青山でイベントプロデュース会社を経営する、平野貴裕(ひらのたかひろ)・35歳は、ほんの出来心から取引先の奈美子と不倫関係に。

すでに関係は解消していたが、別れ際に奈美子から渡された手紙が華に見つかってしまう

キレた妻・華は即座に浮気相手を特定し、奈美子に慰謝料を請求。

勘弁してほしいと懇願するも、華から「奈美子に慰謝料を支払わせるか、そうでないなら離婚する」と迫られ、貴裕は渋々300万円を肩代わりする。

さらには300万円の高級時計までプレゼントさせられたにも関わらず、華は強硬な姿勢を崩さない。

我慢の限界に達した貴裕は、家に帰らずホテル住まいを開始。

そこに再び奈美子が現れホテルのバーで密会するが、そこに華の緊急事態を知らせる電話が入る。




病室にて


無我夢中で病室にたどり着いたとき、貴裕の足は情けないほどに震えていた。

-もし万が一、華に何かあったら…。

どうにか間に合った長野行き最終新幹線“あさま”の中でも、貴裕は延々と浮かぶ悪い想像を繰り返し繰り返し打ち消した。それはもう、息をするのも忘れるほど必死で。

自分にとって、華の存在がどれだけ大切でかけがえのないものであるかを痛感する。

そんなこと、頭ではずっと理解していたはずなのに…。

「華…」

薄暗がりの中を一歩、二歩と進み、貴裕はベッドの上に横たわる人影に向かって呼びかけた。

ゆっくりと頭がこちらに動き、華の目が自分を捉える。

「貴裕…来てくれたの」

そう呟く華の声はとてもとてもか細く掠れていて、貴裕は胸がぎゅっと締め付けられる思いがした。

「当たり前だろ…ごめん。本当に、ごめん。ひとりにして悪かった」

ベッドに力なく置かれた手を、握りしめる。

その手は驚くほど冷たく、貴裕は華を温めるためならば自分の体温をすべてあげてもいいとさえ思った。

「ありがとう」

そう言って、静かに微笑む華。

ぎごちない笑顔ではあったが、それでも貴裕の心を救うには十分だった。

華のことは、俺が守る。絶対に。

妻の白く美しい横顔を眺めながら、貴裕はその夜、何度も何度もそう誓った。


この予想外の事故が、壊れた絆をふたたび結びつける…?


華が事故を起こしたのは、軽井沢の追分別荘地だという。

道に迷ってしまった華が道路脇に車を止めていたところ、それに気づかず走行していたワゴン車が後ろから衝突。

双方の車の衝突部は大きく凹み、運転していた2人ともが衝撃で頭や首、腕に打撲を負った。

医師の説明によると幸い両者ともに怪我は大事に至っていないそうで、念のため精密検査をしてもらうが、そのあとは家に戻って良いという話だった。

貴裕はその日のアポイントをすべてリスケして病院に残り、看護師に感心されるほど甲斐甲斐しく華に付き添った。

コンビニで妻の好きそうな雑誌を買いあさり、ヨーグルトが食べたいと言われれば売店に走って、どれが良いのかわからず5種類すべてを買って戻ったら華に呆れられた。




「そういえば、華はどうして軽井沢にいたの?」

指示された検査をすべて終えたあと退院の支度をしながら、ようやく貴裕はそれを尋ねた。

そのほかの出来事があまりに衝撃的だったのと、華が落ち着きを取り戻してからと思っていたらタイミングを逸してしまったのだ。

「え?ああ…それは、昔お世話になった方の別荘にお邪魔する予定だったの。久しぶりに連絡したら、いい季節だからおいでよって話になって」

そう答える華は、珍しく歯切れが悪い。

「ふーん…知り合いって、誰?」

疑うつもりはなかったが、いまいち釈然としない。しかし怪訝な目を向ける貴裕の質問に、華は逆質問で返してきた。

「あなたは、私が傷ついてないとでも思ってるの?」

絞り出すような声を出し、華は苦しげに顔を歪める。そして今度は、ポロポロと大粒の涙を流し始めるのだった。

「今回のことで私がどれだけ傷ついているか、狼狽えているか…ひとりで家にいると、おかしくなりそうだった。それで軽井沢にでも行こうって…。

そう、だからこんな事故に遭ったのだって、元を正せば全部あなたのせいなのよ…」

こぼれ落ちる涙を拭おうとも、泣き顔を隠そうともせず、華はまるで子どものように泣き喚いた。

浮気発覚以来、彼女が泣くのはこれが初めてだ。

手紙が見つかった夜も、そのあともずっと、華は一貫して強気の姿勢を崩さなかった。いつもと変わらず凛とした振る舞いを続けていた。

しかし予想外の事故に遭い、馴染みのない病室で、おそらく張り詰めていた緊張の糸が切れてしまったのだろう。

「わわ、わかったから。そんなに泣かないでくれ…本当に悪かった。

今回のことで、俺も華の大切さに改めて気が付いた。俺、頑張るよ。華の信頼を取り戻せるように、できることはなんだってやる。約束する。だから…」

恐る恐る、華に近づく。そしてそっと、震える肩を抱き寄せた。

貴裕の胸の中で、華はまだ泣いている。熱い涙がシャツを濡らしたが、それすらも愛おしい、と思った。

「華。一緒に、家に帰ろう」


交通事故のおかげ?で愛を再確認した華と貴裕。しかし自宅に戻ったふたりを待ち受ける、不穏な影が…


久しぶりに戻った我が家の快適さに、貴裕は大げさながら感動すら覚えていた。

芍薬が飾られた玄関、美しく整頓されたリビング、華のセレクトで買い揃えたイタリア製の高級家具たち、いい香りのする寝室…。

週に1度ハウスクリーニングを入れていることもあるが、ラグジュアリーかつモダンな空間を作り上げ維持しているのは、間違いなく華のセンスの良さである。

他の女では、きっとこうはいかない。

いっときの気の迷いでこれらを手放すなんて…どう考えてもバカらしい。

安いビジネスホテル生活から解放された貴裕は、この家で華ともう一度やり直せるならなんだってしよう、という気持ちになるのだった。

「よし!今夜は俺が料理するよ」

勢いで申し出ると、華は呆れた表情で貴裕を振り返った。しかしその目は、これまでと違って柔らかく、優しい。

「別にいいわよ…だって貴裕、料理なんかしたことないじゃない」

笑いながらキッチンに向かおうとする華を、貴裕は強引にソファに連れ戻した。

「大丈夫。華はまだ本調子じゃないんだから、ゆっくり休んでてよ。俺だってカレーくらいなら作れるんだ」

自信満々に言ってはみたが、作り方は知らない。まあでもそんなもの、カレールウの箱の裏にでも書いてあるだろう。

華は「私、カレーって気分じゃないんだけど…」なんて言いながら、どこか嬉しそうだ。

貴裕と華は、ようやくささやかな幸せを取り戻した…かに見えた。




不穏な影


RRRR….

ダイニングテーブルに置いた貴裕のスマホが、けたたましい音を立てた。

-マズイ。

こういう時の予感というのは、たいてい当たる。

貴裕は動揺をひた隠し、さりげないそぶりでスマホを取りに行く。

後頭部に、華の刺すような視線をヒリヒリと感じる。

画面に表示された名前を確認した貴裕は、華に聞こえるように平然と「取引先だ」と呟き、そっと音量をオフにした。

「…出なくていいの?」

静かに問いかける華を、貴裕は満面の笑みで振り返る。

「ああ、明日の朝かければ平気だから。…俺、ちょっと材料の買い出ししてくるよ」

スマホと財布だけを持って家を出た貴裕はすぐ、先ほど電話をかけてきた相手…奈美子に、LINEを送った。

“悪いけど、もう連絡しないでほしい”

そしてメッセージが既読になったのを確認すると、貴裕はすぐに奈美子をブロックした。

せっかく、ようやく取り戻した夫婦の絆を、二度と邪魔されたくはない。

身勝手なのは承知だが、絶妙な間の悪さで連絡をよこしたことも、貴裕をイラつかせていた。

数日前は癒しに感じた奈美子の安っぽさに、今となっては嫌悪すら抱く。

しかし結論から言うと、貴裕は甘く見ていたと言わざるを得ない。

…女という生き物の、本当の怖さを。

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まさか…あの従順だった奈美子が、とんでもない行動に!?