立命館大学を卒業後、ゲーム機器メーカーの京都本社に勤める一ツ橋紀夫(ひとつばし・のりお)は正真正銘の庶民。

“普通”で平凡な日々を送る紀夫だったが、食事会でどこか謎に包まれた美女・萬田樹里(まんだ・じゅり)と出会う

翌朝、樹里から思いがけず「ふたりで会いたい」とLINEが届き、琵琶湖ドライブに出かけた二人は急速に距離を縮めるものの「家まで送る」という紀夫を、樹里は頑なに拒否。

脈ナシだと落ち込む紀夫だったが、樹里から再びデートの誘いが。しかもディナーの途中で樹里から「この後、家に行ってもいい?」と聞かれ…。




「散らかっててごめん」
「そこのソ、ソファにでも座って」

沈黙を恐れるあまり、紀夫は頭に浮かんだ言葉を次々と喋った。

思う以上に樹里の存在は大きくて、自分の家のはずなのにまったくもって落ち着かないのだ。

京都駅からさらに南、竹田駅から徒歩3分の場所に紀夫の家はある。樹里は「ここ、初めて降りた」と言ったが、それもそうだろうと頷ける。

紀夫がここに住んでいるのには理由がある(勤め先に近い&実家の奈良に帰りやすい)が、御所南で暮らす樹里がわざわざ来る場所ではない。

勧められるがまま、そっとソファに腰を下ろす樹里。

違和感しか感じないその光景を眺めながら、紀夫はあることを確認するべく彼女に問いかけた。

「でも大丈夫なん?その…遅くなって家族は心配しない?」

「うん…。今日は、夏子の家に泊まるって言ってあるから」

樹里の答えに、紀夫はごくり、と唾を飲み込む。

「そっか」と小さく呟くと、紀夫はまた沈黙を埋めるように口を動かすのだった。

「お、お茶でもとってくる」

そう言って背を向けた紀夫に、樹里が突然、思い切ったような大きな声を出した。

「あ…あの!私、紀夫さんに話したいことが…」


樹里が話したいこととは。謎に包まれた彼女の素性が明らかに。


樹里の告白


「私、紀夫さんが好きです」

樹里はもう一度そう言って、紀夫をまっすぐに見上げた。

リビングに置かれた黒い革張りのソファ。その右端にちょこん、とおさまる樹里は華奢で、小さくて。紀夫の目に、無条件に守るべき存在に映る。

「俺も…好きだよ」

さっきは言えなかった言葉を、今度は口にした。

不思議なもので「好き」と声に出した瞬間、それまでぼんやりとしていた感情が急に象られはじめる。

樹里のことが、好きだ。

湧き上がる感情は、紀夫の胸をじんわりと温めていく。

しかしそんな紀夫と対照的に、樹里はなぜかみるみると表情を曇らせるのだった。




「だけど…私、許婚がいるの」

「…え?」

今、なんて?

樹里の口から出た言葉はまったく予想外で、紀夫はすぐにその意味を理解することができない。

そもそも「許婚」というワード自体、一般庶民の紀夫の人生には登場したことがないのだ。

「いいな…ずけ?」

衝撃のあまりカタコトになって問い返す紀夫に、樹里はこくり、と頷く。そして彼女は、自身が置かれている境遇をぽつりぽつり、と語り始めた。

樹里の話をまとめると、つまりこういうことだった。

まず彼女の実家は、京都人だけでなくおそらく全国区で知られている老舗和菓子屋。その名はあまりにも有名で、紀夫は聞いた瞬間に「ひぇ?」と変な声が出たほどだ。

しかし樹里は一人娘である故、萬田家は婿養子をとる必要がある。

そこで、父親同士が学生時代からの親友で、家族ぐるみで仲が良かった老舗味噌屋の次男と結婚することが、幼い頃から決まっていたというのだ。

時は21世紀、平成ももう終わろうというこの時代の話とは到底思えないが、名家のご子息・ご令嬢たちにとっての結婚は、未だに「家」同士のものらしい。

「でも私、はっきり断ったの。その人…貴志くんって言うんやけど、貴志くんのことはもちろん嫌いじゃない。でも、どうしても男性としては見れへんから」

二人が24歳のとき、正式に縁談が進むことになったという。

樹里には当時付き合っている人がいたが、当然のごとく両親の猛反対により別れさせられた。

そのことに対する反発もあって、樹里は、無理やり連れてこられた両家そろっての食事会の場ではっきりと拒絶の意思を伝えたらしい。

しかし事が複雑だったのは、相手の男・貴志が樹里に執着したのである。

彼は、親が決めた事だからではなく心から、樹里との結婚を望んでいたのだ。

「30歳まで独身だったら、僕と結婚しよう」

貴志の提案に、樹里はその場逃れのつもりで頷いた。24歳の樹里にとっては、30歳なんてうんと先の未来だったのだ。

しかしあっという間に時は流れ、樹里は現在29歳。

もちろんその間に、いくつかの恋愛をしたという。しかしそのいずれも、相手が樹里の両親に怯んでしまったり、逆に自分から冷めてしまったりして結婚に至る事はなかった。

そうして、同じく未だ独身だった貴志との縁談が、再び動き始めてしまったというのである。

「ごめんなさい、こんないきなり…重たい話して」

「うん。ああ、いや、そんな事は…」

樹里の手前そう答えてはみたものの、正直なところ、紀夫の脳内ではすでに危険信号が点滅していた。

樹里が話す内容はまるでどこか遠い国の出来事のようで、紀夫にはまったくピンとこない。

それはつまり、紀夫と樹里は住む世界が違うということ。そんなふたりの恋がうまくいくなんて…現実にあり得るだろうか?


樹里は京都の名家のご令嬢だったことが判明。及び腰になる紀夫だったが、樹里は意外にも積極的で…


しかし及び腰になった紀夫の心を、樹里は離してくれなかった。

「紀夫さんは、そばにいてくれる…?」

いつのまにか彼女はすぐ近くにいて、華奢な腕を紀夫の腰に回したのだ。

ワイシャツの上からでも感じる、樹里の体温、柔らかさ。紀夫の反応を伺うように顔を覗き込む、潤んだ瞳。

それらに抗うことなど、できるわけがなかった。




偶然の再会


樹里は結局、翌日の昼まで紀夫の部屋にいた。

初対面ではどこか浮世離れしたようなつかみ所のなさを感じていたが、紀夫の腕の中で幸せそうに笑う彼女はごくごく普通の女の子。

彼女がやんごとなき家のご令嬢だなんて、言われなければすっかり忘れてしまいそうだ。

ふたりで寝るには決して広くないベッドで微睡んでいると、お腹が空いたのだろう、樹里が突然に『ル・プチメック』のパンが食べたい、と言い出した。

パン屋なら近くにもあると一応申し出てみたが、どうしても『ル・プチメック』でないとダメだという。

「女って、パンにこだわるよなぁ」

思わずそう呟いたのは、以前にも同じようなことがあったからだ。

そう、一二三薫も、『ル・プチメック』のパンが大好物だった。…もちろんそんなこと、口には出さなかったが。

しかしふいにそんな事を思い出したのは、もしかしたら“虫の知らせ”というやつだったのかもしれない。

結局、樹里を見送りがてら、ふたりで烏丸御池の店舗に立ち寄った。

テラス席で食べようか、などと話しながらパンを選ぶ。

樹里は家にも買って帰ると言い、次から次へと慣れた様子でトレイにパンを山盛りにしている。

楽しそうな彼女を微笑ましく眺めていた、その時だった。

「もしかして…紀夫?」

ふいに名を呼ばれ、振り返る。

そこに立っていたのは、まったく予想もしていない顔だった。

「薫…!」

一二三薫はかけていたサングラスを頭へとずらし、満面の笑みで紀夫に手を振っている。

さすがは人気絶頂のアナウンサー。彼女の笑顔は無条件に心を華やがせた。

「すごーい♡すごい偶然!運命的!」

興奮気味に駆け寄り、無邪気に手を合わせてくる薫。

それは、彼女が紀夫を置いて上京して以来…実に3年ぶりの再会だった。

▶NEXT:7月7日 土曜更新予定
東京にいるはずの薫が、どうしてここに?こんがらかっていく、三者の関係…