入社3年目の1986年、元町工場時代。前列右から2人目が豊田章男社長。(写真提供=トヨタ自動車)

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「僕は『お坊ちゃん』と呼ばれますけど、違うんです。『超お坊ちゃん』なんです」。トヨタ自動車豊田章男社長はそう話す。真意はどこにあるのか。「創業家の三代目で苦労知らず」とも言われるその素顔に、中日新聞の記者が迫った。1年間の連載企画をまとめた『ドライバーズシート 豊田章男の日々』(中日新聞社)より4つのエピソードを紹介しよう――。

※本稿は、宮本隆彦・編著『ドライバーズシート 豊田章男の日々』(中日新聞社)の一部を再編集したものです。

■「生まれや地位にかかわらず、心を開く」

「僕は生まれはいいけど、育ちが悪い」

豊田章男社長が以前よく使っていた「つかみ」のトークだが、ここ数年、こんなフレーズに取って代わった。

「僕は『お坊ちゃん』と呼ばれますけど、違うんです。『超お坊ちゃん』なんです」

章男社長と米国留学時代から40年近い付き合いがある投資顧問会社スパークス・グループ(東京)の阿部修平社長(63)の「超お坊ちゃん」を巡る解釈が面白い。「結構、意味は深い。お坊ちゃんと対比させる言葉として、豊田さんなりに使っていると思う」

両者は、どう違うのか。「お坊ちゃんは家柄とか学歴とかで目線を合わせているようなところがある」。一方で「超お坊ちゃん」は「人に上下の区別をつけない」と指摘する。「豊田さんはどんな人にも、ものすごく好奇心があるし、そこに本質を見たら生まれや地位にかかわらず、心を開く」

■褒められたいという欲求がない

トヨタ自動車社内でテストドライバーの成瀬弘さん(故人)に弟子入りしたのはその典型。タレントのマツコ・デラックスさんともテレビ出演を機に仲良くなった。

人を肩書で判断せず、その分野に一番詳しい人と話そうとする姿勢は社内にも広く伝わる。業界は急速な電気自動車(EV)へのシフトや自動運転の登場で百年に一度の変革期にある。厳しい環境と向き合う社員が「この社長の下で頑張ろう」と思える求心力は単に創業家だから生まれるものではない、と阿部さんはみている。

章男社長が「兄弟のような存在」と呼ぶ友は「豊田さんには、今褒められたいという欲求がない。後世に評価を委ねるというのは、やはり超お坊ちゃんじゃないとできない」とも言う。

若いころはトヨタの創業家であることにある種のコンプレックスを感じ「名前を隠そうとしていた」という章男社長。公然と自身を「超お坊ちゃん」と称するようになった意味は、トークで起きる笑いとは違ったところにあるようだ。

■「僕との関係で左右されない人だと感じた」

長年、豊田章男トヨタ自動車社長と付き合ってきた先輩社員がいる。最初の配属先だった元町工場の事務所で前の席に座っていた泰江孝男さん(67)だ。

大学時代ホッケーに打ち込んだ章男社長は、トヨタ野球部の4番打者でもあった泰江さんを、自ら食事に誘い、慕った。「泰江さんはアスリートとしてある意味プロフェッショナルで自分に自信を持っていた。僕との関係で左右されない人だと感じたんだ」と章男社長は振り返る。

出会いから数年後の本社勤務時、泰江さんは「僕がいつもそばにいることで迷惑をかけていると思います」と章男社長から言われた。部署は違っていたが、お昼は社員食堂でいつも一緒。「豊田家の御曹司」と親しいことで、ねたみの対象になっていた泰江さんをおもんぱかった言葉だった。

「僕は、泰江さんが出世していないのがすごくうれしいんです。これで出世していたら『やっぱり泰江は』って言われてしまうから」。40代半ばで役員になった「章男さん」から独特な言い回しで親愛の情を伝えられたこともある。

トヨタ社長への就任が内示された際にも真っ先に報告があり「私が社長になってやることはトヨタを向こう百年継続させるための基礎づくりです」との決意を聞かされた。

■35万人のトヨタと50人ほどの町工場

総務部で長く働いた泰江さんは、「章男社長」が誕生する前年の2008年春にトヨタを離れた。東京の小さな樹脂部品メーカーから「次の社長に」と数年前から誘われていた。「トヨタで章男さんを守る」と心に決めていたが、別の立場でこそできる手助けもあると考え直した。

以来、会う回数はめっきり減った。でも「どこかでつながっている」との感覚は常にあった。

3年後、泰江さんは予定通り社長になり、しばらくして会う機会があった。「同じ社長だね」。開口一番、章男社長は言った。世界で35万人の従業員を抱えるトヨタと、50人ほどの町工場の社長が同じということもないだろう。でも、うれしそうに「同じだね」と繰り返した。

■正体を隠すための名前「モリゾウ」

「モリゾウさん」。豊田章男社長は車好きが集まるイベントでそう呼ばれる。司会者やサインを求めるモータースポーツファンが親しみを込めて呼び掛ける。

モリゾウはハンドルを握る際のドライバー名。副社長だった2007年、ドイツで開かれる耐久レースに出場する際「危険なのに立場が分かってない」「道楽だ」と冷たい目で見られ、なるべく目立たないようにと使ったのが始まりだ。ユーモラスな響きは、父の章一郎名誉会長が運営組織のトップとして心血を注いだ05年の「愛・地球博」の公式キャラクター「モリゾー」にあやかった。

正体を隠すための名前だったが、モリゾウのブログを始めたり、他メーカーの車にコメントしたり。次第に企業トップの立場では言えない本音を語るツール(道具)として活用するようになる。「モリゾウは豊田章男の素の部分を引き出してくれる」という。

■本音を伝えるコミュニケーション道具

この呼び名は社内にも浸透した。16年、あるラリーの会場で、出場するトヨタ社員から「きょうは社長じゃなくてモリゾウさんですよね」と声を掛けられた。「もう、ぽんっと距離感が近くなってね」。自由闊達(かったつ)な雰囲気が柔軟な発想のクルマづくりにつながることを期待する。

17年4月の社内向けメッセージでは「皆さんの中にモリゾウをつくってみてはいかがですか」と呼び掛けた。部下の本音を聞き出せるよう、上司の肩書を外して向き合ってほしい。モリゾウという存在に助けられてきた実感を込めた。

自分を消す隠れみの、本音を伝えるコミュニケーション道具、そしてモリゾウを持つことの勧め――。モリゾウとの関係の変化に、章男社長が経営者としてたどった10年が表れている。

■モスクワ五輪を目指すホッケー日本代表に

シャープな顔立ちに、ふさふさの頭髪、鍛え上げた太もも。20代前半の豊田章男社長は、セピア色の写真の中でスティックを巧みに操り、躍動している。

中学まではサッカー少年。名古屋を離れて進んだ慶応高で、いとこに誘われてホッケー部に入った。慶応大でも体育会ホッケー部で仲間と練習や試合に明け暮れた。1980年のモスクワ五輪出場を目指した日本代表メンバーでもあった。

「スピードと体力があり大学生では関東でピカイチだった」と慶応大でチームメートだった大森文彦(あやひこ)さん(61)は振り返る。左フォワード(FW)の大森さんのセンタリングをセンターFWの章男社長がシュートするのが定番の攻撃。四年生の最終戦となる早慶戦でもそうやって点を取り、有終の美を飾った。

■「中途半端が一番危険」

章男社長は2015年、大リーグのイチロー選手(43)と対談する機会があった。「ピンチに強いのはなぜ?」と問われ、答えた。

「危機の場合は、そこに近づいた方が安全だという意識がどこかにある」

ホッケーではサッカーでいうコーナーキックのような権利が相手に与えられることがある。その時、チームで一番足が速かった章男社長の役割は、思い切りシュートする相手に向かってゴールラインから突進し体を張って防ぐことだった。

出足が遅れると、時速150キロを超えるシュートボールが上がってきて体や顔に当たり、かえって怖い。「中途半端が一番危険。近づくことが安全なんだと、体で覚えた」

社長就任後、大規模リコールで米議会公聴会に出席したり、女性役員(当時)が規制薬物を輸入した麻薬取締法違反容疑で逮捕(後に起訴猶予)された際に周囲の反対を押し切って記者会見したり。章男社長には、危機の渦中に飛び込んで会社を守るイメージがある。ホッケーが形づくった行動原理は今も、章男社長の奥深い所に根付いている。

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宮本 隆彦(みやもと・たかひこ)
中日新聞 記者
1971年生まれ。95年、早稲田大学を卒業し、中日新聞社入社。敦賀支局、大垣支局、名古屋本社社会部、経済部、ベルリン特派員などを経て、2015年から名古屋本社経済部。

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(中日新聞 記者 宮本 隆彦)