西武新宿線のターミナルである西武新宿駅は新宿の中心から北に離れた場所にあり、JR線などが乗り入れている新宿駅からの乗り換えには時間がかかります。西武はなぜ新宿駅にターミナルを設置しなかったのでしょうか。

中央本線の「支線」が都心乗り入れ目指した

 利用者の人数が世界一とされている新宿駅。JRの中央本線と山手線を中心に東京メトロと都営地下鉄が乗り入れていて、京王電鉄や小田急電鉄もJRの新宿駅に隣接してターミナルを設けています。


西武新宿駅で発車を待つ列車。行き止まりの線路をあと400m伸ばせば新宿駅に乗り入れられるが……(2015年9月、草町義和撮影)。

 ただし、西武鉄道が運営する新宿線のターミナル・西武新宿駅は、新宿駅から北へ約400mのところにあります。新宿駅から西武新宿駅まで歩いて乗り換える場合、少なくとも10分程度は見ておく必要があるでしょう。なぜ西武は新宿駅から離れた場所にターミナルを設けたのでしょうか。

 西武新宿線の起源は、1894(明治27)年から1895(明治28)年にかけ、国分寺〜川越(現在の本川越)間に開業した川越鉄道です。南側の国分寺〜東村山間は現在の西武国分寺線で、北側の東村山〜本川越間が現在の西武新宿線の一部になります。つまり、川越鉄道は新宿から川越に向けて延伸されたわけではなく、国分寺駅で接続する甲武鉄道(現在のJR中央本線)の支線のような存在だったのです。

 しかし、川越鉄道が合併により西武鉄道(初代)に変わっていく過程で、都心に乗り入れる独自の路線の計画が浮上します。その背景には、東上鉄道(現在の東武東上線)や武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)など、ライバル路線の開業がありました。甲武鉄道と川越鉄道のルートは大きな迂回(うかい)ルートになっています。そこで、中央本線経由より短い距離で東京都心に入れる路線を建設しようと考えたようです。

 こうして1927年(昭和2)年、東村山〜高田馬場間が「村山線」として開業。まずは国鉄(現在のJR東日本)山手線との連絡が図られました。西武はさらなる都心への乗り入れを目指していきます。

最初は新宿を目指さなかった

 村山線の開業に先立つ1926(大正15)年、国は西武が申請していた、高田馬場から早稲田に延伸する計画を認めました。このころ、東京市(現在の東京都)が「市営地下鉄」の建設を構想し、早稲田には市営地下鉄の駅が設けられることになっていました。西武は市営地下鉄との連絡を図るため、早稲田への延伸を考えたようです。


新宿(西武新宿)〜高田馬場間の線路の右側に国鉄貨物駅の建設が計画されていた(2015年9月、草町義和撮影)。

 しかし、西武が計画した早稲田ルートの近くでは、国鉄が「戸山原貨物駅」の建設を計画していました。山手線・新大久保〜高田馬場間の東側(現在の早稲田大学西早稲田キャンパスなどがあるエリア)には陸軍の射撃場があり、射撃場とその周辺の土地を使って貨物駅を建設することが考えられていたのです。貨物駅の詳細な設計が決まらないと西武の早稲田延伸もルートを確定できないなどの理由から、計画は宙に浮いてしまいました。

 それから9年後の1935(昭和10)年、西武は新宿に乗り入れる計画を国に申請します。このときは西武村山線の下落合駅から分岐し、大部分は地下を通って新宿駅に向かう計画でした。

 ところが、西武は1937(昭和12)年に下落合〜新宿間の計画を撤回。西武村山線を高田馬場駅から新宿駅に延伸する計画を改めて申請しました。この計画変更にどのような考えがあったのかはっきりしませんが、建設費を安くするといった目的があったのかもしれません。

 しかし、当時の国鉄線を運営していた鉄道省(現在の国土交通省)は、並行路線となる山手線の運営に大きな影響があると考え、西武村山線の延伸計画には消極的だったようです。また、高田馬場駅から新宿駅に向けて南下するなら、戸山原貨物駅の予定地を縦断することになります。早稲田への乗り入れ以上に建設が難しくなることは明らかでした。

国鉄線への乗り入れも検討された?

 そのためか、西武村山線の列車を国鉄の山手線や、山手線の隣を通る貨物線(現在は埼京線や湘南新宿ラインの列車も走っている線路)に乗り入れさせて、新宿駅に直通する案も検討されたようです。ただ、鉄道省はこの案も運転上の障害が増えるなどとし、消極的な態度を取っていたようです。


山手線や貨物線への乗り入れ案について鉄道省が見解をまとめた文書。文面から消極的な態度を取っていたことが分かる(国立公文書館所蔵)。

 一方、陸軍航空整備学校(埼玉県所沢市)の校長は1939(昭和14)年、「西武鉄道に対して新宿に乗り入れるよう再三要求している」という趣旨の文書を鉄道省に提出しました。所沢から陸軍省などがあった市ヶ谷方面に向かう場合、村山線が新宿駅まで乗り入れれば乗り換えが1回になり、便利だと考えたのでしょう。ルートも山手線や貨物線への並行ではなく、陸軍の教育施設があったエリア(現在の戸山公園)の近くを通るよう要望していました。

 このように、新宿延伸計画にはさまざまな反応がありましたが、結局は計画が具体化することなく推移し、西武は1944(昭和19)年までに計画の申請を取り下げました。再び計画が浮上したのは、武蔵野鉄道が西武鉄道などを吸収合併して西武鉄道(2代目)に生まれ変わった終戦後のこと。国は1948(昭和23)年、西武が再申請した高田馬場〜新宿間の計画を認めました。

 戸山原貨物駅の問題は、とりあえず西武が貨物線の東側に沿って新宿乗り入れの線路を建設。貨物駅の計画が本格始動したときに、改めて西武と貨物線の線路を並べ直す工事を行うことで話がついたようです。もっとも、貨物駅の計画はその後中止されたため、並べ直しの工事は不要になりました。

 終戦直後の新宿駅周辺は区画整理が進んでおらず、西武村山線の乗り入れ場所に関しては関係機関との調整が必要でした。そのため西武は「とりあえず建設できるところまで建設しよう」と考えたようで、新宿駅から北へ約400m離れたところに仮設の駅を設置。1952(昭和27)年に高田馬場駅と仮設駅を結ぶ区間が開業しました。

離れたターミナルにもメリットが

 この仮設駅こそ、現在の西武新宿駅です。新宿の北外れとはいえ、ついに新宿への乗り入れを果たしました。村山線は「新宿線」に改称。川越鉄道の時代に開業した東村山〜本川越間も新宿線に編入され、現在の西武新宿〜本川越間を結ぶ路線になりました。


新宿駅東口の駅ビル「ルミネエスト新宿」。写真右下のあたりに西武新宿線のホームを設置して駅ビルに接続させる計画だった(2015年9月、草町義和撮影)。

 西武は引き続き新宿駅への乗り入れ計画を進めます。関係機関との調整により、新宿駅の東口に計画された駅ビル(現在のルミネエスト新宿)の北側に乗り入れることが決定。6両編成の列車がふたつ停車できるホームをひとつ設置することになりました。

 しかし、西武新宿線の利用者が増え続けたため、6両編成では運びきれないという問題が生じました。ホームを長くする計画に変えることは敷地不足のため難しく、西武鉄道は東口への乗り入れを断念。西武新宿駅を拡張して利用者の増加に対応する方針に転換しました。

 ちなみに、1980年代には西武新宿線の線路を複々線化するプロジェクトが浮上します。この計画では、地下に線路を増設。西武新宿駅の地下ホームは、現在の駅よりも新宿駅に近い場所を予定していました。ただ、少子高齢化に伴い西武新宿線の利用者が減少すると見込まれたことや、地下線の工事費用が高騰したこともあり、1995(平成7)年には計画の無期限延期が決まりました。

 このように、西武新宿線は都心への乗り入れが幾度となく計画されてきましたが、新宿駅への乗り入れは果たせないまま、いまに至っています。このため、新宿駅から山手線に乗って高田馬場駅に向かい、西武新宿線に乗り換える人も多いようです。

 これは逆にいえば、西武新宿〜高田馬場間がすいているということ。とくに夕方から夜間にかけてのラッシュ時なら、山手線に乗って高田馬場駅で乗り換えるより、ちょっと歩いて西武新宿駅から乗車した方が始発列車に乗れ、座れる可能性も高くなります。離れたターミナルには、こうしたメリットもあるのです。

【地図】新宿、早稲田〜高田馬場「幻のルート」


新宿駅と西武新宿駅の位置関係。西武新宿線の都心乗り入れ計画は戦前から戦後にかけて複数あった(ルートは一部推測/国土地理院の地図を加工)。