愛知県東海市の愛知製鋼本社。今年3月までにビジターセンターなどを含めた新社屋に建て替えられた(筆者撮影)

トヨタグループの愛知製鋼(愛知県東海市)で昨年、元役員と元社員が逮捕される事件があった。同社が扱う「センサー」の技術情報を外部に漏らした不正競争防止法違反、いわば“スパイ容疑”だ。だが、元役員らは逮捕、起訴後に保釈され、全面的に無実を主張。裁判は昨年6月27日の名古屋地方裁判所での初公判以来、1年近くも非公開の争点整理が続く。水面下の駆け引きを探ると、一企業にとどまらぬグループの混迷も見えてきた。

元役員は無実主張、公判はストップ

「事件はまったくの誤解だ。秘密でも何でもない話なのに……」

強い憤りと困惑をあらわにするのは本蔵(ほんくら)義信氏。被告人の立場だが、昨年3月の起訴後に保釈されてから現場に復帰、自らが設立したベンチャー企業「マグネデザイン」の名古屋市内のオフィスで、外部の支援に頼りながらこれまでどおりセンサーの技術開発に取り組んでいる。本蔵氏が名付けた「GSRセンサ」の技術だ。


東洋経済オンライン「自動車最前線」は、自動車にまつわるホットなニュースをタイムリーに配信! 記事一覧はこちら

一方、今回の事件で問題とされているのは「MIセンサ」。本蔵氏が愛知製鋼社員時代に開発を主導し、自動車用のみならずスマートフォンや食品の異物検出装置などに活用され、同社の鉄鋼製造以外の主力事業の1つに成長した技術だ。

愛知製鋼側はこの「MIセンサ」の技術情報を含む営業秘密を、本蔵氏と同僚だった菊池永喜氏が外部に持ち出し、不正に利益を得る目的で他社に開示したとして2人を告訴した。ただし当初、一昨年8月に告訴した6件については名古屋地方検察庁が不起訴とし、昨年2月に追加で告訴された1件についてのみ、愛知県警察が逮捕容疑としている。

その内容は本蔵氏と菊池氏が2013年4月、愛知製鋼岐阜工場の会議室で「MIセンサ」の製造工程などをホワイトボードに示し、大阪市の電子部品会社の社員に説明したというものだ。初公判の冒頭陳述で検察側は、その工程が8つの連続的な作業や機械の動きで、愛知製鋼が「非公表のノウハウ」としていた機密情報だったと主張した。

ところが、本蔵氏は「『MIセンサ』ではなく、後に『GSRセンサ』につながるまったく新しいものを開発するために、まだ私の頭の中にあった製造プロセスを説明しただけだ。『ワイヤを張る』『整列させる』『切る』といった一般的な動作のことで、すでに国際会議での発表や大学との共同事業の報告書でも公に知られている」と反論。弁護側も「検察側が何を機密情報としているのかわからない」と疑問を呈した。

裁判官もこの指摘を認め、初公判後、非公開の期日間整理手続きで争点を整理することになった。しかし弁護団の1人は「検察側の根本的な技術への理解や証拠固めの方針が定まっていない。争点整理が1年近くに及ぶことは決して珍しくないが、こんなに入り口の議論で止まっているのは初めてだ」とあきれたように言う。今年度に入り地裁や地検の担当者も異動で代わり、一層混迷が深まっているのだという。

スマホの拡大戦略めぐり路線対立

もともと愛知製鋼のセンサーは、名古屋大学の毛利佳年雄(かねお)名誉教授が発見した「磁気インピーダンス(MI)効果」を基に、名大で磁性物理学を学んだ本蔵氏が量産品とするため1999年に共同開発をするところから始まった。

本蔵氏の指揮下で、愛知製鋼の技術者が試行錯誤を重ね、2000年にはMI効果を利用したセンサー素子の開発に世界で初めて成功、2001年からは量産技術の確立に進んだ。


不正競争防止法違反での逮捕、起訴に対して無実を訴える本蔵義信氏(筆者撮影)

熱処理した金属繊維(アモルファスワイヤ)を基板上の深さ50マイクロメートルほどの溝に並べ、メガヘルツ単位の電流を通電。地磁気に対する反応などをワイヤの周囲に巻いたコイルを通じて検出すると、それまでの磁気センサーに比べて1万倍以上という高感度の性能を得られた。製造装置にも工夫を重ねて素子の小型化に成功した。

このセンサーはスマートフォンの「電子コンパス」として、現在地表示などに活用されている。グーグルのアンドロイド端末に広く採用され、アップルの「iPhone」への供給も検討された。

鉄鋼製品が主力の愛知製鋼にとっては新規事業分野であったが、将来的な電気自動車、自動運転車時代の到来を見据え、トヨタグループの中枢も本蔵氏の研究開発に注目していた。

当時のグループ幹部は「電子コンパスをきっかけに、より精度を高めて自動車用センサーとして本格開発する提案はあった。愛知製鋼は素子の量産に徹し、デンソーやアイシン精機がセンサーとして完成させる可能性もあっただろう」とする。一方で、「本蔵氏は根っからの研究者肌。その彼が生産部門を抱え込み、さらに営業まで任せられたところから歯車が狂ってしまったのでは」と指摘する。

特に2004年以降、トヨタ自動車から愛知製鋼に迎えられた社長、副社長の就任が相次いでから、本蔵氏が率いる電磁品部門への見方が厳しくなった。本蔵氏が海外企業と直に取引を進めたうえ、MI素子の単価を引き上げられず「安売り競争」に入り込んでしまったからだ。そしてスマートフォン向け事業の継続、拡大をめぐって本蔵氏と首脳陣の路線対立が鮮明化。2012年の株主総会で本蔵氏は当時の役職である技術統括専務を任期満了前に退き、技術部門へのアクセス権のない委任契約の技監となることが決まった。事実上、センサー事業から「外された」のである。

その後、首脳陣はセンサーの生産、販売の一部をトヨタグループではなく半導体メーカーのロームに委託、iPhoneへの商品供給も見送った。こうした方針転換と冷遇から、本蔵氏は独自にセンサーの研究開発を進めることを決意し、2012年9月にマグネデザインを設立。2014年6月には顧問を退任し、愛知製鋼を完全に離れた。事件はその間の、いわば“移行期間”での活動にかけられた疑いによるものだ。

OBや社内からは賛否の声

本蔵氏が新会社で開発した「GSRセンサ」の「G」はギガヘルツの意味。従来のセンサー技術で一般的だった「メガ」の1000倍の単位だ。このギガヘルツ単位の超高周波電流をアモルファスワイヤに流すと、ワイヤ表面の電子が高速で「スピン回転」するという特殊な現象が見られた。本蔵氏はこれを「GSR効果」と名付け、2015年にスペインの国際会議で発表、さらにこの現象を利用したセンサーの原理や製法の特許をマグネデザイン名義で同年以降、日米で取得した。

その製法は、「MIセンサ」で必須だったアモルファスワイヤの熱処理をせずに、従来の10倍の張力で引っ張ったうえで、深さ7マイクロメートルという浅い溝に精密に整列させ蒸着、張力を維持したまま切断するなどの特殊なものだった。それによって「MIセンサ」に比べ60倍から150倍の性能を有し、10分の1にまで小型化した「GSRセンサ」の基礎技術を確立。その商品化、量産化に動きだしたタイミングで「待った」がかけられた格好だ。逮捕、起訴に伴い「GSRセンサ」の特許や本蔵氏の全財産は差し押さえられたままの状態だという。


愛知製鋼本社に展示されている「MIセンサ」などの電磁品(筆者撮影)

だが、ある愛知製鋼のOBは「本蔵氏は『GSRセンサ』の量産を愛知製鋼に任せようと打診もしていた。本蔵氏にどんな犯罪性があり、会社側にどんな被害があったのかもはっきりしない。なぜいきなり刑事事件になったのか」と首をかしげる。

このOBによれば、センサーの性能や需要が飛躍的に高まる自動運転車の開発競争を勝ち抜くためには「MI」の延長では限界があり、「GSR」のようなブレークスルーが必要だという。「今回の法廷闘争では、たとえ判決が出ても誰も勝者にならない気がする。不毛な“犯人探し”ではなく、穏やかに収束させ、トヨタグループとして早くGSRの技術を世に出してほしい」と同OBは訴える。

一方で現役の技術者、つまり本蔵氏の元部下は、「GSRといってもまだ何の実績もなく、MIの領域を出ていないと言わざるをえない。その実績づくりのためにわれわれの重要なノウハウを軽々しく公開してしまうなんて、怒りを通り越してがっかりする」と手厳しい。会社側は取材に対し、「裁判は被告側の追加の主張によって、争点整理に時間がかかっていると認識している。弊社としては裁判の行方を見守りつつ、早期解決に協力していきたい」とコメントした。

愛知製鋼の業績は、直近の2018年3月期決算で売上高2362億円(前期比11%増)、営業利益は118億円(同64%増)。「MIセンサ」を含む「スマートカンパニー」部門の売り上げは約148億円(同7%増)、利益は約3.5億円(同47%増)だった。ただし、前年は2016年1月に知多工場で起きた爆発事故や、同4月の熊本地震の影響で損失が目立っていた。爆発事故はトヨタの国内全工場で車両生産が1週間停止する事態を招いた。

トヨタグループが変革期を勝ち抜くためには、組織が一丸となりつつ、一人ひとりが能力や独創性を発揮しなければならない。今回の事件は、そのバランスを危うくさせるものではないのか。一企業と一技術者の問題にとどめず、グループ全体の課題として受け止めるべきだろう。