鷹島神崎遺跡展望所風景/写真提供:松浦市教育委員会

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花火の歴史は火薬の歴史。花火の原料である火薬を使った武器を初めて日本人が目にしたのは、鎌倉時代中期の元寇においてではないかと考えられている。文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の2度にわたる蒙古襲来の際に元軍が使用した「てつはう」という火薬武器の存在が文献や絵巻物に残されている。

【写真を見る】海底遺跡から出土した「てつはう」/写真提供:松浦市教育委員会

刀や弓矢だけで戦っていた日本の武士が、爆発音と煙火を発する炸裂弾に出くわしてどれほど驚いたことだろうか。文献には「目がくらみ、耳もふさがり、東西の別も分からなくなった」と当時の衝撃を伝える記述が見つかっているが、「てつはう」による日本人の死傷者の記録は見つかっていないそうで、実際にどれほどの武器であったのかはこれまで判然としなかった。

■ 海底に眠っていた中世のロマンを徹底調査!

火薬を用いた炸裂弾「てつはう」は謎のベールに包まれていたが、その一端が長崎県で解き明かされた。長崎県松浦市では1980年から海底遺跡の調査を続け、約4000点の遺物を海底から発掘。暴風雨“神風”で海底に沈んだ元軍の船をも引き揚げた結果、水中遺跡「鷹島神崎遺跡」として2012年、国史跡に指定された。

中国でも出土品がなく実態は長く不明のままだった「てつはう」だが、同遺跡から未使用品の実物が見つかったことで、調査によって詳しい構造が判明したのだ。

外部は陶製で径約20センチの球状。黒色火薬はそれほど威力が強くないため、これまでは導火線に火をつけて投げると破裂し、大きな爆発音と煙によって敵の人馬を威嚇し、目をくらますための武器だったのではないかとも考えられていた。

しかし、「てつはう」の内部からは火薬のほかにも鉄片や青銅片が発見された。破裂後に内部の鉄片などが飛び散る構造で、威嚇目的ではなく相応の殺傷能力を期待した武器であったことが解明されたのだ。

その後、日本に火器がもたらされたのは16世紀、種子島への鉄砲伝来を待つことになる。この時、ポルトガルから火縄銃と、その製造技術や射撃法などが戦国時代の日本に伝わった。もちろん、戦乱の世における火薬の使い道はもっぱら武器使用。平和的使用の花火が普及するのはさらにもう少し後、徳川時代を待たなければならない。(東京ウォーカー(全国版)・ウォーカープラス編集部)