スイスとの準備試合に敗れた西野ジャパン。「このままでは3連敗」。そうした声がネット上を含め、当たり前のように飛び交っている。しかしスイスはW杯本大会でベスト8が狙えそうな強豪で、試合の舞台はアウェー戦だ。そこでもし日本が勝利を収めたら大事件に相当する、と言っても大袈裟ではない。

 言葉尻を捉えるわけではないが、ならば前回同様、1分2敗ならオッケーなのか。1勝2敗でもほぼグループリーグ落ちだ。ベスト16入りのためには2勝1敗でないと苦しいが、本大会前の前評判で、それが50%以上を示すことは、常識的に考えてあり得ない。

 日本のベスト16入りも客観的に見て事件なのだ。ブックメーカーの各社の予想を眺めれば、当然のことながらグループリーグ最下位候補である。スイスに敗れ、「このままでは3連敗」と新鮮そうに落胆する感覚が理解できない。前評判通りに推移しているに過ぎないのだ。1年前、2年前から、これは十二分予想できた事態なのである。

 そうした中で、相変わらず「W杯優勝」を目標に掲げているのが本田圭佑だ。「レアル・マドリーで活躍する」も、かつて掲げていた目標だが、W杯優勝はチームとしての目標だ。個人がいくら頑張っても、チーム(日本代表)が世界一になる保証はない。

 その強気はどこから来るのか。根拠は曖昧だ。こちらには、それを本人の口から「そう信じている」と、直に聞かされたことがあるが、そのとき本田が違う世界に棲む人種に見えたものだ。

 選手として勢いがあるうちは、カリスマ性の上昇に一役買いそうな台詞だが、30歳を超え、ベテランになったいまなお、その手の強気を見せられると反応に困り、固まるしかない。

 時代的な背景も後押しした。この手の大言壮語に世の中は好意的だった。発言が見出しになりやすい有言実行タイプはメディアと相性がよかった。景気のいい発言にメディアを媒介して多くの人が乗っかろうとした。

 ともすると、根拠のない自信に世の中は溢れがちだった。W杯の予想もしかり。グループリーグ落ちが順当でも、解説者、評論家は可能な限り盛ろうとした。逆に言えば、本音が言えないムードに包まれていた。「可能性は十分ある」は、中でも一番、嘘臭い言い回しになる。

 一方、日本の成績を“グループリーグ落ち”と予想しようものなら、非国民呼ばわりされた。代表報道に限った話ではない。ひどいのはJリーグで、これだけクラブがあるのに、表だった批判はどこからも聞こえてこない。

 大会前、多くの選手がメダル候補に祭り上げられる五輪報道にも全く同じことが言える。いつの間にかアゲアゲ報道が普通になった。

 世の中は全体的にいい方向に進んでいる。明るい未来が待ち受けている。スポーツへの期待値は高いものと相場が決まっていた。根拠のない自信が、選手の周辺に収まっているうちはいいが、日本中に広がると、その期待感は不快感に変化していく。

 ベスト16入りの声さえも不快に聞こえる。最下位候補がそんなにヘッドアップしてどうすると突っ込みたくなる。ベスト16入りを望んでいないわけではないが、それを言いすぎる行為は身の程知らずといわれても仕方がない。欲深い人間の性を見ているようで、嫌な気になるのだ。

 かつて、20年ぐらい前までだろうか、スポーツの美学は無欲だったはずだ。競技は無欲で臨むべきものだと、無言のうちに教えられてきた。成績や結果を気にせず、邪念を捨て、目の前のことに集中せよ。これが競技に臨むにあたっての基本的なスタンスだった。

 無欲といっても、ゼロはあり得ない。それは建前論、綺麗事じゃないの? と、逆に突っ込みたくなった記憶があるが、いまではそれが、戻れない過去を見るような懐かしさを感じる。無欲を貫こうとする美学は、気がつけば、醜い欲の塊と化した。そんな感じだ。