駐妻【ちゅうづま】―海外駐在員の妻。

数多の平凡な妻の中で、一際輝くステータス。それは平凡な女の、「劇薬」タイム。

そこでは彼女たちのこれまでの人生を、誰も知らない。共通点はただ一つ、夫について、海外で暮らしていること。

駐妻ワールド。そこは華麗なる世界か、堅牢なる牢獄か。

夫・彬の赴任に伴い、仕事を辞めてタイ・バンコクに来た里香子。会社の婦人会から届いた花束を見て、ロンドン留学中に嫉妬に狂った駐妻から衝撃的な電話がかかってきたことを思い出す。

バンコクの駐妻が集うタイ語教室に通い始めるも、さっそくマダムたちのマウンティングランチに辟易する里香子。

意気消沈しかけるも、バンコクで働く友人・ケイと雪乃に励まされ、彬を支えて頑張ろうと決意を新たにするが―。




ーこれは、いくら何でも大人げないんじゃないかしら…。

いつまでも独りぼっちのテーブルで、里香子は考えこんでいた。

今日は、彬の会社の婦人会が里香子の歓迎会ランチを催してくれるというので、指定の高級割烹料理店にやってきたのだ。

お近づきのしるしに渡そうと、船便ではなくわざわざ航空便に入れておいた茅乃舎の出汁5個パックを30セット携えて。

里香子が店に入ると、数人の幹事と思しき女性たちに「主賓ですから」といくつかあるテーブルの中央席に通された。

しかし後から来る人来る人、里香子をちらりと一瞥すると、離れたテーブルで集まってしまう。

気が付いたときには、里香子のテーブルだけがガラリと空いており、独りポツンと座っていたのだった。

いつの間にか料理が運ばれてきて、食事会はスタートしている。

―ここでポツンと座ってても仕方ないわ…。

里香子は意を決して立ち上がった。


突破口は開けるのか?そして里香子が駐妻たちから距離を置かれた理由は?


濃すぎる他己紹介と、バンコク奥様習い事情


「3か月前、親睦会に里香子さんのご主人がいらしたとき、かなり話題になったのよ。あんな素敵な方は、うちの会社には珍しいから。奥様はどんな方なんだろうって、ウワサしてたの」

里香子が努めて明るく低姿勢に、自分から挨拶に行ったことが功を奏したらしい。最初は余所者扱いで壁を感じたが、比較的若いグループが里香子を輪に入れてくれた。

どうやら皆、3か月前に駐在を開始した彬とは面識があるようだ。この前雪乃が言っていたことを真に受けたわけではないが、彬の容姿が彼女たちの好奇心を少々刺激したらしかった。

それが最初の、若干冷ややかな雰囲気の理由なのだろうか…?

―まったくどこにトラップがあるかわからないわ…。

里香子がなんとか挽回できたことに安堵していると、少し離れたところにいる”貫禄奥様グループ”について、あれやこれやと教示が始まった。

「あちらが、支店長の奥様。あとでご挨拶に伺ったほうがいいわ。上の息子さんはすでに商社にお勤めで、下の息子さんは京大に通っていらっしゃるので、奥様だけ帯同されているの」

「あちらは部長の奥様。お嬢様をインター御三家のBangkok Patanaに通わせているの。初年度400万円はするのよ、ご実家が相当な資産家らしいわ。ゴルフがお好きだから、里香子さん得意だったら喜ばれるかも」

…情報の濃度が濃すぎる…。

里香子は、とにかく高速で小刻みにうなずきながら、夫人方の顔と名前を一致させていく。

一通り若奥様グループの話が終わったあとで、思い切って口を開いた。

「私、バンコクに来たのも初めてで…あの、皆さん普段は何をされているんですか?」

里香子の質問に、皆ははじけるように笑う。

「何って…里香子さん、ここはバンコクよ!ここで駐在、すごくラッキーなんだから。マッサージとエステとネイル、日替わりで行けるし、習い事も、東京以上のラインナップで、お値段は半額以下よ」

「週末はタイやマレーシアやフィリピンのリゾートに行けるし。今日もアリサさんたち、奥様だけでパタヤに1泊旅行に行ってるわ」




差し出されたスマホのLINEグループトークには、たくさんの写真が載っている。

最新の写真には、先日タイ語教室で知り合ったアリサが高級リゾートホテルとおぼしき場所で微笑んでいた。やはり夫は同じ会社だったのだ。

「里香子さん、アリサさんと同じタイ語教室なんですってね。彼女、里香子さんのこと、”美人だけど何考えてるかわからない”って言ってたけど、そんなことないわよねえ」

里香子は思わず息が止まった。


駐妻ネットワークを甘くみていた里香子。しかし現実はそう甘いはずもなく…?


奥様会で奮闘する里香子を刺す、夫の一言


何を考えているかわからない?

そんな風に見えていたのだろうか。精一杯気を遣ったつもりだったが、裏目に出てしまった…。影で言われていたことも、思いのほか里香子にショックを与えた。

「そうそう、私たちね、最近とってもいい習い事見つけたの。里香子さんも一緒にどうかしら?」

若妻たちはうっとりした様子で続ける。

「週1回、素敵な一軒家でフレンチのフルコースを習うのよ。出来上がったら先生がお料理に合うワインを開けてくださって、おしゃべりしながらいただくの。よかったら一緒にどう?」

聞いただけで面倒くさそうな習い事だ…。里香子は思わず目をつぶる。

「ありがとうございます。…でも私、お料理はあまり得意じゃなくて、まずは家庭料理から鍛えないと」

できるだけ正直にそう答える。そして「そうだ、お料理と言えば…!」と強引に話題を変えて、持ってきた出汁パックをせっせと皆に配ったのだった。



「里香子、お待たせ」

一軒家レストランのウェイティングバーで、ライトアップされた庭園を眺めながらシャンパンを飲んでいると、運転手がドアを開け、続いて彬が現れた。

「彬、お疲れ様!ね、私の運転手のソムチャイさん、まだ表にいた?彬の車で帰るから帰ってねって言ったんだけど、うまく伝わったか心配で。彬の運転手さんにも悪いから、帰りはタクシーで帰ろうよ」

夫の到着早々に、運転手をひたすら心配する妻がおかしいのか、彬は笑って「それが彼らの仕事だよ」とこともなげに言って、里香子を奥のダイニングエリアに促した。

ーまあ、そうなんだけど…。

里香子はなんとなく、彬の反応に違和感を覚える。本来は彬のほうがずっと周囲に気を使い、義理堅い性格なのだ。

しかし何はともあれ、せっかくの金曜日の夜、素敵なレストランに連れてきてくれたのだ。諍いは避けたい。




「どうだった?今日の奥様会は。支店長や部長の奥さんもいらしてたんだよね?」

タイ宮廷料理をヨーロッパ風にアレンジしたこのレストランは、コロニアル調で、なんともエキゾチックな雰囲気の有名店である。

「うん、そうなの。最初はちょっと入りづらい雰囲気だったけど…なんとか仲良くしてもらえそう」

里香子は、心配かけまいと詳細は語らずざっくりとまとめる。すると彬は眉をひそめた。

「え?入りづらい?俺も親睦会で皆さんにお会いしたことあるけど、すごく感じ良かったよ。里香子、もしかして悪いクセで東京にいた頃の仕事の話とかしなかった?ダメだよ、郷に入っては郷に従えっていうだろ」

里香子は、反射的にぐっと奥歯を噛みしめる。

仕事の話なんて、この状況で自分からするわけない。それどころか、里香子がこれまで何をしてたかなんて一度も聞かれていない。

バンコクに来て1週間、どれほど新しい人間関係の中で気を遣ってきたか。

これまでは、友達を作る、という意識さえないほどに、自然と友達に恵まれて来た。

でも駐妻として飛び込んだ今回は、これまで感じたことのなかった壁にぶつかりつつあることを、認めざるを得ない。

それは単に新人の洗礼的なものなのか、それとも里香子の振る舞いに間違いがあるからなのか。それすらも定かではない。

―彬なら、わかってくれると思ったのにな…。

その夜はなんとか笑顔で食事ができたものの、誰よりも自分を理解してくれていると思っていた彬の一言は、里香子に思ってもいないダメージを与えた。

東京にいるときは、気にも留めなかったような言葉。

でも今は、小さいけれど決して抜けない棘のように、里香子の心を刺していた。

―彬が言ってることは正論だし…私が神経質になってるだけだよね。

里香子はただ、「駐在中、順調な2人」でいたかった。よって、些細な傷を黙殺した。

異国の地で、傷はゆっくりと腐食していくとも知らずにー。

▶NEXT:6月14日 木曜更新予定
駐妻生活をこの上なく楽しむ友人・雪乃にも、事件発生?