―俺、何のために頑張ってるんだっけな...。

メガバンクのエリート銀行員・岩崎弘治(40歳)は、最近こんな疑問に駆られている。

仕事はイケイケでも、プライベートでは長年連れ添った妻に逃げられ、特筆すべき趣味もない中年男。

だが、いまいちパッとしない寂しい日々を送る彼の前に現れた美女・秋月瞳(30歳)の存在によって、男の生活はガラリと変わるー?

これは、出世争いに必死に勝ち抜いてきた社畜オヤジに突如訪れた、新橋を舞台に繰り広げられるファンタジーのような純愛物語である。




夜の銀座を、弘治は小走りで駆け抜けていた。

銀座独特の艶っぽい澄ました空気が、新橋に近づくにつれ、徐々にサラリーマンの身の丈に合った心地いい雰囲気に変わっていく。

夜22時の新橋駅前は、スーツ姿の多くの人で溢れていた。顔を赤く染め、少々大き過ぎる声で会話を交わすグループが多い。

緩んだ顔。弾む笑い声。日本はなんと平和な国だろう。

―やっぱり、タクシーに乗るべきだった...。

初乗り410円、“ちょっとそこまで”という乗り方が浸透しつつある昨今でも、弘治は相変わらずタクシーの近距離移動に躊躇いがある。

たった1メーター程度の距離を告げるとき、運転手に不機嫌な返事をされるくらいならば、多少の体力を削り、汗をかいた方がずっとマシだと思っていた。

だが、その先に自分を待つ美しい女がいるとなれば、話は全く別ではないか。

こんな状況でも、日頃のチキン心を捨てられず汗ダクになった自分が情けない。さらに、ハンカチすら持っていないことにも愕然とする。

慌ててコンビニでハンカチと制汗剤を買い、急いで『ビストロ ミヤマス』に到着すると、瞳はいつものようにピンと背筋を伸ばし、カウンター席に座っていた。

―うゎ、本当にいる...。

「遅いです」

そして、ぷぅっと頰を膨らませた彼女の顔を見た途端、必死にケアした汗が、またしても全身から吹き出していた。


美しい部下との“デート”に、オヤジは不本意にも舞い上がってしまう...!


「丸裸に、しちゃおうかな」


「“デート”で新橋に誘われるなんて初めて。岩崎さんて、意外と“オジサン”なんですね。でもこのお店オシャレだし、すごく居心地がいい」

―で、デート...?オジサン...?

破壊力のあるワードが並び、弘治はまたしても汗が止まらなくなる。オヤジになると、ちょっとした刺激で滝汗が流れるのだ。

そして今さら気づいたが、瞳の言う通り、若い女性にとって新橋は“オジサンの街”以外の何物でもない。

人目と自分自身のホーム感のために咄嗟に思いついた場所であったが、弘治は瞬く間に羞恥と後悔の念に駆られた。

しかし、瞳はそんなオヤジを尻目に、ケロっとした顔でグラスの赤ワインに口をつけている。その横顔に、思わず目を奪われた。

細く真っ白な首の喉元がゆっくりと上下する様子、背筋から腰の辺りの見事な曲線、そしてスカートの先に覗く艶めかしい美脚。

なんせ、こんな風に女性と二人きりになるなんて、ここ数年...いや、記憶の限りでは、もっと長く経験していないのだ。それも、10歳も年下のこんな美女と。

視線と緊張と滝汗を悟られないように、弘治はさり気なくイスの距離を少しだけ空けた。

「やだ。岩崎さん。もしかして緊張してる?どうして離れちゃうんですか」

「い、いや、別に...」

「もっと楽にしてください。色々と話を聞きたいだけですから。私、今夜は岩崎さんを丸裸にしちゃおうかな」

そして、“妖艶”としか形容できない瞳の微笑みを目にしたとき、弘治は「これは夢だ」と自分の頰を殴りたい衝動に駆られた。




一体、自分の身に何が起こったというのだろう。

妻に捨てられ、人生の指針を失い、単なる惰性のように仕事にだけ専念してきた日々。

若い頃は弘治だってそれなりに女性にモテたこともあったが、今となっては何もかも投げやり状態の“しがない”オヤジだ。

大した手入れをしていないスーツも革靴も、こめかみに見え隠れする白髪もダラしなく緩んだ腹も、女性と肩を並べる仕様ではない。

そもそも、弘治は若い女性の正しい扱い方すら分からない。よって、ただ寡黙風な男を装いながら、内心の焦りを必死に抑えてチビチビと酒を飲むことしかできなかった。

「岩崎さんは、独身ですよね」

だが瞳は何が楽しいのか、ニコニコと笑顔を浮かべながら弘治を見つめ続けている。その見事なアーモンドアイの眼差しは、とても直視できる代物ではない。

「い、いや。僕はバツイチだよ」

「だから、独身ですよね」

強い口調で言われ、弘治はたしかに自分が独身という括りの中にいることに気づく。

10年以上の結婚生活を終え、寂しい独り身となった自分を何となく“人生の離脱組”のように考えていたが、“独身”という言葉の向こうには、自由と希望という名のキラキラした海が広がっているように思えた。

「あ...ま、まぁ、そうか」

「私も独身なので、仲間ですよ」

そうして瞳は、弘治が離したイスの距離を再度グッと寄せる。同時に、昼間よりも甘さを増した彼女の香水の香りがふわりと漂った。

そのとき、随分と昔に忘れていた“キュンキュン”という青春時代の感覚が、弘治の胸に久しぶりに蘇っていた。


このままトントン拍子にイイ感じに...なんて、甘かった。


自虐ネタで、女を炎上させたオヤジ


しかし、まるで別世界へ迷い込んだかのような時間は、そう長く続かなかった。

色気も魅力もたっぷりの美女に興味を持たれ、そのままトントンとイイ感じに...なんてロマンチックな展開は、所詮ファンタジーのような作り話なのだ。

そう。通勤電車のオヤジたちを悶々とさせ、社会現象にまでなったあの不倫小説のように。

「岩崎さんて、思ったよりツマラナイ」

弘治が気づいたときは、もう手遅れだった。

あれほどニコニコと楽しそうに自分を見つめていた瞳は、不機嫌そうに遠くを眺め、もうそろそろお開きだと言わんばかりに鞄とジャケットを手にしている。

「どうしてそんなに自虐的なんですか?聞いてる私が情けなくなるんですけど」

驚くほど冷たい目を向けられ、弘治は一気に酔いが冷めた。

瞳に距離を詰められ気が緩んだ弘治は、若い女性と何を話すべきかもよく分からず、また仕事という共通の話題を持ち出すのも野暮な気がして、つい“離婚”という自分の身の上話を持ち出してしまったのだ。

―僕なんか、所詮嫁に逃げられた情けない男だから。
―趣味もない。妻もない。仕事しか生き甲斐のない40男なんて、寂しい生き物だよ。

もちろん、瞳に慰めや共感を求めたワケではない。

だが、実際に弘治にとって、直近に起きたイベントと言えば離婚しかなかったし、本当に他に話題がなかったのだ。

いつまでもダンマリと澄ましているのも変だし、自分なりに彼女とコミュニケーションを取ろうとした結果だった。




「ご、ごめん......。えっと......もう遅いし、そろそろ帰ろうか...」

気まずい空気に耐えられなくなり、弘治は会計を済ませる。

頭の中は、自己嫌悪で一杯だった。美人の部下を相手に必要以上に舞い上がり、その気になり、他人が聞いても何一つ面白くない不幸自慢をするオヤジ。それが自分なのだ。

ここしばらくは瞳を意識して浮き足立っていたが、そんな日々ももう終わりだろう。

今後も彼女とはオフィスで何食わぬ顔で接しなければならないと思うと、とにかく気が重かった。

明日はなるべく早く仕事を切り上げ、いつものように独りこの新橋で、自分と同じようなサラリーマンに埋れて酒を飲もうか。

「...ご馳走さまでした」

「いやいや...」

瞳は不機嫌なりにも、丁寧に礼を言ってペコリと頭を下げる。

だが弘治は、これ以上少しでも自分からボロが出るのが恐ろしく、サッと席を立った。その時である。

「あの...」

瞳が俯きながら、弘治の腰の辺りのシャツを掴んでいた。

「...私、また岩崎さんと二人で新橋で飲みたいです。次はいつ会えますか?」

上目使いで大きな瞳。怒ったようにも照れたようにも見える、物憂げな表情。

「...でも次は、他の女の話は、絶対にしないでください」

―弘治、調子に乗るな。また大恥をかくぞ...!!

頭の中では冷静な自分がしきりに警報を鳴らしていたが、瞳の何とも言えないいじらしいセリフに、弘治は完全にノックアウトされていた。

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徐々に瞳と距離を縮め、ウハウハの社畜オヤジ。だが、彼女にヤバめな異変が...?!