純粋な女を悪魔に変えた、8年という月日。“妬みの標的”となったトップセールスが抱える苦悩とは?
ここはとある証券会社の本店。
憧れ続けた場所についに異動となった、セールスウーマン・朝子。
そこでは8年前から目標としていた同期の美女・亜沙子が別人のように変わり、女王の座に君臨していた。
数字と恋をかけた2人のアサコの闘いの火蓋が、今切られるー。
念願の本店に異動になった朝子だったが、同期・今井亜沙子は、数字の出来ない先輩に土下座をさせた上に、後輩を追い込んで逃亡させるという傍若無人な女だった。
彼女はいかにして、女王と呼ばれる様になったのか…?それは、営業という職場においては、必然とも言える経緯であったー。
8年前の入社式の日。
亜沙子は沢山の同期に囲まれていた。少し学生気分も残しつつ、無邪気な気持ちで、これからの社会人生活に向けて期待で胸を脹らませる。
昔から亜沙子は、人一倍負けん気が強い。同期とはしゃいで見せながらも、心の底では”絶対に負けたくない”という思いを密かに持っていた。
初めての配属先は、池袋支店。
支店に初めて足を踏み入れた瞬間、亜沙子は浮かれていた自分がいかに甘かったかを思い知る事になる。
そこは、社会人生活を楽しむ場所とはほど遠い。
鳴りやまない電話の音。目をチカチカさせる、刻々と動く株価を映すPC画面。
与えられた席に座りながら、決して笑う事なんて許されそうもないこの雰囲気に、亜沙子はただただ圧倒されていた。
机の上には、パソコンと電話、そして自分の名前が書かれた名刺一箱のみが置かれている。
直属の上司・石川は仕事熱心だが、お世辞にも賢いとは言えない感じの男性だ。緊張した面持ちの新人を集めて、熱い眼差しを投げかけながら指示を出す。
「とりあえず、その名刺がなくなるまで新規開拓してこい!以上!」
「はい!」
勢い良く返事をし、その日から亜沙子の戦いは始まった。
池袋支店に配属された新人は計10名。彼らの成績はランキングにされ、毎日、支店の全員に配信された。一体、誰が一番優秀で、誰が使えない奴なのか?支店の先輩達が楽しそうにそれを見ているのだ。
夕方になり、石川が「新人、集合!」と号令をかけると、強ばった表情の新人達が石川を囲む様に一列に並ぶ。
同じ課に配属された新人は、亜沙子を含めて計3名だ。
「今日、何件開拓出来た?」
石川は椅子に座りながら、直立する亜沙子達に向かって尋ねる。すると、熊田という同期の男がか細い声で答えた。
「1件も出来てないです…」
石川が机を叩く音に、亜沙子はビクッと肩を震わせる。
「お前、いつになったらできんだよ!お前が会社にいるだけで金かかってんだぞ!自分の給料くらい、自分で稼げよ!」
最初こそ、罵倒する上司に亜沙子はぎょっとした。しかし1週間もすると、その姿に何も感じなくなっていたのである。
追い込まれていく新人達。そして次第にゴミ扱いされ始める者も…!
席に座っている間は、電話をかける手を止める事は許されないという圧迫感がある。かといって外出をして何も成果がないと一体何をやってたんだ?となじられる。
どこにも逃げ場がなく、夕方の管理職から放たれる「集合!」と言う言葉に、新人達はビクビクする日々を過ごしていた。
新規開拓を始めて一ヶ月が経とうとする頃、亜沙子はあることに気付く。それは、「自分はきっと営業に向いている」という事だった。
誰に何も言われなくても、配属された新人の中で最も多く電話をかけ、少しでも話を聞いて貰えたら飛び出す様にオフィスを出て、すぐさま訪問しては開拓していく。
人一倍、努力することを厭わないだけでなく、亜沙子には”また会いたい”と顧客に思わせる魅力があった。はっと目を引く見た目だけでなく、その余裕を感じさせる語り口は、聞いてみようと思わせる力があった。
そうして新規開拓を始めて二ヶ月経った頃、亜沙子は大手企業を見事開拓し、3億円の債券を約定。一躍、支店中から注目を浴びる存在となったのである。
―これで一先ずホッとした。あんな課長に怒鳴られたり同期に負けるくらいだったら、どんなにキツくても汗水流して働く方がよっぽどマシだわ…。
亜沙子の仕事が軌道に乗り始めた頃、新人の中のヒエラルキーは誰の目にも明らかな状況となっていた。
亜沙子を筆頭とした一軍と、イマイチぱっとしない二軍。そして、完全にお荷物扱いされている三軍に分かれている。
ある日のお昼、亜沙子がお昼を食べに行こうとしたときのことだ。三軍に所属する熊田が、男子トイレからガサガサとコンビニの袋を片手に慌ただしく出てきた。
亜沙子が声をかけようとしたが、熊田は何やら口をモゴモゴさせて亜沙子の目を避ける様に足早にオフィスに戻って行く。
「今のは、一体何…?」
亜沙子は一瞬ポカンとしたが、次の瞬間、ハッとした。
―もしかして、 熊田君。トイレでお昼食べてた…?
彼は普段から昼食に行っている気配がなく、一体お昼はいつ食べているのかと前から疑問に思っていたのだ。
亜沙子はその事に気づき、急に体がゾワっとするのを感じる。
熊田は要領が悪いのか、配属されてから一件も顧客を開拓出来ていない。
成果も出ていないのに、昼食に行くとは言い出せないのだろう。若しくは、成果も出さずに昼食を取っていたら課長に怒鳴られたので、隠れてお昼を食べる様になったのかもしれない。
―トイレで食事しなくちゃいけない状況になる前に、なんとか必死でやって成果を出すって選択肢はないわけ…?
亜沙子はそこまでして会社に居座る熊田に、同情というよりも呆れてしまうのだった。
「今井さんは新人なのに、予算以上に数字やってるんだぞ!この数字恥ずかしくないのか?!」
石川は、亜沙子が頑張れば頑張るほど、亜沙子と比較して他の先輩社員や同期を詰めていく。
「今井さんは、いいお客さんを貰ってるんだから、負けても仕方ないわよ…。」
ある日女子トイレで、同じ課の同期の女子が、課の先輩からそんな風に慰められているのを耳にしてしまった。
―お客さんを貰った事なんて一度もない。全部、自分で苦労して開拓したのに…!
メキメキと成果を出す亜沙子。それを面白く思わない同僚からの仕打ちとは?
最初こそ亜沙子も人並みに傷ついたりもしたが、次第にこんな事でいちいち立ち止まっていてはキリがない職場なんだと気付いた。
それもそのはず、成果を出せば出すほど、周りからの妬みは日増しにエスカレートしていくのだ。
ある日の夕方、亜沙子の席に隣の課の同期の男がやってきた。
「今井さん凄いねー。3億円の債券販売。」
同期の中にいる時はリーダーの様に仕切りたがる彼が、この日はやけに下手に話し始めた。
亜沙子は、「うん、まあ。」と曖昧な返事をする。
「俺なんか、女に負けてんじゃねー!って課長から、詰められて大変なんだよね。今月は一番にならないと俺、マジでヤバいと思う。」
同期の男は自嘲気味に笑って話すのだが、その語りぶりがなんとなく鼻につく。
「課長から、今井さんが何でそんなに開拓できるのか聞いてこいって言われてさー。…どうせ、枕営業してんでしょ?」
ニヤニヤと笑う彼を見て、亜沙子は一瞬、自分の耳を疑った。
―この人、今なんて言った?
頭にかーっと血が昇り、思わず大きな声に出していた。
「そんなことする訳ないでしょ?!普通にやってれば、あのくらい、開拓できるから!」
それでも彼はニヤニヤしながら、「そんな必死になんないでよ」と言い残し、席に戻って行った。
◆
それから数日経った夕方、石川がいつも通りに新人を集めた。そしてみんなの前で亜沙子に向かってこう言い放ったのだ。
「言っておくけど、数字やれとは言ってるけど、俺は女を売ってまでやれとは言ってないからな!」
近くの席の先輩社員たちが、その発言を聞いて嬉しそうに目配せしあっているのが視界に入る。
―何でこんな事言われなきゃならないの?ここにいる誰よりも私が頑張ってるのに…!
亜沙子は、怒りで顔が真っ赤になるのを感じた。
「わたしは、そんな事してません!」
感情を露にした自分の姿に、石川は若干たじろいだ様だが、責任逃れをするかの様にこうつけ加えたのだった。
「俺の耳にはそういう話が入ってるんだよ。…俺はそこまでする必要ないって言いたかっただけだから。」
妬みというものは、他のどの感情よりも恐ろしくて強力だ。
同僚の嫉妬から生まれた濡れ衣は、尾ヒレをつけてあっという間に広まっていく。
自分の噂が広まるにつれ、亜沙子は悔しい気持ちを通り越し、次第に同僚たちを嘲笑うようになっていた。
―人を妬まなきゃならない情けない人生を送る位なら、妬まれて嫌がらせをされる方がまだマシ。
結局彼らは、数字で亜沙子を打ち負かすことができない負け犬なのである。その姿のなんと惨めなことか。
亜沙子は、必ず自分はトップセールスの座を手に入れることを誓った。
気がつけば、人から何を言われても気にしない強靭な精神力を手に入れ、他人を蹴落とすことへの罪悪感はとっくの昔に捨ててしまった。
もう、引き返すことは出来ないのだ。
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今井亜沙子と本店長との関係とは?