―俺、何のために頑張ってるんだっけな...。

メガバンクのエリート銀行員・岩崎弘治(40歳)は、最近こんな疑問に駆られている。

仕事はイケイケでも、プライベートでは長年連れ添った妻に逃げられ、特筆すべき趣味もない中年男。

だが、いまいちパッとしない寂しい日々を送る彼の前に現れた美女によって、男の生活はガラリと変わるー?

これは、出世争いに必死に勝ち抜いてきた社畜オヤジに突如訪れた、新橋を舞台に繰り広げられるファンタジーのような純愛物語である。

理由は分からないが、美しい部下・秋月瞳(30歳)にやたらと懐かれ、少々振り回されつつも逢瀬を重ねていく二人。

だが、瞳の気持ちに応えられずヒヨった弘治は、離婚のトラウマを思い出していた...。




―自分のことしか考えてない男ー

離婚時の妻の捨て台詞が、瞳の言葉と被った。

なぜ、二人の女は自分に同じセリフを放ったのだろう。

盲目的に仕事に精を出していたのは、何よりも家庭のためだったはずだ。

そして、瞳と会うためにせっせと食べログで新橋の洒落た店を探し、仕事を早く切り上げる努力をしていたのは彼女のためだった。

それがなぜ「自分のことしか考えてない」となるのか。女という生き物の思考回路が、サッパリ分からない。

―結局、俺みたいな男は、一人で生きてればいいんだな...。

薄暗い部屋のベッドに仰向けになると、胸がチクリと痛んだ。毎晩続いていた瞳とのLINEも、ここ数日は途切れている。

一人には慣れていたはずなのに、誰かがいなくなった後の一人は“孤独”だった。

―...本当に、俺はこのままでいいのか...?

だが、このまま諦めてしまえば、結局自分は離婚から何も進歩していないことになる。

こんな風に女性へのトラウマを抱え、まだ長い人生を一人虚しく送るのだろうか?

弘治はまだモヤモヤする気持ちを奮い立たせ、思い切ってスマホを手に取った。


保守派のオヤジが、とうとう勝負に出る...?!


オヤジが勝負できる街


新橋の駅に降り立つと、梅雨の湿気と人混みで、ムッとした熱気に包まれた。

金曜夜の新橋は、相変わらず人で溢れている。一体皆、この街に何の用事があるのだろう。




ハンカチで汗を拭いながら、弘治は少し緩くなったズボンのウェストを整える。

―そろそろ、スーツを新調するか...。

瞳に会うようになってから、弘治は時間を見つけてはランニングに励むようになった。

週に数回スポーツジムに通っているという瞳のメリハリある華奢な身体を見ていると、ダラしない贅肉まみれの自分の身体に罪悪感を持つようになったからだ。

怠け癖のついた身体に鞭打つのは最初は辛かったが、学生時代は長年陸上部に属していたせいか、少し慣れればむしろ爽快感が病みつきになった。

頭は冴えるし、弛んだ体も引き締まる。何よりも、慢性化した腰肩の不調や胃もたれなんかも改善された。

特に男女の仲になったわけでもないのに、外見や健康に気をつけるようになったり、流行りの店に敏感になっていく自分が滑稽にも思えたが、結局、男のモチベーションを上げる最善策は“女性の存在”ということだろうか。

―よし、行くぞ...!

今夜は、2週間ぶりに二人きりで瞳と会う。

瞳には「私たち、いつまで新橋でダラダラ飲み続けるんですか」なんて苦言されたが、新橋にだって本気モードの店はある。

今夜は『Restaurant La FinS』という、ミシュラン星つきのフレンチを予約してしまった。

“オヤジの街”なんてイメージの強い新橋だが、この街は、逆に言えばオヤジでもちゃんと勝負ができるのだ。

それこそ『京味』、『と村』、『星野』といった日本を代表する和食の店は、実は新橋に集結している。(もちろん、弘治はそんな高級店には仕事上の付き合いでほんの数回訪れただけだが)

最後に瞳と会った夜、この危うい関係に一歩踏み込んだ彼女に対して、弘治は無言でオロオロと焦ることしかできなかった。

だが、40歳で早くも人生を諦めていた弘治にとって、男女の仲云々は別としても、瞳は自分に活力を与えてくれた大切な存在であることは間違いない。

妻に捨てられて、イジけて一人でウジウジと生きていた自分に、彼女は夢を見せてくれたのだ。

かと言って、実はまだ何をどうするべきか、明確な指針があるわけでもない。

しかし、今夜はとにかく瞳ときちんと向き合い、少なくとも感謝の気持ちを伝えようと弘治は決意していた。


“星つきフレンチ”まで予約したのに...。トンチンカンなオヤジデートの全貌。


どこまでもチキンなオヤジ


『Restaurant La finS』は、マッカーサー通りに面したビルの地下にあった。新橋とは思えない静かな立地だ。




「お待たせしました」

店に現れた瞳の姿を見て、弘治は思わずポカンと口を開けて言葉を失ってしまった。

仕事帰りに会うときはスーツ姿しか見たことがなかったのに、今夜の瞳は、クリーム色の清楚なワンピースに身を包んでいる。

そこにいつもの強気なキャリア女性の面影は皆無で、そのあまりの可憐さに、弘治は本気で見惚れてしまったのだ。

「...そんな顔で見られると、恥ずかしいんですけど...」

「あ...。ごめんごめん。いや何だか、今日の秋月さんがあまりに美しいから、驚いて...」

つい本音が口に出てしまい、弘治は咄嗟に「これはセクハラ発言にならないか」と肝が冷えた。こんな場面でもチキンな自分が、いい加減情けなくなる。

「...だって、岩崎さんが突然こんな高級フレンチ予約するから。一度帰って着替えたんです」

瞳は拗ねた口調でプイッと目を背けたが、顔が少しだけ赤くなっている。その仕草が、堪らなく可愛らしかった。

「それで、話って何ですか?」

だが、瞳は食前のシャンパンに口をつけたと思いきや、早々に本題に突入した。横並びのテーブル席は妙にムーディで、つい先ほどまでの気合いが怯んでしまう。




「いや...先日は、何だか君に失礼な対応をしてしまって...」

瞳は早々に運ばれたアミューズを口に運びながら、じっと弘治を見つめている。

「ただ...何ていうか、僕は君よりだいぶ年上だし、バツイチだし...その、何というか...、君と新橋以外の街に行ける勇気はないような...」

先ほどまでの決意は、一体どこへいったのだろう。

しかも「新橋を出れない」なんてトンチンカンな言葉が、果たして瞳に伝わるだろうか。

それに、弘治の言葉は傲慢な気もする。もしや、自分はとんでもない勘違いオヤジになっているのではなかろうか?そもそも、瞳に「好きだ」とか「抱いて」などと言われたワケでもない。

「いつまで新橋で飲み続けるんですか」というのは、たまには新橋以外の素敵な店に連れて行けという意味かもしれない。

そんな風に思うと、焦りと後悔で、弘治は全身が冷や汗まみれになった。


強気な美女とチキンオヤジの微妙な攻防戦。その結末は...?!


強気な美女の意外な告白


「......そっか。私、フラれたのね。悲しい」

しかし、パニック寸前の弘治をよそに、瞳はしばしの沈黙の後、寂しげに口を開いた。

「い、いや!僕が秋月さんを振るなんて、とんでもない!誤解しないでくれたまえ。僕は君みたいな美しい女性と会うことなんてないし、何というか...秋月さんとこんな風に仲良くなれて、本当に感謝してるんだ...」

「じゃあ、私の彼氏になってくれますか」

この爆弾発言も衝撃を受けたが、弘治がもっと驚いたのは、瞳の目が儚げに潤んでいたことだった。

「い、いや...それは、ちょっと...どうなのかな...」

一体この娘は、何を言い出すのだろうか。まさか本気ではあるまい。

やはり当初に思った通り、自分に妬みを持つ誰かからのハニートラップなのか。人に恨まれる記憶は特にないが、弘治が失脚した際に出世のチャンスを得る男の顔は何人か想像がついた。

何と答えたら良いのか分からず、弘治はただ口をパクパクと動かす。まるで窒息寸前の金魚である。

「...もういいです」

すると瞳は、大きな溜息をついたかと思うと、呆れたように言った。




「そんな、あからさまに困った顔しないでください。もしかして、私が岩崎さんを騙そうとしてるとか疑ってます?」

「まさか、そんなことは...」

彼女は何もかもお見通しのようだ。弁明しようとしたが、瞳は弘治には構わず続けた。

「...私はただ、カッコ良くて仕事も物凄くデキるのに、どこか自信なさげで謙虚な岩崎さんにずっと興味があったんです。それに、私なんかを相手に緊張して手も足も出ない岩崎さんも可愛かった」

―カッコいい...?可愛い...?俺が...?

「困らせてごめんなさい。やっぱり岩崎さんみたいな真面目な人が、部下の私なんか相手にするワケないですよね。でも、保守的でちょっと意気地ナシの岩崎さんが、私はやっぱり好きみたい」

「......は......?」

「でもいいや。しばらくは新橋で我慢します。この街って何だか岩崎さんそのものみたいで、私も好きになっちゃったから」

いつになく素直な様子の彼女の告白を、弘治はただ呆然と聞き流していた。

だが、一つだけ明らかなのは、ハニートラップだの何だのと瞳を勘ぐっていた自分は、大馬鹿者だということだ。

すると、瞳は悪戯っぽく微笑み、テーブルの下で一瞬だけ弘治の手を握った。

「今夜の二次会は、赤提灯が飾ってある立飲み居酒屋にでも連れて行ってくれませんか?もう意地悪はしないので、いつもみたいに楽しく飲みたいです」

そう言った瞳の顔には、いつもの大人びた微笑ではなく、無垢な少女のような笑顔が浮かんでいた。

そんな彼女を目の当たりにしたとき、弘治はこれまでのチキン心はどこへやら、離れた瞳の手を思わず強く握り返していたのだった。

―Fin