「絶対に前を向いて笑顔で生きると決めています」(筆者撮影)

今後の人生を「シングルマザー」として生きようと決める女性は後をたたない。金銭的には豊かとは言い難い状況かもしれない。それでも懸命に生き、前を見据えて力強くほほ笑む姿がある。そんな彼女らの生きざまのリアルに迫る連載の第2回。

今回は、精神障害を抱えながら自立できる道を模索している、歌島碧音さん(44歳)を取材した。


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歌島さんとは、小さな店が立ち並ぶ、昔懐かしい商店街の中にあるファミレスで待ち合わせた。しばらくして、入口の来客を知らせる音が鳴り、扉を見るとコートがずぶ濡れの女性が立っている。あいにくの雨だったがレインコートを羽織らずに自転車で来たらしい。「ビショビショになっちゃいました」と苦笑いしながら濡れたコートをイスにかけて乾かす。明るい物言いが印象的だ。

夫の束縛が強く、結婚生活自体が大きなストレス

夫とは、同じ会社の異なる部署で同僚の紹介で知り合った。社内イベントで意気投合し、付き合ってから3カ月、23歳で結婚に至った。24歳で長女を出産。順調に見えた結婚生活だったが、歌島さんの中では不満が大きくなっていく。

「結婚をしたら彼が家族ぐるみで入会している新興宗教は抜けてくれる約束でした。でも一向に辞める気配がない。土日のたびに、集会の勧誘の電話が鳴りました」

2人目の子を妊娠して間もない頃には、夫の留守中に「初節句のお祝い」と称し、3人の義姉家族らが一同に押しかけてきた。実際は宗教の協力の依頼だった。大きなストレスを抱えた歌島さんは次の日に流産している。

また、夫の束縛がひどく、「男友達は全部切れ」「外に出るな、出歩くな」と言ってきた。信頼されていないことも悲しかったが、もともと男友達が多く、活動的だった歌島さんは結婚生活自体がストレスとなっていった。

「要求ばかりするくせに、自分に言ったことはいっさい守らない。外面は愛妻家として通っていましたが、ただ妄想で人を縛り付けるだけの人。私もだんだん優しくできなくなっていきました」

10代の女性と家を出て行った夫と、統合失調症の発病

27歳のときにパートに出ることが許された。気分転換のように仕事を楽しむ歌島さんをよそに、その頃から夫はタトゥーを入れたり、香水をつけたりし始める。今までにないような色気づいた行動が多くなった。

それから間もなく、歌島さんが仕事で夫に子どもを預けると、決まって知らない女性と3人で出かけていることが発覚する。

「当時子どもは5歳でしたから、一部始終を私に教えてくれるんですよね。『今日もお姉さんとお出かけしてきたの』とか」

さらに夫は深夜2〜3時にメール交換することが多くなった。完全に浮気だと確信していた歌島さんは「メールを見せてよ」と言うと、夫は逆に「てめえは家のことが適当なクセに、ふざけんなよ」と内容をすり替え、声も荒らげた。娘が「ママをいじめないで」と2人の間に割って入ることもあったという。

ある日、夫は離婚届だけを持ってくると、何の話し合いもなく、家を出ていった。

「夫は10代の女性と不倫していて、私と子どもを捨てて出て行きました。親権などの大切な話をいっさいせずに帰ってこない日々が続いたので、私はパニック状態になってしまって。娘の世話ができなくなり、身内に連絡をしたら、兄と姉が病院に連れていってくれて。『統合失調症』と診断されました」

統合失調症とは、幻覚・幻聴を伴う精神障害のこと。日本では2002年まで「精神分裂病」と呼ばれていた病気だ。実際、幻覚幻聴にひどく悩まされていた時期があった。

「だれかが私をずっと監視していて、脅すような大声や叫び声などの幻聴がありました。物音がしたら、確認しに行かないと気が済まない。ひどいときはイヤホンに大音量の音楽を流し、マスクに黒いサングラスをしないと、怖くて外に出られなかったです」

そんな中、夫は自ら離婚調停を立ててきた。

「早く離婚を成立させないと若い女性に逃げられると思って、焦っていたんでしょうね」

歌島さんは身勝手な夫のことを見限り、離婚が成立。そして「子どものために、早く社会復帰しないと」とスイッチが入ったという。生活するために、病気を隠し、薬漬けになりながらも正社員のOLとして働き始める。

「統合失調症のことは、会社では隠していました。たぶん、精神障害のあるシングルマザーは病状を明かさずに働いている人が多いんじゃないかな。言ったところで理解はしてもらえないので」

ただ、薬の副作用で頭がボーッとし、アクティブに動けないことがよくあった。当然やる気がないとみなされ、社員のいじめの対象となっていった。

最初の調停から1年もしないうちに、今度は夫から養育費減額の調停を立てられることになる。

「相手の女性は未成年で母子家庭だったことから、慰謝料は取れなさそうだと、知人の弁護士から聞きました。夫には慰謝料を貰わない代わりに、養育費をきちんと支払ってもらうことで合意していました。しかし、すぐに養育費減額の調停を立てられた。最初から計画していたのだと思います」

養育費の調停は1年半ほどかかっていた。病気と闘いながら正社員として働いている歌島さんにとって、それは大きな負担だった。

そんなとき、地元の友人から、歌島さんの中学からの大親友が自殺したことを告げられる。ウツっぽかったのは知っていたが、しかし、まさか……。

大きなショックを受けた歌島さんは、原因不明の麻痺で全身が硬直。家事もままならなくなった。


(筆者撮影)

「身体が右曲がりに硬直して、まったく動きませんでした。舌もしびれてしまったので、言葉も発せられない状態で……」

兄に付き添ってもらい、精神科の主治医に見てもらうも、意識が朦朧としていて病名はハッキリ覚えていない。仕事も当然退職に追い込まれた。生活するのが困難になり、母親のところに身を寄せるしか方法がなくなった。

元夫の自殺で養育費がなくなり、遺族年金は折半に

この3年後、元夫が突然自殺した。

「元夫は、いつの間にか後妻とも離婚していました。養育費減額の調停はその離婚があったため立ち消えて。その後、新しい女性とかかわっていたみたい。そこでもさらに男女のもめごとがあったようでした。詳しくはわからないですね」

自殺の一報が耳に飛び込んできたとき、歌島さんの子どもはまだ小学4年生。しかし養育費は消滅、シングルマザーにとって命綱とも言える、月4万円ほどの母子手当(正式名称は「児童扶養手当」)もなくなった。

法律では、「(夫の死亡で)遺族年金が1円でも出ると、母子手当は停止」となる決まりがある。また、遺族年金(※)も「遺族基礎年金」と「遺族厚生年金」の2種類あるが、歌島さんが支給できるのは「遺族厚生年金」のみ。結果、歌島さんがもらえることになったのは2カ月に1回の支給で、ひと月あたりたったの2万2000円。

通常は満額がもらえるはず遺族厚生年金だが、後妻に子どもがいたため折半となったのだ。

元夫の後妻はすぐに新しい男性と結婚し、向こうは経済的には1つも困っていなかった。

「それに比べ、うちは毎日ギリギリの生活。それでも遺族厚生年金は折半なのか……と歯がゆく思いました」

「さらに、遺族厚生年金は子どもが18歳までなので、うちの娘分が切られると、折半だった金額が全額、後妻の子どもに入るようになるんです。不公平ですよね」

生活保護の実際と見逃されがちな母子の優遇制度

現在、歌島さんは奨学金で夜間専門学校に通う19歳の娘と2人暮らし。身を寄せていた母親の他界後、生活保護を受けながら、日々を暮らす。

生活保護になってからの生活は、実際のところ、なかなか厳しいものだ。

歌島さんの明細を一部だけ見せてもらった。最近の月で言えば、生活保護費(保護の種類および補助額)が一定の決まった計算で18万7000円と出ている。しかし、その月は日雇いバイトができたのと、娘のバイト代が出たので、合わせた金額が「収入充当額(※)」として、そこから一定額引かれている。さらに、住宅扶助としての6万4000円が毎月引かれるので、実際の生活費は14万6000円だ。

(※収入充当額の計算は、平均月額収入-(必要経費の実費+各種控除)=収入充当額 となる。『厚生労働白書 平成22年度資料』より)

「働いても半分以上は『収入充当額』として『保護の種類および補助額』から差し引きされるので、大して生活費は増やせません。服を買うときは古着屋かセールで。いちばん大変なのは、女性が毎月必要となるナプキン代です」

「生活保護に一度入ると働いても(差し引かれる分が大きいため)なかなか自立のための貯金ができない。思った以上に(生活保護は)抜け出しにくい仕組み。困惑しましたね」

それでも、どうにかおカネを残したいときは、食費を切りつめた。定番は、具沢山の味噌汁とご飯のみのメニュー。

「娘がいるので、栄養バランスは考えます。複数の野菜と鶏の胸肉を入れたスープとか。胸肉は安いし、ボリュームも出るし、ビタミンやカリウムも豊富でいいんです」

その他、キャベツなどの野菜の芯を使い、ちょっと果物を足して、スムージーなどもよく作る。ちょっと工夫して、シャーベットにすることもあった。

また歌島さんは「母子の受けられる制度は自分で調べないと損する」とも話す。

「私は徹底的に調べて、娘の専門学校に相談に行き、どうにか『母子父子寡婦福祉資金貸付金制度(※)』を適用してもらいました。でも実際のところ、専門学校の職員でもこの制度を知らない人がいて。最初、『うちでは使えません』と言われたんです。こちらが怯んでいたら、適用されず、娘は専門学校には通えなかったでしょう」

(※母子父子寡婦福祉資金は、配偶者のない女子又は配偶者のない男子であって現に児童を扶養しているもの等に対し、その経済的自立の助成と生活意欲の助長を図り、あわせてその扶養している児童の福祉を増進することを目的とする。厚生労働省より)

幸い、歌島さんの病気はここ2年ほど落ち着いている。アロマを取り入れた生活をしていて、気持ちが前向きになれているそうだ。

「最近、娘が自立できる年齢になったので、扶養から抜いたんです。ようやく自立のための貯金ができるかなと思っていた矢先、役所から、私一人分になる生活保護の金額の通知がきました。厳しい現実です」

「必ず自立して、人生を輝くものにしていく」

1カ月の生活費は7万円ということだ。歌島さん1人分の生活保護費から、単純に住宅扶助を引くと、残るのは7万円のみ。今後、娘の生活費は出ないため、娘は一年制の夜間専門学校に通いながらバイトをし、家に自分の生活費を入れないとならない。そして、専門学校卒業後は(二人分の住宅扶助が一人分になるため)家を出て自立しなければならない。

「娘には苦労をかけて申し訳ないと思っています。でも、その都度2人で家族会議して、本音を話し合いました。本音でぶつかってきたので、今の親子関係があります。芯が強くて、優しくて、自慢の娘です」

娘とは辛い時期があってもコミュニケーションは欠かさなかった。大変なときも2人で乗り越えてきたから、親子の絆はどこの家庭より強いと自負がある。

「私たちはこれからも前を向いて生きていきます。笑顔が取り柄なので、笑顔だけは忘れません」

そして、歌島さん自身にも夢がある。

「アロマの資格を持っているので、将来はアロマセラピストとして活動していきたいと思っています。自分も全身麻痺で動けなかったとき、精神障害で悩んだとき、アロマの力を借りて回復してきたから。今度は私が人を癒やしてあげたい。スポーツに携わる人などの心身のケアができたら本当にうれしいです」

やる気にあふれた表情でそう語ってくれた歌島さん。自立に向かって突き進み、自身の夢をかなえる日が必ず来ると信じている。