く及ばない。

そのアンバランスさが、この国の光と影を象徴しているように思う。暮らす者にとって、楽園であると同時に、戦う場所。


「私は駐妻になれなかった」独身ケイの胸の内とは?


夫に、家庭に、会社に守られている女たち。道はどこで別れた?


ケイは学生時代から、出版社の編集職を希望していた。しかし大手3社はどこも2次で落ちた。

頭脳と文章力には自信を持って生きてきたが、宝くじ並と言われる大手出版社の激戦を突破できるほどの才覚や個性はないのだと、自覚した。

結局グルメ情報をおもに扱う小さな出版社に何とか潜り込み、2年が経った頃、知人のツテで、バンコクの情報誌の会社が社員を募集しているので受けないかという話が舞い込んだのだ。

しかし、思い切って単身バンコクに飛び込んだケイの前に立ちはだかったのは、思わぬ「敵」だった。

「私、タイのことは何もわからなくて。家事もメイドさん任せだし、家の中さえも何がどうなってるのかわからないの」

取材で会う駐在員の妻たちは、悪びれもせずに、ケイにそう言った。

いつもエレガントで、華奢な靴を履き、美しく装って運転手に連れて来られる女たち。




自分では電話ひとつかけられないと臆面もなく口にする。それほど夫に、家庭に、会社に守られているのだと、突きつけてくる。

そんな時ケイは思うのだ。

―この女たちと、自分は、どこで道が別れたのだろう?

ほんの数年前まで、ケイと彼女たちの立場は同じであった。むしろケイの歴代のつきあった男を考えれば、駐妻に近いのはケイだったはずだ。

それが今はどうだろう。希望の仕事で自活しているとは言え、貯蓄もままならないまま、女として大事な若さを浪費している。

いずれ日本に帰るのか、そしてその後はどのように生きていくのか。

それを考えると、暗澹たる気持ちになる。

そして最も焦りを感じるのは、心のどこかで馬鹿にしていた駐妻たちが、献身的に夫を支え、子どもを育てながら困難を解決していくうちに、自分よりよほど成熟していく様を目にしたときだった。

そんな時は、決まって恋人のアナンに会うことで不安を紛らわせてきたのだ。


タイで独身のままキャリアを積む?迷えるケイに予想外の訪問客


「里香子はいません。ケイさんに、ご相談があります」


アナンはバンコクから遠い田舎の出身で、大学で日本語を勉強し、ケイの会社で働いている。人懐こい優しい男で、タイの男には珍しく非常に勤勉だった。

高くはないドライバーの給料を、せっせと母親や歳の離れた弟に送金する真面目な人柄に好意を持った。

職場で出会って1年が経った頃に交際を申し込まれたとき、自分でも驚くほど嬉しかったことを覚えている。

―それなのに、付き合ってることを誰にも言うな、なんて、私本当に最低だな。




ケイは自分に失望する。

「現地の社用車ドライバー」と付き合っているのが恥ずかしい、知られたくないと、思っていた。

自分は「あちら側」の人間で、今はちょっとした気まぐれで年下のタイボーイと付き合っているけれど、いつかは定位置に戻るのだ、と。

そうやって自分の心にウソをついてきた。屈折は知らぬ間に大きくなった。

そういう自分が、雪乃を傷つけてしまったのだ。

雪乃の夫が、空港でタイ人の女を連れているのを見たとき、頭に血が上って即座に電話した。

しかし冷静に考えれば黙っているという選択肢だってあったはずなのに、密告したのは100%友情からだったのか。

そこには、妻として守られてここにいる雪乃を妬ましく思う気持ちはなかったか。

「知らぬが仏でよかったのに」と叫んだ雪乃。雪乃を傷つけたのは、自分だ。彼女があれほど努力して、せっかく手に入れた夢を、生活を、自分の軽率な行動がバラバラに打ち砕いてしまったのだ。

「自分の長所を活用して結婚し、駐妻として豊かな生活を手に入れる」という夢に向かって真剣に努力した雪乃が、その夢を叶えるのは当然だ。

最初からそういう憧れを直視せずに、「私は違う」とうそぶいていた自分。願いを正直に口にして行動した雪乃に嫉妬するなんて、お門違いもはなはだしい。

雪乃も、里香子も、大好きなのに。

あれほど自分の中で確かだった友情が、立場が変わったくらいで、揺らぐのか。

思わずデスクで頭を抱えたケイに、編集部の受付から内線が入った。

「お客様です、お約束ではないとのことですが。徳永彬様という方です」

―里香子のご主人の、彬さん?

応接スペースに通してもらうと、足早に階下に向かう。

ドアを開けると、そこに立っていたのは、紛れもない里香子の夫であった。

「ケイさん、里香子がいつもお世話になっています。お仕事中に、突然申し訳ありません。あの…もしも、お時間が許せば、お昼ご一緒させていただけませんか」

「え?ええ…構いませんけれど…あの、里香子は?一緒じゃないんですか?」

目をしばたたかせるケイに、彬が子供のように首を振った。

「いいえ、里香子はいません。僕がケイさんにご相談したいことがあって参りました」

彬の表情は固い。ケイが知る限り、ランチタイムとは言え、彬は職場にアポなしで押しかけてくるような男ではない。よほどのことだと感じた。

さっきまでの暗い思考を無理矢理頭の隅に押しやり、とにかく話を聞こうと、ケイは彬を促して立ち上がった。

▶NEXT:7月12日 木曜更新予定
彬が明かす、衝撃の胸の内。そしてケイへの思いがけない言葉とは?