日本でたびたび議論に上がる「自分たちのサッカー」【写真:Getty Images】

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日本でたびたび議論に上がる「戻るべき場所」の有無

 同じ言葉なのに、すっかり印象が変わってしまった。

 「自分たちのサッカー」だ。

 4年前のブラジル・ワールドカップ(W杯)の時は、ポジティブな意味で使われていたと思う。自分たちの特徴を生かしたサッカー、長所を発揮して勝つサッカー……そんな意味で使われていた。しかし大会後には、「自己満足のサッカー」というネガティブな意味に変わったため、うっかり「自分たちのサッカー」とは言えなくなってしまった。「自分たちのサッカー」は、日本代表の後進性を表す言葉のように受け取っている人もいるかもしれない。

 しかし、もうすぐ始まるW杯とは、まさに「自分たちのサッカー」の祭典である。「自分たちのサッカー」だらけだ。

 本田圭佑や遠藤保仁は「日本にはまだ確固としたスタイルがない」と話している。迷った時に「戻るべき場所」がないと。その点、W杯常連の伝統国は確かに自分たちのスタイル、「戻るべき場所」を持っている。いや、むしろその場所から一歩も出ないと言うべきかもしれない。

 変わりたくても変われないのか、それとも最初から変わる気などないのか。ほとんどの代表チームのスタイルには変化がない。ずーっと「自分たちのサッカー」だ。ブラジルやスペインが「自分たちのサッカー」を変えないのは理解できる。それで十分優勝を狙えるからだ。ところが、一度も優勝したこともなければベスト4にも入れないような国が、頑なに「自分たちのサッカー」にこだわるのはなぜなのか。これはもう反省がない、マンネリで進歩がないと言うべきなのではないか。


一目で分かるスウェーデンの整然としたスタイル

 ポルトガルは2年前の欧州選手権(EURO)で初優勝した。初のビッグタイトル獲得、悲願の優勝だった。大会中に守備的なスタイルに変化し、守り倒す形で優勝した。ところが、大会後は何事もなかったように元のスタイルに回帰している。

 やっと優勝できたのだから、「よし、これからはコレでいこう」となっても良さそうなものだが、全然そうなっていない。監督も代わっていないし選手もほとんど同じ。それなのに、まるで当然のことのように「戻るべき場所」へ戻った。本当は戻るべきでない場所かもしれないのに……。

 2016年のEURO優勝は“たまたま”であり、“成り行き”でああいうサッカーになっただけで、あんなものは全く信用していない。そういうことなのだろうか。“まぐれ”は二度と起こらないので、また地味に攻撃的な「自分たちのサッカー」に戻ります、ということなのか。

 スウェーデンの手堅いサッカーは、少なくともここ20年以上全く変わっていない。定規で引いたような4-4-2の律儀なライン、極めて規則的なゾーンディフェンス、実に整然としたプレーぶりだ。1994年アメリカW杯で3位になっているが、それ以後はそこそこ勝てるがそれ以上はいかないチーム力に留まっている。

 規則的なゾーンディフェンスは、それ故に弱点も規則的に存在する。例えば、DFとDFの間のスペースに敵が入ってきて、そこにクロスボールを合わされて失点したとしても、スウェーデンのサッカーにおいてそれはもう仕方のない失点なのだ。それよりもゾーンが優先で、いわば100%守れる守備はないので、70%確実に抑えるためなら30%は捨てて構わないという割り切りが感じられる。攻撃に意外性はあまりなく、長身FWを生かしたパワフルなプレーがほとんど。パワーが通用しなくなると点が取れない。だから、ある程度は勝てるがそれ以上にはならないのだが、スウェーデンは頑なにスタイルを変えない。変えられないのか、変える気がないのかよく分からないが、ずっとひと目でそれと分かるぐらい「自分たちのサッカー」だ。


変化できないのか、そもそもその気がないのか

 カテナチオからの脱却を図るたびに揺り戻して原点回帰しているイタリア、自分たち主義の総本山とも言うべきオランダは、揃って予選落ちしてロシアW杯に出場しない。メキシコは常に「自分たちのサッカー」を貫いていて、惜しいところまで行くがベスト8の壁をどうしても越えられない。

 20年に一人、世界一のスーパースターを輩出するアルゼンチンは、“スーパーウェポン”のディエゴ・マラドーナ、リオネル・メッシを生かし切るために、残りの選手がハードワークに奔走する。大エースの二番手すら出る幕はない。マラドーナとリカルド・ボチーニは共存せず、メッシとパウロ・ディバラもたぶん無理だろう。むしろスーパースターがいない時の方が、全員で技巧的なプレーをする。二つの両極なプレースタイルを行き来するのが、アルゼンチン流「自分たちのサッカー」だろうか。

 ブラジルはタレントの出し惜しみをしない。ジーコ、ソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾがいれば全部出す。ペレ、トスタン、リベリーノも並べる。ロナウジーニョ、カカ、ロナウド、アドリアーノもOK。ただ、それ故に足をすくわれることも多く、ちょっと反省してバランス重視に変えたりするが、そのうちすっかり忘れて同じことを繰り返している。バランスを重視すると国民の受けも悪い。

 クラブの大会であるUEFAチャンピオンズリーグ(CL)と違い、W杯は4年に1回。それまでは強化期間もほとんどないので、4年周期のぶっつけ本番に近い。最新の戦術を見る場というより、国ごとの個性、特徴、伝統、つまり「自分たちのサッカー」の見本市だ。戻るべき場所というより、そこから一歩も出ないチームばかり。40年前の弱点が相変わらず弱点のまま。あまり反省していないし進歩も怪しい。「自分たちのサッカー」は、“わかっちゃいるけど、やめられない”に近い。それでも変化しようとしないのはなぜか、変化できないのか、それともそもそもその気がないのか。その気がないのはなぜなのか。

「自分たちのサッカー」の祭典であるW杯は、最新の戦術を探る場ではない。各国のアイデンティティーを愛でる大会になっている。もちろん、どのチームも勝つ気はあるわけだが、「自分たちのサッカー」はむしろ勝敗を越えたところにある。手段と目的がごっちゃになった挙句、他人に指摘されて初めて「え、サッカーってこうじゃないの?」という自覚のない領域に入っているさまが、いっそ清々しい。


(西部謙司 / Kenji Nishibe)