三大エンタテインメントを挙げるとしたら、なんだろうか? 手島昭一さん(45)の場合は舞台、プロレス、映画だという。もっとも手島さんは、それらを鑑賞するだけでなく、生涯の仕事として役者、舞台制作のプロデューサー、そしてプロレスのレフェリーの三役をこなしている。

「プロレスのレフェリーってあまりいないですよね。プロレスと関係が出来たきっかけは、20代後半から役者として体を鍛えるために、格闘技ジムに通っていたことですね。

 そこでこれから旗揚げする団体のレスラーから、リングアナウンサーをやってもらえないかと頼まれました。彼は、僕が役者だということを知っていましたので」

 リングアナからレフェリーへの転身には、手島さんの役者としての仕事が絡む。

「リングアナを1年やったときに、レフェリー役の映画のオーディションがありました。受けてみないかと言われて受けたら、惨敗でした」

 手島さんは山口県周南市の出身。プロレスラー・長州力の出身地でもある。小さいころから応援していて、プロレスはずっと観てきた。ところが見ていたのは選手だけで、レフェリーは見ていなかった。

「どう動いたらいいのか全然わからなくて、悔しくて、悔しくて。こんな思いは二度としたくないので、リングアナをしていた団体に、レフェリーをやらせてほしいとお願いしました」

 レフェリーネームは “てっしー手島”。いまは裏方以外の仕事ではこの名を使っている。

 ところで人によっては、レフェリーの技量で試合内容の4割が決まるという。プロレスはエンタテインメントであり、レフェリーには試合の流れを切らず、盛り上げていく演出家のような役割が課せられている。

「プロレスには、ロープに飛ばされたら、ロープの反動で戻ってくるというような独特の動きがあります。それと同じような動きがレフェリーにもあると思います。

 ルールの範囲内で、反則ギリギリのところまで攻めさせる “引き立て役” にならなければいけない。引き立てすぎてしまったら、それはもうレフェリーとはいえない。その匙加減、バランスが大切です」

 40代になり、二度の転機を迎えた。一度めは40歳のとき。旗揚げされたプロレス団体「HEAT‐UP(ヒートアップ)」に参加したことだ。創立者はかつて、リングアナにならないかと声をかけてきた田村和宏さん。

「彼が新団体を立ち上げるときに、一緒に来てくれないかと誘ってくれた。プロレスはもちろん好きですが、今の心の中では、田村がやるプロレスが好きという比重のほうが大きい」

 田村さんは “無謀を希望に変える” をコンセプトに活動してきた。6月23日に「カルッツかわさき」(3000人)、10月には「とどろきアリーナ」(6500人)で試合をおこなう。小さな団体がおこなう規模ではない。興行の成否は観客数にかかっている。

 それだけに関係者は営業に必死だ。また、ヒートアップはプロレスを通じた社会貢献を掲げている。

「団体では月イチで社会貢献キャラバンをおこなっていますし、興行日には障害者の方々を募集し、会場で平均より高い時給で軽い仕事をしていただいています」

 次の転機は42歳のときだ。劇団主宰者・太田勝さんの演出が好きになり「猿芝居」に入団。劇団員になるという夢をかなえた。裏方として活動し、来る7月には、自らが共同プロデュースする舞台『たからモノ』を山口県の柳井、周南両市で公演する。

 周南市には戦時の人間魚雷「回天」の基地があり、出撃した地として知られる。「回天」にまつわる若者や家族の話だ。

「この芝居に有名な役者は一人も出ません。だからこそ、お客様に家族や友への等身大の愛が直接伝わると思っています」

 両会場とも1000人を優に超える規模だ。地元に帰っては仲間や市民の協力を仰ぎ、営業に励んでいる。“無謀を希望に変える” 公演になることを期待したい。

(週刊FLASH 2018年7月3日号)