現代の隅田川花火大会の様子

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■ 日本初の花火大会は鎮魂の水神祭から

両国花火資料館に展示されている江戸時代の年表/写真:両国花火資料館

テレビの生中継もあり、数ある花火大会の中でも最も知名度の高い大会の一つと言える「隅田川花火大会」。日本最古の歴史を持つ花火大会だが、「隅田川花火大会」の名称は1978年(昭和53年)から使い始めたもので意外に最近の話だ。それ以前は「両国の川開き」と呼ばれていた。

両国の川開きは江戸時代の1733年(享保18年)に開催されたのが始まりだと言われている。前年の大飢餓と江戸市中で大流行したコロリ病によって多くの死者が出たため、時の将軍徳川吉宗が犠牲者の慰霊と悪疫退散祈願のため隅田川沿いで水神祭を実施。

そこで両国橋周辺で花火が打ち上げられたことから、翌年より年中行事となり両国の川開きの始まりとなった。その際に鍵屋六代目が点火した花火の数はわずか20基程度だったと伝わるが、それでも江戸の人々は花火の光に熱狂し大勢の観客が集まったのだという。

徳川家康が初めて花火を見たという1613年(慶長18年)から約35年後、徳川家光は江戸市中での花火を禁止するおふれを出した。

大名から庶民へと広まった花火は玩具花火が大流行し、火事が多発する事態となったせいだ。しかし、禁止令が出ても江戸の庶民が花火という新しい娯楽を完全に手放すことはなく、数年にわたって5回の禁止令を出したが、最終的には隅田川の川筋と海岸だけは花火をしても良いと場所限定で許されたそう。

それほど花火遊びは江戸っ子の心をとらえてしまったのだ。

■ 幕府御用達の花火師・鍵屋弥兵衛という男

ところ変わって、現在の奈良県に位置するとある村から自作の花火を売りながら上京を果たした男がいた。その名を鍵屋弥兵衛という。地元の火薬工場への奉公で火薬を扱う技術を身につけ、オリジナルの手持ちの吹き出し花火を考案。

それが飛ぶように売れて評判となった。1659年(万治2年)には日本橋横山町で花火屋「鍵屋」を創業。上京して間もなく幕府御用達の花火師になったというから、よほど腕が良かったのだろう。江戸花火の元祖と言われる鍵屋の初代弥兵衛の誕生だ。その鍵屋の六代目弥兵衛こそが、両国の川開き第1回の花火を請け負った花火師だ。

以降、鍵屋番頭だった清吉がのれん分けで「玉屋」となり、「鍵屋」と「玉屋」の2軒で両国の川開きで上げられる花火を担当した。花火の観客たちがその出来映えに称賛の意味を込めて「玉屋!」「鍵屋!」と掛け声をあげるのも江戸の名物だったが、後に玉屋は出火により断絶となった。(東京ウォーカー(全国版)・ウォーカープラス編集部)