―私、もしかして...?ー

結婚相談所に助けられながら、気が遠くなるほど壮絶な婚活を経て、晴れて結婚ゴールインを果たした女・杏子。

一風変わったファットで温和な夫・松本タケシ(マツタケ)と平和な結婚生活を送り、はや2年。

34歳になった彼女は、キャリアも美貌もさらに磨きがかかり、順風満帆な人生を歩む一方、心の隅に不妊の不安を抱えていた。

女子会マウンティングにもめげず、藤木というスパルタ医の元で体外受精に踏み切った杏子。“陽性”の結果を知らされたが、赤ちゃんの心拍が確認できず、流産の診断を下されてしまった。




-気持ちを新たに、再び妊活に挑むー

前向きになろうと決意はしたものの、流産を経験した杏子には、やはり深い心の傷が残っていた。

度重なる苦労の挙句、ようやく手に入れた幸せが無残にも消えてしまったときの、あの痛み。

悲しくて悲しくて、何日も一人部屋に引きこもった。小さな点の写ったエコー写真を握りしめ、この子と一緒にこのまま消えてしまいたいと何度思い詰めただろう。

再び治療を再開すると決めても、また同じ痛みを味わうのではと思うと、恐怖で足が竦む。

かと言って、杏子は「諦める」という選択肢も選ぶことができなかった。辛すぎる経験ではあったが、少なくとも“妊娠できる”ことは証明されたのだ。

言うまでもなく、不妊治療の成功率は、年齢によってどんどん低下していく。時間は1秒たりとも待ってはくれない。

前に進むのも、後に戻るのも恐い。

それはまるで、お天道様だとか神様という超自然的な存在に、自分がどれだけタフでいられるか試されているような気分だった。


やはり甘くはない不妊治療。「産まない」のも選択肢の一つか...?


完璧なエリート女の人生に、子どもは必要?


「杏子さん。あの、その...具合は大丈夫ですか?」

仕事に復帰し、オフィスで必死にPC画面に向かっていた杏子に、後輩の奈美が弱々しく声をかけた。

彼女は直属の後輩であるから、杏子の事情はある程度は話している。流産のことまでは伝えていなかったが、しばらく会社を休んでいたため、杏子の事情を察している可能性は十分にあった。

そして、まだ27歳の彼女が、杏子の“不妊治療”というものに戸惑いを感じているのは明らかだった。

30半ばの女に重たい事情を打ち明けられたところで、反応の仕方が分からないのは当然だろう。杏子も27歳の頃は、妊娠どころか結婚すらも他人事のイベントであったはずだ。

「うん、もう大丈夫よ。奈美ちゃんにも迷惑かけてゴメンね。そうだ、お詫びにランチでも行かない?」

「そんな、全然迷惑なんかじゃないです。...でも、ランチはぜひ!」

すると、奈美は複雑な表情を浮かべながらも、その澄んだ瞳を少しだけ輝かせた。




『TRATTORIA CREATTA』のテラス席につくと、仕事の緊張から一気に開放された。丸の内にありながら、皇居の和田倉堀を望む緑豊かな雰囲気は、非日常感がある。

そんな開放的な空間に気持ちがほぐれたのか、奈美も以前のような人懐こい笑顔を見せてくれ、二人はランチを存分に楽しむことができた。

「あの...杏子さん、こんなこと言ったら失礼かもしれないんですけど...」

しかし、食事もデザートに差し掛かった頃、奈美は重々しく口を開いた。

「変な意味じゃないんですけど...、杏子さんほど凄い人が、大変な思いをして不妊...治療までするなんて、あの...」

「奈美ちゃん。遠慮しないで、何でも言って」

奈美は、慎重に言葉を選んでいるようだった。センシティブな事情で社内に迷惑をかけていることは杏子も十分に承知している。

だからこそ、腫れ物に触るように接してこられるよりは、思うことは口にしてもらえる方が楽だった。

「実は、私は結婚に興味がなくて、子どもを産みたいと思ったこともないんです。少なくとも今は一生独身でも構わないと思ってるし、もし結婚したとしても、子どもを作る気はなくて...。

杏子さんは、インターン時代から私の憧れでした。綺麗で仕事もデキて、でもギラギラせずに正統派な感じで...何ていうか、完璧じゃないですか。

それでも......やっぱり杏子さんの人生に、子どもは必要なんですか?」

奈美は切実な表情で、まるで訴えるように杏子に詰め寄った。

疑念をそのままぶつけているというよりは、おそらく彼女なりに先輩を励まそうとしている必死さが感じられ、杏子は胸が締め付けられる思いがした。


複雑で難しい“女の生き方”。「産まない女」に、杏子はどう答える...?


「産まない女」と「産めない女」


「私もね...、本当に子どもが欲しいのかって思ったことは何度もあるの。でもね、不妊治療って、やっぱり痛いし辛いし、お金もかかるし、けっこう大変なのよ。その過程で、子どもを産みたい理由を探らない女はいないわ」

散々考えた末、杏子はシンプルにこう答えた。

正直、奈美がこれに納得したのかは分からないが、最後には「とにかく杏子さんを応援してます」と爽やかな笑顔を見せてくれたので安心した。

女の“生き方”とは、つくづく複雑で難しいと思う。

奈美の言いたいことは、杏子にもよく分かった。これほど妊活に必死になっている杏子だが、かつては彼女のように自分を「産まない女」派だと思ったことは何度もある。

仕事はやり甲斐があり、業界的には経済状況によるクビや減給などのリスクはあったが、賢く生活すれば、自分の一生分の面倒くらいは見れる自信があった。




それに杏子は元々恋愛下手であったし、結婚にメリットを見出せなかった時代もある。

浮気や嫉妬に悩まされたり、煩わしい思いをするのなら、一人気ままに仕事に邁進する人生も決して悪くはないと思っていたのだ。

だが、結婚にしても妊娠にしても、「しない」と「できない」には明らかな差があった。

特に妊娠に至っては、いくら自ら「産まない」選択をしている女でも、仮に「産めない」という事実を突き付けられたら、多少は狼狽えるのではないだろうか。

杏子も当初は安易な気持ちで病院に足を運んだが、不妊という事実を受け入れるにつれ、女としてのアイデンティティを奪われ、プライドがどんどん傷つくような感覚があった。

それに抗おうとするのは、きっと本能によるものだ。

実際、奈美に「それでも人生に子どもが必要なのか」と聞かれたとき、杏子は理屈抜きに「必要だ」と頭の中で即答していた。

同時に頭に浮かんだのは、アンパンマンのようなマツタケの笑顔、そしてお互いの両親の喜ぶ顔だった。



「不妊」に悩むカップルは6組に1組と言われている。

都心だけに絞れば、その確率はもっと高くなるだろう。

そして、杏子が「不妊」に向き合ってからは、何もかもがこの“確率”との戦いだった。

年齢や健康状態にもよるが、人工授精の成功率は約10%、体外受精30%、そして流産15%...。それ以外にも、治療の細かい段階でいくつもの確率を潜り抜ける必要がある。

それは杏子にとって、もはやギャンブルに近い感覚だ。以前出張でシンガポールに赴いた際、クライアントに連れられ、カジノに付き合ったことがある。

杏子はほんの数分でかなりの金額を失うハメになったが、ギャンブル通のクライアント曰く、カジノのゲームは単に運や確率だけで勝敗が決まるわけではないと言っていた。

周囲の状況、ディーラーの様子、そして自分の手札の強さを十分に把握した上で勝負に挑む。そうすることで、勝率がグンと上がるのだそうだ。

感情的になってはいけない。無駄に資金をつぎ込んでもいけない。一度負けたからと言って、気に病みすぎてもいけない。最後まで、あくまで冷静に「勝ち」に行く。

不妊治療も同じく、単なるコイントスではない。

その成功率を少しでも上げるため、杏子は日々藤木の元でホルモンチェックを行い、子宮がベストな状態に戻るのを辛抱強く待った。

そして、流産から3ヶ月後。

残った受精卵が、再び杏子の子宮に移植されたのだった。

▶NEXT 最終回:6月9日 土曜更新予定
杏子は無事妊娠できるのか...?藤木の正体、そして、新たに出会う意外な人物とは...?!