駐妻【ちゅうづま】―海外駐在員の妻。

数多の平凡な妻の中で、一際輝くステータス。それは期間限定のシンデレラタイム。 そして普通の女に与えられた「劇薬」。

共通点はただ一つ、夫について、海外で暮らしていること。

駐妻ワールド。そこは華麗なる世界か、堅牢なる牢獄か。

夫・彬の赴任に伴い、タイ・バンコクに来た里香子。駐妻たちのマウンティングに意気消沈しかけ、会社の奥様会でも違和感を覚えるが、バンコクで働く友人ケイと、同じく駐妻の雪乃に励まされる日々。

一方、友人の雪乃は、夫・仁志が「女連れで空港にいた」とケイからの目撃情報が入ったことをきっかけに、夫の女遊びを知ってしまうのだった。

そして里香子も、念願の昇進を果たした夫・彬に言われた言葉がきっかけで、ついに抑えていた感情があふれ出す―。




「私は、友達もキャリアも全部東京に置いてきたのよ、前と同じでいられなくて当たり前じゃない…!」

気がついたときには、里香子は声を荒げ、そう口走っていた。

昇進の報告とともに彬の口から放たれた、「東京にいた頃みたいに頑張れ」という言葉。その無神経な一言に、里香子の自制心は軋みはじめていたのだ。

「里香子…?」

「わかってる、視野が狭いっていいたいんでしょ。でも仕方ないの、今はこの狭い世界に、私は住んでるの」

バンコクに着いてからの、たいしたことない、相談するほどではないと、心に押し込んできた不安やストレスが、急速に形を成していた。

「里香子。落ち着こう」

彬は小さい子をなだめるように、里香子の両肩に手を置いた。

「話を訊くから、整理しよう。今里香子が怒ってるのは、俺のこと?それとも奥様会で何かあったの?」

こんな時まで冷静沈着な彬。里香子はそれが、かえって自分と夫の心の乖離のようで、悲しかった。

「あなたのことよ。いつも上から目線で、頑張れとか、ああしろこうしろ、机上の空論。いいわよね、自分はバンコクに来たって自分の土俵で勝負できて。

私なんて手持ちの武器は全部取り上げられて、こんなとこに放り込まれて、それで前みたいに頑張れ?冗談じゃないわよ」

「上から目線?俺が?」

彬が心底驚いているのが、声音で分かった。


止まらない里香子に、彬が放った衝撃の一言とは?


「上から目線なのは、里香子だ」


これ以上は言い過ぎだ。なんの予兆も冷静さもなくこんな風に口論になることを、彬は一番嫌う。

相手に対する意見や要望は、もっと小出しに理性的にするべきだと思っている男だ。わかっているのに里香子は止まらなかった。

「そうよ、上から目線。正論やトンチンカンなアドバイスして私を追い詰めて、楽しい?もっと他に言うことないの?『里香子、ついてきてくれてありがとう』でしょ、『俺のせいで苦労をかけてごめんね』って労うとこでしょ」

「…!?俺、言ったよね?ついてきてくれて嬉しいって、最初にウチで夕飯を里香子と食べたとき」

「その10倍ダメ出ししてるもん!」

里香子はついにこらえていた涙がばたばたと落ちるのを感じていた。

そうだ、自分は、彬に言ってほしかったのだ。

この状況は、里香子には辛いね、と。

他の誰でもなく、里香子をもっとも理解してくれているはずの彬に。

そして全部置いてこんなところについてくるほど、好きな夫に。

「これまでの人生を必死で積み上げてきた里香子だからこそ、ゼロからは大変だね」と。

涙でぐしゃぐしゃになった顔を必死で拭う。彬は、ずいぶんと黙り込んだままだ。

やがて、怒りを含んだ声で言った。

「上から目線なのは里香子だ」




「…は?」

あまりに思いがけない言葉に、里香子は顔を上げて彬の顔を見る。

薄い唇、整った顎の線。駐妻たちの誰に言われなくても、彬の顔が整っていることは、里香子が誰よりも一番よく知っていた。

「里香子が会社員を辞めても、里香子の本質には何も関係ない。俺にとっては大好きな里香子だ。それなのに勝手に卑屈になって、言いたいこと隠して。俺がいつでも里香子より下だったら満足?」

「そんなこと言ってない…!」

「言ってるよ。こんな俺にアドバイスなんてされたくないって。どっちかが上から目線の時があってもいいじゃないか、パートナーなんだ。人生、良い時と悪い時のサイクルが全く一致するなんてありえない」

里香子は、呆然と彬の顔を見た。口下手な彼が、こんなにも反論してくることに驚いていた。そして、核心を突いたその言葉にも。

「主婦の世界が狭いなんて、俺は一度も言ってない。駐在員の奥さんを見下してるのは、里香子だ」


彬の核心を突いた、衝撃の言葉が里香子を揺さぶる


予想もしなかった、味方が登場!?


バンコクの夜の空気はまだぬるく、湿度が高い。そして活気が衰えない。部屋を飛び出した里香子はぼんやりと歩道を歩いていた。

―私…みんなを見下してた…?それに無意識に、彬なんかにアドバイスされたくないって思ってたの…?

ぐるぐるする思考を遮ったのは、突然耳元で聞こえてきたウィスパーボイスだ。

「り、か、こ、さーん!お久しぶり。…ちょっと、どうしたの?そのお顔」

振り返ると、タイ語教室で一緒だったアリサとカナだった。とっさに、奥様会で「あの人何を考えているかわからない」と影で言われたことを思い出し、気まずくて泣き顔を逸らした。

「…私たち、いまからすぐそこのタイマッサージに行くんだけど、里香子さんもどう?60分でたったの200バーツ!そのかわりローカルのお店だからアクロバティックにバキバキやられるわよ〜」

え?え?と戸惑う里香子の両脇を、アリサとカナは楽しげに固めて、そのまま店に入っていく。




「あああ〜すっきりした!ここのタイマッサージ、もはや組体操だけど、終わったあとは最高!」

マッサージ店で出されたジャスミンティーをソファですすりながら、3人は心地よい脱力感に身を任せていた。

「今日はね、私たちの子供達、日本人学校の修学旅行でチェンマイに行ってるの。タイ航空のチャーター機で、道路はパトカーの先導エスコート付で渋滞知らず。羨ましいくらいよね」

「だからこうして、珍しく夜遊びしてるの」

アリサとカナがにこにこしながら言う。お店の気楽な雰囲気のせいか、タイ語教室や奥様会で会うときと違ってとても身近な感じがした。

「二人とも小学生のお子さんがいらしたなんて。いつもエレガントだし、あちこち行ってるし、想像してませんでした」

マッサージでだいぶ落ち着きを取り戻した里香子は、お茶をすすりながら素直につぶやく。

ばったり会った時、泣き顔を見たはずなのに、それについて触れない2人の優しさを感じながら。

「子どもの話つまんないかなと思って。里香子さん聞き役が多いから。…でも、子どもがいると情報交換で仲良くなるけど、そうじゃなかったら個人的に話すきっかけないわよね」

アリサが気を遣ってくれていたとは…。何を考えているかわからないと言ったのも、自分の話をしないことをもどかしく思っていたのだろうか。カナも大きくうなずく。

「たしかに。居場所がなくて最初は寂しいですよね。私、タイ語以外に英語とフランス語も習ってるんだけど、里香子さんもどう?ビジネスコースは帰国後の就職のために勉強してる人も多くて、刺激をもらえますよ」

里香子は、店で出されたタイの微妙な味のお菓子をぽいぽい口に放り込むアリサとカナの様子に、頑なだった心が不意に緩むのを感じた。

もっとタフにならなくては。

「東京にいた頃の自分」に縛られてはだめだ。

海外暮らしがきっかけで、大人だと思っていた自分の未熟さに直面した。それはよくあることなんだ。成長しそびれていた部分は誰にでもある。

どうして自分にだけ、それが起こらないと思っていたのだろう。それこそが傲慢だったのだ。

里香子は新しい友達の前で、初めて本当に笑った。

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それぞれの夫婦は、難局を乗り越えられるのか?それを見つめる独身・ケイは?