「駐在妻の特権」は期間限定の劇薬?日本では“中の上”クラスの女が手に入れた、カリスマ駐妻ライフ
駐妻【ちゅうづま】―海外駐在員の妻。
数多の平凡な妻の中で、一際輝くステータス。
それはちょっとした幸運で手に入れた期間限定のシンデレラタイム。
彼女たちがこれまでの人生で何を夢見て、何に泣き、何を喜び、何を成し遂げたのか、ここでは誰も知らない。
共通点はただ一つ、夫について、海外で暮らしていること。
駐妻ワールド。
そこは華麗なる世界か、堅牢なる牢獄か。
夫・彬の赴任に伴い、タイ・バンコクに来た里香子。
友人・雪乃と共にタイ語教室に通い始めるも、そこではマダムたちが駐妻マウンティングを繰り広げていた!
果たして里香子の行く末は―?
「それで里香子の駐妻番付はどこらへんになったわけ?」
ケイがドライマティーニを飲みながら、笑いをこらえて言った。ロンドン留学時代と変わらないすらりと細い脚は、パンツスタイルを引き立たせている。
ケイは、3年前からバンコクの日本人向け情報誌の編集者として働いている。この半年で立て続けにロンドン時代の旧友がバンコクに来たことを、顔には出さないが相当喜んでいるようだ。
今日も早速、バンコクセレブに大人気のルーフトップバー特等席を予約していた。雪乃と一緒に、里香子歓迎会を兼ねたディナーをセッティングしてくれたのだ。
雪乃は、歌うような調子でケイに答える。
「そうねえ…里香子はなんせ、夫は日本の誇る大企業勤務、いまどき家族車と運転手にメイドつき、高級アパートメント暮らしでしょう」
どうやら、”里香子の駐妻番付”について、雪乃なりの見解を述べているようだ。
「…それにちょっと目を引くくらい美人で、まだ28歳、駐在は初めて…。そして極めつけは―」
雪乃はそこまで言うと、“ご愁傷様”とでも言いたげな憐れみの目で、里香子をまじまじと見つめた。
里香子が持つ、もっとも駐妻を刺激するポイントとは?
「狙われる」日本人駐在員と、バンコクセレブの生活
雪乃は絶望的な調子で断じた。
「しかもご主人はクールハンサムな上に、Sっぽい見かけに反して相当な里香子LOVEよね。これはまちがいなく、相当やっかまれるわね」
「彬がハンサム!?高身長とメガネとスーツの上げ底効果って、すごいな…。早稲田の理工にいた頃なんて、ヘンなセーターとか着ちゃってなかなかな瑕疵物件だったんだけどなあ…」
そこに彬が出てくると思わなかった里香子は、決して”ハンサムキャラ”ではない夫の顔を思い出しながら、ぶつぶつ反論する。
里香子が夫の彬と出会ったのは、ロンドン留学から早稲田に戻って程なくして、先輩の口利きで行った出版社のアルバイトだった。
内容は資料整理だったり調査だったりとまちまちだが、不定期・単発で、ある程度のPCスキルが必要な割のいい仕事である。
里香子は政治経済学部、彬は理工学部。ましてやマンモス校のため大学での面識はなかったが、出版社で何度か顔を合わせているうちに世間話をするようになった。
すると意外な共通の趣味、お互いかなりの将棋好きだということが発覚し、一緒に将棋カフェ(という驚くべき場所があるのだ、東京には)に行くようになったのである。
…そこから気の長い春、5年の交際を経て、2年前に結婚した。
「昔がどうだったとしても、今はしゅっとしたエリートよ。現地の女の子に狙われないようにせいぜい気を付けて。ここに住んでると、よく聞くわよ、そういう話」
独身のケイは、完全に傍観者の立場でけらけらと笑った。
夜景のきらめくルーフトップは、まだまだ昼間の熱気が肌にからみつく。
そのとき雪乃が、何かを思い出したのか乱暴にカクテルグラスを置いた。
「そうなのよ!日本からの出張者を連れて行くとなると、たいてい2次会はいかがわしいお店!日本人の男ってお金あると思って狙われるみたい」
声を張り上げる雪乃を見つめながら、ケイは肩をすくめた。
「日本人駐在員がお金持ちっていってもたかが知れてるけどね…。タイ人富裕層はすごいよ」
そう言ってスマホを取り出し、インスタを開く。
「うちの近所のタイ人セレブ。って言ってもタイのいたるところに家があるけど。ガレージに車10台くらい並んでて、各車に運転手がいてさ」
ケイは、その中から1枚の写真を見せてくれた。
「数か月前に取材で話をきいたときなんて、今日は眺めの良いとこで夕飯にしたいなって言いだして。君も来る?って連れて行ってくれたの」
そこに写っているのは、ビルの4、50階くらいの高さまでテーブルと座席ごとクレーンで吊られ、空中絶景の中でコース料理を楽しんでいるタイ人たちの異様な光景だった。
それは、何か月か前までバンコクに期間限定で存在していた、”空中レストラン”だという。
「タイは相続税かからないから、お金持ちは一生お金持ちなんだよね。格差社会だから、富裕層は桁違い。おしなべて高いところとブランドが大好きみたいよ」
中流タイ人の平均年収は3、40万円くらいと言われているのに、富裕層は毎回数万円のコースもへっちゃら。
よく見るとインスタのタイ人マダムたちは、シャネルやセリーヌといったわかりやすいブランドのイブニングでキメている。しかも宙づり。ついでにソムリエも一緒に浮かんでいる。
「うーん…これは凄いわ。いくら夜景と高いところが好きだからってこんなとこで晩餐会しても風が吹くたび揺れて気絶しそう」
里香子が唸ると、雪乃もスマホを取り出した。
「そうだ里香子。今から教えるアカウント、カリスマ駐妻だから必ずチェックしてね。ここに出てくるものは、間違いなく駐妻の話題になるから」
駐妻インフルエンサーのインスタに写っていたものは?
日本の主婦からかけ離れた豪華な生活。それは駐妻特権
「カリスマ駐妻…?」
ぽかんとする里香子に、雪乃はさっとインスタを見せる。
そこに写る駐妻たちは、象に乗ってマリンブルーの海ではしゃいでいたり、お仕立てドレスのために生地サンプルを選んでいたり、ペニンシュラの高級スパでトロピカルジュースを飲んでいたり。
日本にいては普通の主婦には決して味わえない、華やかな生活がうつっている。
「これが、バンコクのインフルエンサーマダムたちね。日本では『中の上』主婦も、夢の暮らしに手が届くと駐妻デビューしちゃうのよね」
ケイはそう言いながら、冷ややかな目でカリスマ駐妻のアカウントを見つめている。
「それにしてもどうして駐妻って、せっかく海外に来てまでみんな同じものに飛びつくのかしら。チョンノンシーのお仕立てワンピースも、Muakの帽子も、MUZINAの靴もかぶりすぎ!」
どうやらケイは駐妻界に批判的だ。彼女たちとは一線を画しているという自負があるらしい。
たしかに自分のスキルと稼ぎで異国に暮らすケイからすれば、夫についてきて優雅に暮らす駐妻たちが鼻につくのだろう。
里香子でさえ、どちらかといえばまだケイの気持ちの方がわかるような気がした。
しかしそうも言っていられない。新参駐妻が、自分から距離を置いてしまったらそこで試合終了だ。
里香子は神妙な面持ちで、雪乃が次々に挙げていくインスタアカウントをスマホにメモするのだった。
◆
「ただいま」
家に戻った里香子が、急いでシャワーを浴びて、夕飯を温めていると彬の声がした。
「お帰りなさい。残業大変だったね。お風呂湧いてるよ」
「ひとりだとバスタブ使わなかったから久しぶりだ、ありがとう」
里香子よりも3か月先にタイに来ていた彬は、それまでシャワー生活が続いていたようだ。嬉しそうにそう呟いた。
彬は、きっちりアイロンをかけたYシャツの袖を緩め、細いフレームのメガネを外す。そのしぐさが、彬の整った顎のラインや薄い唇を際立たせた。
里香子は、彬のことを「ハンサムだ」と言ってくれた雪乃の言葉を思い出していた。
―確かに、口下手をクールと解釈すれば、彬ってけっこう素敵かも…。
寝室のドアの陰からじっと観察していると、気づいた彬がうわっ、と小さく飛び上がる。
「何だよ」
「何でもない!お風呂入ったらごはん食べるでしょ?準備できてるよ!…っていっても、作ってくれたのメイドのノイさんだけど」
笑いながらパタパタとダイニングに戻る里香子に苦笑しながら、「お腹すいちゃったから風呂より先に食べるよ」と彬も食卓につく。
「ノイさんの和食の腕前、すごいんだよ。さすが日本人駐在員のうちに派遣されて20年だよな。里香子も食べたら?」
「うん、ありがとう。ちなみにお味噌汁だけ私がいま作りました。でもさ、食事くらいは私が作ろうかな」
彬は驚いた顔で「珍しく殊勝だな」とつぶやく。
「だってさすがに、あれだけガリガリ働いてた頃とギャップが大きすぎて、戸惑っているのよ。妻界での社交スキルも低いし…」
そう、ここ数日で感じたこと。
それは東京でコツコツ積み重ねて得た地位や、会社員としての社交術は、駐妻界ではほとんど役に立たないという事実だった。
ここで重視されるのは、なにか全く違うもののような気がする。
…そういえば、駐妻たちから彬については探りを入れられたが、里香子がこれまで何をしていたのかを訊かれることは一切なかった。
「そうなのか?…まあ焦りは禁物だよ、まだ始まったばっかりだ。それに」
彬は、表情を崩さず味噌汁をすすりながら続ける。
「里香子がバンコクに来てくれて俺は嬉しい」
里香子はきょとんとして彬の顔を見つめた。里香子の視線に気づいているのかいないのか、淡々と食事をしているように見えるけれど。
ーやっぱり夕食くらいは私が作ろう。
里香子は決意を新たにしたのだった。
▶NEXT:6月7日 木曜更新予定
順調かに見えた里香子のバンコク生活に、不穏な空気が…!?