駐妻【ちゅうづま】―海外駐在員の妻。

数多の平凡な妻の中で、一際輝くステータス。それは期間限定のシンデレラタイム。 そして普通の女に与えられた「劇薬」。

ここでは彼女たちのこれまでの人生を、誰も知らない。共通点はただ一つ、夫について、海外で暮らしていること。

駐妻ワールド。そこは華麗なる世界か、堅牢なる牢獄か。

夫・彬の赴任に伴い、タイ・バンコクに来た里香子。ロンドン留学中に嫉妬に狂った駐妻から衝撃的な電話がかかってきたことを思い出し、期待と不安が入り混じる。

タイ語教室でのマダムたちのマウンティングランチで意気消沈しかけるも、バンコクで働く友人ケイと、同じく駐妻の雪乃に励まされ、なんとか気を取り直す。

しかし会社の奥様会でも違和感を覚える里香子。彬の心ない一言が追い打ちをかけるも、平穏を保ちたい一心で黙殺するが―。




「ひゃああああ〜!待って〜!!助けて雪乃!」

悲鳴とも歓声ともつかない声が終わらないうちに、里香子が勢いよく象の鼻から川面に放り投げられる。

―フフフ、作戦成功ね。

雪乃は、岸で里香子の様子を写真に撮っては、ニヤリと笑った。

バンコクに里香子が来てから3か月。

半年前、里香子から「彬について、バンコクに行こうと思う」と電話がかかってきたとき、雪乃は心底驚いた。

里香子が勤めていた大手ディベロッパーでは、配偶者の転勤理由で退職した社員は、再雇用試験を受けられるという。それに挑戦してみると明るく言っていた。

「ただ夫と一緒に暮らしたい、っていうだけなんだけど。仕事までなくなっちゃった」と笑う里香子を見て、彼女にとっての決断の重みがわかった気がした。

だって里香子は、東京で全てを手にしていたから。


雪乃が知る、里香子がバンコクに来た本当の理由とは?


すべてを手にしていた里香子が、バンコクに来たシンプルな理由


里香子は学歴もキャリアも申し分ない。仕事は、都心部の開発やリゾート開発を担う大企業の総合職。学歴や英語力、コミュニケーション力を遺憾なく発揮できる仕事に就ける女性は稀だ。

そして何より、里香子は東京で、いつも友達や仲間に囲まれて輝いていた。東京で生まれ育ち、自然体のまま東京で成功している里香子。

高校卒業後、広島から上京した雪乃は、里香子のことが羨ましかった。

そんな里香子が全てを置いて、夫についてきたのだ。きっと本人が思うよりずっと、里香子は彬が好きなんだろう。3年も離れて暮らすのは考えられないほどに。

雪乃は、眩しいものを眺めるように、川で泳ぐ里香子を見つめる。

「信じられない、昔乗った時は、鞍みたいなのがついてたよ。象さんに直乗り!しかも鼻に巻かれて川遊びって…」

ずぶぬれで森林の木陰に上がってきた里香子は、ここ数カ月見なかった、屈託のない笑顔を向ける。

スパや習い事など、駐妻の必須科目は一通り体験した里香子だったが、なにせ元々の経験値が高い。「駐妻デビュー」の女たちのように耽溺できないようだった。

「よかった、里香子、こういうのきっと好きだと思ったんだよね。もうすぐエラワンの滝までトレッキングよ。象さんと写真とってあげるからもう一回いっておいで」

わーい、と声を上げ、いそいそと川に戻る里香子は、まるで子どものようで、ロンドンの学生時代にイヤというほど見た、すっぴんの笑顔だ。




最近元気がなかった里香子を案じていた雪乃は、思い切ってこの「遠足」に誘って良かったと思った。

もう少し。もう少しすれば、里香子ならきっと見えてくる。

駐妻にもいろいろな女がいることが。

親友が少しばかり元気を取り戻したことを確認して、雪乃はほっと一息ついた。

―それにしてもこんな田舎まで、マイクロバスで往復7時間、おまけにこの日焼け。明日はスパ、予約しなくちゃ。

雪乃は泥まじりの川ではしゃぐ里香子を尻目に、携帯でいつもの店に電話をかけはじめるのだった。



―ああ、これぞ駐妻ドリーム。もう普通の主婦の生活、想像できないわ。

雪乃はフェイシャルとボディの同時マッサージを受けながら、うっとりと目を閉じる。

タイに来て以来、ケイに教えてもらった一軒家スパに、こうして時々通っている。プロモーションレートで、4時間のパッケージで3,000バーツ。1万円ちょっと。信じられない値段だ。

頭からつま先まで磨き上げられたあとは、運転手にかしずかれ、意気揚々と車に乗り込んだ。

この毎日を手に入れるために、20歳から作戦を練ってきたのだ。


雪乃が計画通り、駐妻になれた理由とは?


豪華で退屈な駐妻の日常を破壊する、1本の電話


海外駐在の可能性が高く名の知れた企業は、どこも激戦で、何のコネもない雪乃は200%の努力と情熱で就職活動に臨んだ。

インターンシップ、OB訪問、筆記対策、TOEIC取得、食事会での人脈づくり。

この先の人生、もうあれ以上無心に頑張ることはないだろう。

そのうち同じような志向の就活生と知り合いになり、「駐妻になろう会」という身も蓋もないチームを結成し、情報を交換し合った。

そして総合商社一般職の内定を手にした瞬間、気を緩める仲間を尻目に、ジムに通い、パーソナルカラー診断やイメージコンサルティングを受講した。




自分にもっとも似合うメイクやヘア、ワードローブを揃え、まずまずだった見た目のレベルを入社までにワンランク上げたのだ。

30万円ほどかかったが、学生がプロの手を借りれば、やはり効果は絶大。卒業旅行代は消えたが悔いはない。

駐在の多い部署に希望通り配属されれば、あとはもうたやすいもの。同じ部署で7歳年上の仁志と結婚し、時期は少々予定より遅れたが、無事にバンコクで駐妻としての生活をスタートした。

仁志の会社は、定年までに幾度となく海外に駐在する社員が多い。このバンコク駐妻ライフは、幕開けに過ぎないのだ。

―次は北米やヨーロッパもいいわね。

夫の同僚の駐在先リストをうっとりと思い浮かべながら、自宅のエントランスで、コンシェルジュに挨拶をする。

部屋に戻ると、しんとしたダイニングに、夫の食事が並んでいた。仁志がOKしてくれたので、食事も作ってくれるメイドを雇っているのだ。

―どうせ、今夜もろくに食べないんだろうけど。

雪乃は真っ白なサンドレスを脱いでクリーニングのかごに入れ、Tシャツとヨガパンツに着替えるため、クローゼットに向かう。

仁志は連日、接待や残業で帰りが遅い。ジャカルタやマニラに出張も多く、日付が変わることもザラで、それをじっと待っているのは苦手だった。そんな夜は、アパートの住人専用ジムでワークアウトするに限る。

ふと、クローゼットの前で紙切れが目に留まり、つまみ上げた。

―カシコン銀行…?5万バーツ、引き出し?

白い紙をつまんだ指先から、すうっと体温が奪われるような感覚があった。

ATMから出てくる明細。口座名義はたしかに仁志だが、銀行名は普段給与が入るバンコク銀行ではなく、見知らぬ口座だ。

5万バーツといえば20万円ほど。妻に言わずに引き出すには大きな金額だ。

その時、携帯が鳴り、反射的に手の中の明細を握りつぶしてしまう。仁志かもしれない。急いでリビングに行き、携帯を取り上げると、ケイの名前が画面に表示されていた。

「もしもし雪乃?今どこ?仁志さんは?」

受話器の向こうから、やけに切羽詰まったケイの声が聞こえる。雪乃は、いつもと違う彼女の様子を怪訝に思いながら呟いた。

「私は家にいるけど、仁志はまだ出張から戻ってない…」

ーこれ以上、聞いてはいけない。この豪華で退屈な夢の日々が、終わってしまう。

それは久しぶりにはたらく女の勘だった。

「今、スワンナプーム空港に、仕事で送迎に来たんだけど。国内線の到着口から仁志さんらしき人物が出てきたの。…女連れよ」

雪乃は目を閉じた。どうして女友だちというのはこうも親切なんだろう。

友人の人生を、大きく変えてしまうほどに。

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里香子、雪乃、ケイ、緊急作戦会議。